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75.母の幻影

 気配が消えた。

 私の合図一つで、カグツチの姿がふわりと宙に溶け、天井の梁の裏へと吸い込まれていく。

 音も、熱も、殺気さえも完全に遮断している。

 そこに最強の火竜が潜んでいるなど、よほどの使い手でも気づかないだろう。


 準備は整った。

 私は眼鏡の位置を直し、ノエルの斜め後ろ――侍女としての定位置に控えた。


 重厚な扉が、独りでに開いた。

 衛兵の声も、取り次ぎの言葉もない。

 ただ一人、その男は音もなく部屋の中へと足を踏み入れた。


 白の礼装。整えられた褐色の髪は一つに束ねられている。

 そして、全てを見透かすような琥珀色の瞳。


 ゼファレス・ファ・ヴォルシュタイン。

 この国の次期王が、護衛すら連れず、単身でそこに立っていた。


「…………」


 彼は部屋の中を見回し、豪奢なソファで優雅に紅茶を啜るノエルを認めると、心底嫌そうに眉をひそめた。


「……後宮一番のスイートルームに、なぜ貴様がいる。ノエル」


 第一声は、威圧ではなく、純粋な不快感だった。


「あら、ごきげんようゼファレス。管理人が通してくださいましたのよ?」


 ノエルは悪びれもせず、にっこりと微笑んだ。


「シロクマが……? この部屋には誰も通すなと言ってあったはずだが、なぜだ」


 ゼファレスは片手でこめかみを押さえた。


「……いや、聞くまでもないか。どうせお前のことだ、めちゃくちゃにやったのだろう……」


 深い、深い溜息。

 それは王の威厳など欠片もない、ただの厄介な知人に絡まれた苦労人の反応だった。

 彼は部屋に入室しようともせず、踵を返そうとする。


「話にならない。帰る」


「あら、もうお帰りになるの? あなたからここへ呼んだのに、失礼でなくて?」


 ノエルが楽しげに呼び止める。


「積もる話もありますでしょう? そうだわ、昔王都で開かれた少年陶芸大会で、あなたが作った傑作――『漆黒魔絶剣ダークネス・スレイヤー』について、思い出話に花でも咲かせましょうか」


 ピタリ。

 ゼファレスの足が止まった。

 空気が凍りついた。


「……黙れ、ノエル。今すぐ地下の池に沈めてやってもいいんだぞ」


 背中を向けたまま、ドスの効いた低い声が響く。

 しかしノエルは止まらない。


「まあひどい。あんなに目を輝かせて『これであらゆる敵を粉砕する』と語っていたのに。……ところでこの後宮、お名前付いてますの? 私が当ててみましょうか? 『絶対結界・絶城アイギス・フォートレス』とか?」


「目など輝かせていない、そんな後宮にそんな名前もついていない……黙れ、もう喋るな……」


 ゼファレスが振り返った。

 その顔には、殺意というよりは、深い疲労の色が滲んでいた。

 アシュレイと言う人質さえなければ、今すぐに後宮から追い出したいに違いない。


「お前と話していると心底疲れる。……この部屋はお前にくれてやるから、一生ここで大人しくしていろ」


 彼は吐き捨てるように言い、今度こそ去ろうとして――。

 ふと、その琥珀の瞳が私を捉えた。


「――待て」


 心臓が跳ねた。

 侍女の変装は完璧だ。気づかれるはずがない。

 私は深く頭を下げ、震えるふりをして顔を隠す。


「ここに入れていいのは、貴族の娘以外は、家から徴用した竜種のみのはずだが。なぜ、人間の侍女がいる」


 冷徹な問い。

 それを咎める声には、先ほどまでの呆れなど微塵もない、支配者の冷たさが宿っていた。


 殺気立たせないように、私は息を殺す。

 ここで正体がバレれば終わりだ。


「あら。私に一人で炊事洗濯掃除をしろと?」


 ノエルがカップを置き、呆れたように肩をすくめた。


「いいかしら、ゼファレス。私が掃除をすれば、この離宮の歴史ある壁画や装飾は、(ほこり)と共に摩耗して消滅するわ。だって、私の美的直感に合わない汚れを落とすには相応の破壊が必要でしょう? 私は徹底的にやるタイプですの」


