60.王都へ!
それから、約一週間が経った。
ロボが言っていた求人の開始日からは遅れてしまったけれど、カグツチの翼なら一日で王都へ着く。
大規模な採用なら、まだ募集は続いているはずだ。
ここへ来る時にアシュレイが開けたあの重たい門を、今の私は片手で開けられるようになっていた。
人間ではなくなってしまったことへの未練はなかった。
しかし――後天的に竜種になってしまった影響なのか、どう頑張っても竜体になることは叶わなかった。
ふと、カグツチの後ろ姿に目が留まる。
彼の尻尾――以前は真紅一色だったその鱗が、今は光を受けるたびにきらきらと虹色に輝いていた。
番になってから、カグツチの身体にも変化が起きているようだ。
竜体になったら、どれほど美しくなっているのだろう。
雪原に一歩踏み出したカグツチの身体を炎が包み込み、巨大な火竜へと形を変えていく。
渦巻く朱の焔が弾けた瞬間、そこに現れたのは、これまでの赤という一色では語り尽くせない異形だった。
その全身を覆うのは、硬質な宝石の結晶を削り出したかのような鱗。
基本の赤銀を底に湛えながらも、光を浴びるたびに深紅のルビー、蒼のサファイヤ、そして無垢な輝きを閉じ込めたダイヤモンド。
それらが多面的に屈折し、虹彩となって雪原を照らし出す。
翼を広げ、身をよじれば、宝石の鱗同士が触れ合う、チリンという冷たく鋭い音が、冬の静寂を切り裂いて響いた。
これが、この星で唯一完成された個体――その名に恥じぬ美しさだった。
「……ふふ、まるで宝石を散りばめたような鱗なんて素敵ですね、カグツチ」
思わず零れた私の独白に、カグツチは二つの金色の瞳を細め、誇らしげに喉を鳴らした。
「一枚いる?」
「いりませんよ……もらってどうするのです、鱗なんて」
「そっかぁ……」
カグツチは残念そうに零した。
それでも誇らしげに胸を張り、私に背を向ける。
その美しすぎる災厄の背に、私は迷いなく手をかけた。
「ダイヤモンド……」
背後で、ロボが呻くように呟いた。
振り返ると、彼はカグツチの鱗が放つ無垢な光を、どこか眩しすぎるものを見るように細めていた。
「一番硬くて、美しくて……絶対に砕けねェ最強の石」
ロボは小さく鼻を鳴らした。その表情は、嫉妬でも羨望でもなかった。
何か、喉の奥に刺さった小骨の正体を確かめようとして、どうしても思い出せないような――強烈な違和感に苛まれている顔だった。
「……なんか、引っかかるな。この輝き、どこかで見たような……いや、気のせいか」
その言葉は風に流され、誰に届くこともなく消えた。
彼が何と比べていたのか、私には分からなかったけれど――その横顔がひどく寂しげに見えて、私は声をかけた。
「ロボ、あなたも乗りましょう」
私の声で我に返ったのか、ロボはいつもの憎まれ口のような表情に戻る。
「えぇ~……ロボも乗るの?」
即座にカグツチが露骨に嫌そうな声を上げた。
美しい宝石の輝きが一瞬で濁った気がした。
「……仕方ねェだろ、俺は竜体になれねェんだからよォ。振り落とすんじゃねェぞ、クソガキ」
「そんなこと言われたら、乗せないわけにはいかないじゃん。……ずるいなぁ、ロボは」
カグツチは不満げに鼻を鳴らしながらも、その長い首を下げて背中を差し出した。
文句を言いつつも決して拒絶はしないあたり、彼の育ちの良さと、根底にあるお人好しさが透けて見える。
ロボは「へいへい、悪かったな」と憎まれ口を叩きながらよじ登った。
私もカグツチの首元へ移動し、突き出た角の根元に手を添える。
「しっかり掴まっててね。……行くよ」
カグツチが翼を広げた。
バサリ、という風を切る音と共に、チリン、チリンと硬質な音色が重なる。
次の瞬間、強烈な浮遊感と共に、私たちは重力から解き放たれていた。
ぐんぐんと高度が上がっていく。
以前、私をあの広場から氷の城へ運んでくれた時は、私の身体を気遣って低空飛行を続けてくれていた。
けれど今は違う。雲を突き抜け、鳥さえも通らない高みへ。
頬を打つ風は刃物のように鋭く、気温は氷点下を遥かに下回っているはずだ。
人間の身であれば、肺が凍りつき、意識を保つことすら困難な極寒の世界。
けれど――不思議と、耐えられない寒さではなかった。
私の内側で脈打つ竜の血が、あるいは番として繋がったカグツチの熱が、外気の冷たさをただの冷たい風へと変えている。
自分がもう、人間という枠組みから外れてしまったことを、こんなところでも実感させられる。
そして――足元を見下ろした瞬間、息を呑んだ。
「――あ……」
視界いっぱいに広がるのは、白と黒、そして空の青が織りなす圧倒的なパノラマだった。
見渡す限りの雪原。連なる山脈。遠くに小さく見える森の黒い点。
地平線は緩やかに弧を描き、この星がどこまでも続いていることを無言で語っていた。
これまで私が生きてきた王都や貴族の諍い。
それらが砂粒のように小さく、ちっぽけなものに見えるほどの広大さ。
「私たちの住む世界は……こんなにも大きかったのですね」
風に飛ばされそうな独り言だったが、カグツチの耳はそれを拾ったようだ。
彼は速度を緩め、私に見せるようにゆっくりと旋回してくれた。
「うん。……大きいよ。いつか、全部見て回れたらいいのにね」
