06.竜なき家
玉座の傍、もう一つの席から視線だけがこちらを撫でた。
その主を探す間もなく――翡翠色のドレスの影が、こちらへ歩み寄ってきた。
栗色の髪に金糸の飾り。
視線だけで場を握るような、鋭い気配に自然と背筋に力が入る。
「ご挨拶がまだでしたね、ヴァレット家の令嬢。フェリシア・ハンガー・ロズベルグと申します」
――ロズベルグ家。社交界でも名の通った家の令嬢だ。
ついこの間、竜継の儀を行ったと聞いているが、私は参加していない。
名前を知っていても、実際に言葉を交わすのはこれが初めてだった。
彼女の視線は、まっすぐに私を見ていた。
ただの挨拶ではない。会話の主導権を掌握するための圧だった。
私は微笑を浮かべて一礼する。
この社交の場において、笑うことすら戦いだ。
「ごきげんよう、フェリシア様。ルシア・ヴァレットですわ」
「お噂はかねがね。ヴァレット家のご令嬢として、お名前は何度も耳にしておりました……えぇ。かつては」
「ふふ、ご丁寧に。光栄ですわ」
彼女の言葉には一片の曇りもない。
私を過去の存在として扱うその所作は、優雅で、残酷だった。
「ルシア様は竜継の儀は――いえ、失礼。竜なき家には不要の儀でございますものね? 成人の儀まであと何年でしたかしら?」
「ええ、四年後――フェリシア様と同じ場に立てるよう、努めて参りますわ。その日を楽しみにしております」
その返答が気に食わなかったようで、フェリシアの表情が僅かに歪む。
なんて分かりやすい人。
次は話題でも変えてくるのだろうか、と笑みを湛えていると、予想通りフェリシアが口を開く。
「今日の竜継の儀……本当に見事でしたわね。アルト様が継がれた貴族の道具――カグツチは、すでに諸侯のあいだでも話題ですのよ」
「はい。本日この場に立ち会えたことは、私にとっても光栄でした」
「あれほどの竜を持つ家は心強い、と……皆様、口を揃えておりましたわ」
「まあ……皆様がお喜びなら、私も安心いたしましたわ。カグツチは、とても誇らしい竜ですもの」
その鋭い社交の刃は、私の首を切り落とす機会を目を光らせながら伺っている。
そして――フェリシアの目が細められた。
「でも、ほんの少しだけ思ってしまいましたの。継承断絶のヴァレット家のご令嬢が、なぜこの場――アルト様のお隣に立っておられたのでしょうか、と」
私は声色を変えずに返す。
「……ご心配くださって、嬉しく思いますわ。ですが私は、正式に招かれておりますので」
そこで、柔らかく目を細める。
「――彼は、私の婚約者でございますの」
フェリシアは唇を歪めて笑った。
そのまま覗き込むように身を傾ける。
「あら、そうでしたの。ですがね……ルシアさん。そのまるで主役のようなご表情。貴族として、少し越えておられましたわ」
「そのようなつもりはございませんが――ご心配、恐れ入ります」
「いえ、礼儀の範疇ですわ。ルシアさんがアグレスト家に嫁げば、ヴァレット家の剣なき時代も、ようやく正式に幕を閉じるということですもの」
突きつけられた刃は事実そのものであり、心を揺らすものではない。
――その時だった。
紅い影が視界を覆う。
「言葉が過ぎていると思いますよ、フェリシア嬢」
私は目を見開いた。
その瞬間、場の空気が一気に冷えた。
周囲の視線が、波のようにこちらへ向く。
私とフェリシアの間に割って入るようにして、カグツチは口元に笑みを貼りつけたまま言った。
「剣が判断することを、主は許しております。少なくとも、オレの主はね」
竜が社交の場で言葉を発するなど、禁忌に等しい。
まして今夜は、王の御前だ。
「……あら。この剣、喋るの?」
これは、まずい。
社交の場において竜が言葉を発するなど――今すぐにこの場から叩き出されても何も言い返せない失態である。
フェリシアが何かを言いかけた、そのときだった。
「――その辺りでよろしいのでは?」
柔らかい声が、空気の緊張を静かに切った。
いつの間にか背後にいた男――グレイシャルが言葉を挟んでいた。
