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08.ゼファレス・ファ・ヴォルシュタイン

「ルシア、寒くない?」

「そうですね……あなたは寒くないのですか?」

「オレは竜だからねぇ。仮に服着てなくても大丈夫だと思う」


 そう言うカグツチの礼装の第一ボタンが外れているのが目に入った。


「会場に戻る前に服装チェックですね……」


 夜風が冷たく、白薔薇の影が細く伸びる。


 ――そろそろ戻ろう。そう思った矢先だった。


 テラスの空気が重くなる。

 カツン、と硬い靴音。

 扉の向こうから現れた青年の姿を見た瞬間、息が止まった。

 

 ゼファレス・ファ・ヴォルシュタイン。

 

 褐色の髪は後ろで束ねられ、透きとおるような琥珀色の瞳が、まっすぐに私たちを見つめていた。

 白色の正装。その左袖だけが空虚に揺れていた。

 

「……これは、ごきげんよう。王家の御血筋をお持ちの方と、こんな僻地のテラスでお目にかかれるなんて。私などにはもったいない光栄ですわ」

 

 自分でも驚くほど声は整っていた。

 だが彼の瞳はどこまでも静かだった。

 

「ごきげんよう、ルシア・ヴァレット。今日まで、何人もの口から君の名を聞いた」

 

 ゼファレスは歩みを止めず、薄い笑みを浮かべる。

 私は一瞬で背筋を伸ばし、内心を整えて返す。

 

「それは……ありがたく拝受(はいじゅ)いたしますわ」

 

 ゼファレスの微笑――それはどこまでも薄く、冷たく、硝子細工のように壊れやすい美しさを帯びていた。

 あまりにも人間味を感じないその所作に、背筋が冷える。

 

「ゼファレス・ファ・ヴォルシュタイン――ファという名の意味をご存じですか?」

 

 唐突な問い。

 しかし私はすぐに答えを探していた。

 記憶の奥にある書物の頁が、星光に照らされるように開かれていく。

 

「……燃える者。そして、ファは始原の音――神の言葉で、命が名を得る時の響き」

「お見事。さすがはヴァレットの令嬢」

 

 ゼファレスは、ほんの僅かに笑みを深めた。

 だが、どこまでも他人行儀で、意図が読めない。

 

「ファという名は、正しく発せられた時、火を起こす呪でもある」

 

 ひと呼吸分の静寂が降りた。

 白薔薇が、夜風にかすかに震える。

 その言葉の重みを、すぐには飲み込めなかった。

 

「その名を持つ者は、世界に火をつけるために生まれたのだと僕は思っています」

 

 熱の正体がゆっくりと形を取る。

 比喩ではない。理想でもない。――王族の本心そのものだ。

 

 風が白薔薇の花弁をひとつ運んだ。

 その言葉に込められた熱は、悪い予感と冷や汗を運んでくる。

 支配の意志。

 焼き尽くすような理想。

 そして、それを語ることに迷いのない目。

 

「ルシア・ヴァレット」

 

 名前を呼ばれた瞬間、心臓がひとつ跳ねた。

 ゼファレスは柔らかく、けれど選定する者の声音で続ける。

 

「僕は貴族は嫌いですが、君には興味があります。アグレストの彼より、君と話がしたかった」

 

 彼の言葉は称賛ではなかった。

 役割を選び取る者の目線は、捕食者のように爪を研ぐ。

 

「君のような強い鞘があれば――どんな刃も誤たずに済む」

 

 白薔薇の枝が、風に鳴った。

 その言葉が、夜気の温度を変えた。


 称賛ではない。

 甘言でもない。

 私を役割として選び取る声――冷たい選定。

 胸の奥で、何かがきしむ。

 王家の視線とは、こういうものなのだ。

 

 指先が伸びる。

 白い指が、ためらいもなく私の頬へ触れようとした――その瞬間、カン、と靴音。

 カグツチが私の前に立っていた。

 

「彼女は主の許の人だ。――触れれば、剣を抜く」

 

 空気が裂け、僅かに熱を帯びる。

 ゼファレスの瞳が細まる。

 カグツチに向けたそれは、静かで冷たく、それでいて確かな――怒りだった。

 

「……驚いた。勝手に喋る貴族の道具(ドラグマキナ)など、珍しいことこの上ない」

 

 王家の圧が落ちる。

 呆れている、と言った感情に近い。

 だがカグツチは一歩も引かない。

 

「名前の意味と、その人間の振る舞いは、別問題だ」

 

 空気がきしんだ。

 重さでも温度でもない――圧力そのもの。

 王家と竜種、どちらが先に刃を抜くか。

 その均衡が、音もなく傾き始めていた。

 

 ほんの一瞬の静寂。

 その間が致命的になり得るほど、危うい空気が重く伸し掛かる。

 沈黙が、刃のように張りつめた。

 