いつか――そんな日が来るのだろうか。
そう思いながら私は空を見上げた。
雲さえも手の届きそうなこの場所には、灰色の空なんて存在しなかった。
カグツチはしばらくその絶景を私に見せてくれた後、ゆっくりと高度を下げ始めた。
雲の下へ。私たちが決着をつけなければならない、地上へ。
カグツチの紅い翼が風に乗り、王都の方角へと滑るように加速していく。
ふいに、冷たく澄んだ空気の向こうから、聞き慣れた鋭い音が届いた。
風切り音にかき消されてもおかしくない距離だ。
以前の私なら間違いなく聞き逃していただろう。
けれど、竜種となった今の私には、数キロ先の雪の軋み、そして人の怒鳴り声さえも鮮明に鼓膜へ飛び込んでくる。
「待ってください、カグツチ」
私が首筋を叩くと、カグツチはすぐに意図を察して速度を緩めた。
「女と男数人が言い争ってる声が聞こえんな」
背後でロボが身を乗り出す気配がした。
「この声は……」
ゆっくりと近づいていき、やがて眼下に見えたのは懐かしい氷の城だ。
その正門前で、数人の騎士たちが一人の女性を取り囲んでいるのが見えた。
「あれは……」
声の主を確認するまでもない。
鼓膜を物理的に叩き切るような高圧的なキンキン声は、世界にただ一人しかいない。
私がカグツチに目配せをすると、彼は察したように城から少し離れた岩陰へと音もなく降り立った。
岩陰から様子を伺うと、そこにいたのは、以前と変わらず泥のついたドレスを誇らしげに纏ったノエルだった。
「――ですから! 何度申し上げれば理解していただけるのかしら!? 貴方様のその救いようのない語彙力では、王都の招待状もただの果たし状にしか聞こえませんわ!」
ノエルは金槌片手に、武装した近衛兵たちを相手に一歩も引かずに捲し立てていた。
「王命? 王都への招集? それを伝えるその甲冑の磨き具合……鏡を見たことがありますの? 美的感覚の欠片も感じられないその顔色の悪さに絶望して、そのまま不法侵入の罪を自首なさることをお勧めしますわ!!」
ノエルの舌鋒は、近衛兵のプライドを文字通り真っ二つに叩き斬っていた。
兵士の一人が顔を真っ赤にして叫ぶ。
「だ、黙れ! 我々はゼファレス様の命により、貴殿を王都へ――後宮へお連れしに来たのだ! 竜なしの没落貴族に声を掛けてくださっていると言うのになんたる無礼だ! 抵抗すれば力ずくでも――」
「抵抗? あら、芥溜にこの私を呼ぶような真似をしておいて、よくそんな傲慢な口が叩けますわね! ゼファレスに伝えなさいな!『ノエル・センス・スコットの感性に触れたければ、まず三日三晩泥水を啜って出直してきなさい』と!」
あまりの勢いに、兵士たちが腰の剣に手をかける。
状況が悪い。このままでは彼女が傷つけられるかもしれない。
私が飛び出そうとした時、肩を強く掴まれた。
「……待ちな。お前らが出ていったら、ややこしくなる」
ロボは私の肩から手を離すと、自身の乱れた服を整えた。
「俺なら、あいつらに顔が利く」
そう言って、堂々と岩陰から歩み出た。
「おい、そこまでだ。税金の無駄遣いども」
地響きのような低い声が響き、ロボの長身が兵士たちの上に影を落とした。
近衛兵たちが一斉に振り返る。
「な、なんでここにいるんだロボウノイシ! また勝手に出歩いたのか!? なんどゼファレス様に歯向かえば気が済むんだお前はッ!」
「っるせーなぁ、そのゼファレスサマがよォ、ノエル・センス・スコットの輸送は俺に任せるっつったんだよ」
低く、腹の底に響く声でロボは嘘をついた。
ノエルはぽかんと口を開けたまま、ただロボを見ていた。
「それともお前らが運ぶか? このうるせェ女を……王都まで……道中ずっとキンキン声で罵ってくるぜ、このヒステリー女……」
「……ま、まぁお前は腐ってもゼファレス様のドラグマキナだしな」
「ゼファレス様の命であれば、お前に任せよう」
兵士たちは顔を見合わせ、最後には逃げるように馬を走らせて去っていった。
近衛兵たちの姿が雪の向こうに消えるのを見届けて、ロボは盛大に溜息をついた。
「……あー、めんどくせェ」
その言葉が合図だったかのように、硬直していたノエルが再起動する。
「――センス?」
「あァ?」
「いえ、よく見たら全く似てませんわ……」
彼女は手に持っていた金槌を、バシッとロボの腕に叩きつけた。
「ちょっと! 聞き捨てなりませんわね! 誰がキンキン声のヒステリー女ですの!? 私の声は小鳥のさえずりのように可憐で、主張には一本の芯が通っているだけですわ!」
「その一本の芯が太すぎて会話が成立してねェんだよ。……感謝しろよ、あのままじゃお前、猿轡かまされて連行されるとこだったぞ」
「あら、猿轡を噛み砕くくらいの顎の力は鍛えてありますわ」
「鍛える方向がおかしいだろ」
ロボがげんなりと肩を落とす。
もう近衛兵が戻って来ることはないだろうと、私は岩陰から歩み出た。
「無事でよかったです、ノエルさん」
「――え、ルシアさん……?」
私と、その背後にいる人の姿に戻ったカグツチを見て、ノエルの顔がぱあっと華やいだ。
彼女は泥のついたスカートの裾を優雅につまみ、カーテシーで迎える。
が、次の瞬間。
「って、えええぇぇぇ!? なんですのその角ォ!?」
ノエルの絶叫が雪原に響いた。