「場を乱すつもりはないでしょう? ロズベルグのご令嬢」
「なっ……グレイシャル卿」
「……さて、カグツチ。主の顔を潰したくないのなら、場を乱すべきではない」
グレイシャルの言葉に、カグツチは動く気配がない。
内心慌てつつ、決して表に出さぬよう一歩前に出る。
「カグツチ、下がりなさい」
私の声は、氷のように静かだった。
カグツチはすぐに頷き、黙って半歩下がる。
今の発言は、擁護ではなく逸脱だ。
「フェリシア様。もし私に至らぬ点がありましたら、謝罪いたします。ですが、今日の儀の主はアルト。この場を乱すことは、どなたにとっても益にはなりません」
「……まあ。私がこの場を乱したとおっしゃるの?」
「いえ。ただ――フェリシア様がどれほどご立派でも、カグツチがあなたに反応してしまえば、この場は簡単に乱れてしまいます。……どうかご容赦くださいませ」
「随分と立派なお言葉ですこと」
私はあえて反応を返さなかった。
笑えば嘲笑い、怒れば喜ぶ――そんな相手だった。
笑わず、泣かず、怒らず。ただ、正しい言葉を選ぶ。
それが今の私にできる、唯一の戦いだった。
「……せいぜい、長くお留まりになれるとよろしいですわね」
フェリシアはそれ以上何も言わず、その言葉を背に彼女は踵を返すと、波のような社交の輪に戻っていった。
その背を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
横に視線をやると、グレイシャル卿がまだそこにいた。
「先ほどは……助け舟、感謝いたします、グレイシャル卿」
私が礼を述べると、彼はゆるく口元を緩めた。
「ふふ、卿などと……近衛騎士団長の称号は、今朝の告示で剥奪されたばかりでしてね。ですが、爵位が剥がれようと、家が消えるわけではありません」
彼は顎でフェリシアの消えた方を示し、肩をすくめた。
礼装の肩には、本来あるはずの金糸の肩章が――静かに消えていた。
爵位が剥がれたところで、歴史あるグレイシャル家にとっては痛くも痒くもない。
「竜の有無で家の格を測るなど……どうにも浅薄ですな」
そこで一度、フェリシアの消えた方へ視線を送る。
「歴史を知らぬ者ほど、古い名を笑う。若さとは、そういうものかもしれませんがね」
誇りとは、誇るに足る行いによって保たれるもの。
ならば今の私は、揺るがず、胸を張って応じるだけだ。
「……ご評価、光栄です。ヴァレットの名に恥じぬよう、これからも務めてまいりますわ」
私はごく自然に礼を取る。
軽く一礼し、彼は踵を返す。
その背に、威圧ではない、揺るがぬ品格があった。
――こういう大人になれるだろうか。
私はふと、自分の背筋を伸ばした。
途端、隣から大きなため息が聞こえた。
見上げるとカグツチが申し訳無さそうな表情でこちらを見ていた。
少しは反省のひとつでもしているのだろうか。
……と、感傷に浸る暇も与えてくれないのが、この竜だ。
「グレイシャルきょーってそんなに偉いんだ?」
「きょー、ではないです。卿。……最も、あなた達のおかげで近衛騎士団長を解任されたようですが。……いいですか、グレイシャル家は千八百年も続く歴史ある家で――」
カグツチはあまり興味なさげに首元を気にしていた。
私は言葉を止めて、小さくため息をついた。
「ねぇルシア~、この服一番上まで止めなきゃだめ?」
隣から緊張感の欠片もない声が落ちた。
なるほど、フェリシアに対しての言動について、正しくない行いだと言う事は全く分かっていないらしい。
明日、ヴァレットの書庫から竜種のマナー教本を何冊か、従者に届けさせよう。
「礼装ですから」
「首しまるの……苦しい……」
カグツチが不満そうに襟を引っ張る。
「ふふ……コルセットがないだけまだマシでしょう? 我慢ですよ、カグツチ」
「確かに……」
私のドレスのコルセット部分をじっと眺めてから深いため息をついたカグツチだった。
その背後で――玉座の傍、もう一つの席の視線が、まだこちらを離さなかった。