「…………」


 ゼファレスは黙ったまま、じっと私を見つめている。ノエルの話など耳に入っていないかのようだった。

 その視線は、値踏みするようでもあり、あるいはただの羽虫を見るようでもあった。

 ピリ、と。

 肌を刺すような重圧が、彼から滲み出した。

 

「……鬱陶しい。お前の声は耳に毒だ。もう喋るな、ノエル」

 

 低い声と共に、部屋の温度が一気に下がる。

 ゼファレスが、不快感を隠そうともせず、ノエルに向かってゆっくりと一歩を踏み出した。

 無造作に伸ばされそうになったその手に、私は背筋が凍るような悪寒を覚えた。


 私の身体が、勝手に動いた。

 あらゆる面で(アシュレイ)を凌駕しているはずのこの(ゼファレス)が、人と竜の子に受け継がれた怪力を持っていないはずがない。

 もしあの手がノエルに触れれば。

 ただ苛立ちに任せて払われただけでも、彼女の細い首など、枯れ枝のように簡単にへし折られてしまう。


 ――守るべきものが、脅かされている。


 私は音もなく滑るように動き、ソファに座るノエルの前へと割り込んだ。

 彼女を背に庇い、ゼファレスの視線を正面から遮る。


「――っ、ルウ?」


 背後でノエルが息を呑む気配がした。

 分かっている。これは侍女としては出過ぎた真似だ。

 相手は次期国王。不敬討ちにあっても文句は言えない。


 それでも、私は動かずにはいられなかった。

 ヴァレットの人間として――いや、友として。

 守るべきものを前にして、脅威に背を向けることなどできるはずがない。

 

 私は顔を上げ、眼鏡の奥からゼファレスを真っ直ぐに見据えた。

 敵意はない。ただ、一歩も退かないという意志だけを込めて。

 

「……殿下。お戯れが過ぎます」


 静まり返る部屋。

 ゼファレスの琥珀色の瞳が、わずかに見開かれた。

 

「…………」


 彼は私を見ていた。

 王になる自分を前にして、震えもせず、媚びもせず。

 ただ背後の守るべきもののために、自らの身を盾として差し出す、その姿を。


 ――あの日、竜継の儀のテラスで彼の前に膝を折った時の姿がいまと重なる。


 ――不敬だと殺されるのだろうか。

 しかし今の私は竜種だ。角さえ折れなければ致命傷にはならないはずだ。

 そう覚悟して、奥歯を噛み締めた、次の瞬間。


 ゼファレスの瞳から、冷酷な光が消えていた。

 代わりに宿っていたのは――とろりと濁ったような、ひどく無防備で粘着質な熱。


「――」


 彼はうわごとのように小さく息を漏らし、一歩近づいた。

 伸ばされた手が何かに触れるように空を切った。

 その瞳は私を見ていなかった。

 私という存在を透過して、その向こうにある絶対的な庇護者の幻影を見ているような――飢えた子どもの目だった。

 

「……いや、なんでもない」


 ゼファレスはハッとしたように手を引くと、熱の籠もった瞳で私を一瞥し、満足げに口角を上げた。


「……特別に許可する。ここにいていい。しかし騒ぎは起こすなよ、ノエル」


 そして、ノエルには目もくれず、踵を返した。


「また来る。……次は、茶を用意しておけ」


 そう言い残し、ゼファレスは部屋を出て行った。

 バタン、と扉が閉まる。

 遠ざかる足音が消えるまで、私は硬直していた。

 天井裏のカグツチに気づかれなかったことへの安堵よりも、もっと別の、おぞましい恐怖が私を支配していた。


 興味を持たれた――いや、気に入られた。

 けれど、それは私自身を見てのことではない。


(あの濁った熱、執着……。自分を庇い、前に立ちはだかる存在に、彼は誰かを重ねていた……?)