 カグツチの言葉はおよそ王族に向ける言葉ではなかった。

 竜種が、王位継承者に反論するなど、死罪に問われてもおかしくはない。

 

 私は思わず、息を呑む。

 けれど、すぐに立ち直った。

 私は、ヴァレット家の令嬢。

 この場を制するのは――カグツチの羽を折りたたむのは、私がやらなければいけない役目だ。


 ゼファレスの隣では、灰色のドラグマキナが沈黙を保ったまま、確実にカグツチを捉えている。

 このままでは、剣が抜かれる。

 言葉ではなく、力の場に引きずり込まれる――。


 その瞬間、私の背中を押すように風が止んだ。

 背筋を伸ばし、裾を揺らしながら膝を折る。


「……この度の非礼、まずは私より、深くお詫び申し上げます」

 

 ゼファレスが、ゆっくりと私を見下ろした。

 

「謝るのは君ではない。罪を犯したのは道具――そして、その主だ」

 

 言葉の刃が、冷ややかに突きつけられる。

 

「アグレストの名を呼べ。主を問う」


 私は、わずかに瞳を伏せて――そして、真っ直ぐに彼の視線を見返した。


「――その件につきましては、私より申し上げたいことがございます、ゼファレス様」


 沈黙。

 ゼファレスは応じるでも拒むでもなく、ただ黙していた。

 私は慎重に言葉を選ぶ。


「この者は、確かに主に代わって剣を抜くことを口にいたしました。けれどそれは主の命によるものではなく、アグレスト家の婚約者として、私をかばうための独断でございます」

「――つまり?」

「すべては、私の至らなさ。――教育と制御の不徹底による失態でございます」

 

 ゼファレスの瞳がわずかに細められる。

 その圧の中でも、私は頭を下げなかった。


「殿下のお立場におかれましては、この場を躾の場とすることも叶いましょう。ですが、今ここで御怒りをお示しになれば、周囲は王家の威光に貴族の竜が抗ったと受け取りましょう」

 

 テラスの風が、白いカーテンをわずかに揺らした。

 

「………………」

「どうか、この場は――()()()()()()()()()()()()、お納めくださいませ」


 沈黙が風のように流れ、薔薇を撫でた。

 やがて、ゼファレスはふっと笑みを浮かべる。


「名に免じて、か。……面白い。家を盾に取るとは」

「貴族の女とは、名を守るために在るものです」

「ふん……鞘としては、よく出来ている」

 

 ゼファレスはゆっくりとカグツチに向き直り、片手を上げた。

 灰色の竜はそれを合図に一歩下がった。

 

「――今夜は見逃す」

 

 カグツチは、ただ静かに私の背に控えていた。

 

「ルシア・ヴァレット」

 

 ゼファレスが再び名を呼ぶ。

 

「……面白い。王の怒りを、名と理屈で封じ込めるとは。君は、鞘であることを誇りにしているのだろう? ならば――君のような鞘は、いずれ王家の刃を持つべきだ」


 私は静かに頭を垂れた。

 それは、敗北ではない。

 生き延びるための一礼だった。


 ゼファレスはそれ以上何も言わず、星の光の道を辿るように静かにテラスを後にした。

 その足音は驚くほど静かで――去り際の空気を、火種のように揺らしていった。


 開かれたままの扉から漏れ聞こえてくる談笑が、遠い別世界の音のように思えた。

 続いて、灰色の竜が一歩進み出る。

 精緻(せいち)な動きで停止すると、無言のままこちらに視線を向けた。

 何を考えているのか全く読めずにいると、やがてすぐにゼファレスの後を追った。

 まるで、今夜の一件がまだ終わっていないことを告げる動作だった。


 風が吹き、夜の帳が揺れた。


 私は隣にいるカグツチを見上げた。

 カグツチは何も言わずに、じっとゼファレスの背中を目で追っている。


「……怖かったですか?」

 

 問うと、カグツチはほんの一瞬だけまぶたを伏せた。

 

「全然。あんな奴、怖がるほどじゃないよ」

 

 いつもと同じ調子。

 だがその尾の先が、わずかに震えていた。

 

 夜気がひんやりと肌に触れた。

 

「……ルシア」

 

 名を呼ばれ、振り向く。

 竜はまっすぐこちらを見ていた。

 迷いとためらいと――それでも消えない確信の光。

 

 カグツチは何かを言いかけてやめた。

 その顔に浮かぶのは罪悪感ではなく、ただ正しいことをしたという静かな自負だった。

 

 私は小さく笑って言った。

 

「……もうすぐパーティーも終わるはずです」

 

 カグツチは言葉もなく頷く。

 その歩幅が、私に合わせるように揃えられていた。


 紅の影が夜の石畳に長く伸び、私の影を包む。

 それは、咎ではなく、庇護のように思えた。

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