 私はガクリと膝をつき、口元を覆った。

 背筋を悪寒が這い上がる。

 殺気の方が、まだマシだったかもしれない。


「……ル、ルシアさん、大丈夫ですの!?」


 ノエルが慌てて駆け寄り、私の肩を支える。


「……ノエルさん。あの男は、私に幻影を見ていました」


 震える声で、私は推測を口にした。


「自分を叱り、庇ってくれる存在……。まさか、私に母親を重ねている……?」


 ノエルが息を呑む。

 けれど、彼女が言葉を返すより早く、頭上から凄まじい異音が響いた。


 ――ミシッ


 それは、天井の梁が熱で軋む音だった。

 慌てて見上げると、カグツチが音もなく床へ降り立っていた。


「………………」


 彼は立ち上がったまま、微動だにしない。

 いつもの人懐っこい表情は消え失せ、顔面は蒼白。

 何より、その金色の瞳が、これ以上ないほどに濁っていた。

 純粋な嫌悪と、それを上回る殺意を必死に隠しているようだった。


「……ねぇ、ルシア」


 低く、どこか懐かしむような、それでいて震える声。


「あの日、テラスで。オレはルシアの前に立って――触れれば剣を抜くって言った」


 カグツチは低く笑う。笑い声に、温度がない。


「あの時のオレには、あいつの視線がただの王族の傲慢な値踏みにしか見えなかった。ルシアを便利な道具として欲しがってるだけだって……そう思ってた」


 カグツチの瞳の奥で、金色の火花が弾けた。


「でも、違ったんだ。今日、天井裏でルシアがノエルの前に立つのを見て――あいつの目の奥底に隠れてたものの正体が、やっと分かった」


 言葉が途切れる。カグツチは拳を握りしめた。


「……計算なんかじゃない。ルシアに自分の欲しいものを勝手に重ねて、貪ろうとするような……ひどく歪で、気色悪い執着だ」


 カグツチは私の前に膝をつき、私の手を壊れ物を扱うように両手で包み込んだ。

 彼の熱は、もはや温もりを超えて、周囲の空気を歪ませるほどの質量を持っていた。


(そうだ。あの日、テラスで彼が私を鞘と呼んで手を伸ばしてきた時。私はそれを冷徹な選定だと思っていたが、その仮面の奥にはすでに、この異常な熱が孕んでいたというのですね……)


 だからカグツチはあの夜、理屈ではなく本能でその危険な熱を察知し、自覚のないままに私の前に立ち塞がってくれていたのだ。

 彼に包まれた両手から、強い熱が伝わってくる。

 それでも、その手は決して私を火傷させることはない。


 私という個を真っ直ぐに見つめ、ただ純粋に案じてくれる、不器用で優しい熱。


 それに引き換え、ゼファレスの視線はどうだ。

 私という人間の輪郭など見ていない。ただ自分の空洞を埋めるための幻影として私を消費しようとする、どろどろに濁った、凍えるような熱。

 同じ熱を帯びていながら、両者はあまりにも対極だった。


「……アシュレイとゼファレスの母君は幼い頃に亡くなったと聞いておりますわ。それ故に、愛情に飢えていたのでしょうか。……だとしても!」

 

 ノエルが吐き捨てるように言った。

 

「もし、それが婚約者を死罪に掛けるほどの理由なのだとしたら……最高に気持ち悪いですわね」


 カグツチは、私の手を自分の額に押し当てた。

 やがて顔を上げたその瞳には、かつてアルトを失った時に持てなかった自分自身の理由による怒りが、完成された形として宿っていた。


「アルトは、あいつの悪意に壊された。でも、ルシアをあいつの歪んだ執着なんかに絶対に触らせない」


 カグツチは低く、誰にともなく囁くように誓う。


「次にオレがあいつの前に立つ時は、その首が落ちるのを見届ける時だ」

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