59.証明をはじめよう
「八百年生きてて竜の番すら見たことねぇのに、まさか竜種と人間の番を拝めるなんざァ……生きてみるもんだな」
「ルシア、ちゃんと起きるよな? 息……今はしてるし、大丈夫だよな?」
「俺に番の事が分かると思ってんのか? 交配相手すらいねぇ俺が? 嫌味か? 殺すぞ?」
「知るかよ」
騒がしい声にうっすらと意識が戻ってきて、私はここに存在しているのだとようやく安心出来た。
吸い込んだ息が肺に届き、鼓動が返ってくる。
ただそれだけのことで、胸の奥が満ちていくのを感じた。
「……まぁ、平気だろ。ルシアはこうしてベッドの上ですやすや眠ってるしよ。それより――」
ロボはくく、と喉を鳴らして笑う。
「ちっせぇ角! メスは全てのパーツがデカくてなんぼなのに! 圧倒的小ささ! てめぇの母ちゃんもそんなに大きい方じゃなかったけど、それを更に下回る衝撃の小ささッ!! いやもう笑うだろ!」
「は? 世界で一番かわいい角に何言ってんだ? 砕くぞ?」
「ギャッ! てめぇ角はやめろ!? おいやめ、ぎゃああー!!! ひび入った! 絶対ひび入った!! てめぇ角折ったら俺はどこにも還れなくなるんだぞ責任取れんのかオラッ! いだだだ!! やめてッ!! ごめんなさいッ!」
「……ふふっ」
二人のやりとりが、なんだか妙に懐かしくて、もう寝たふりをするのは限界だった。
ゆっくりと瞳を開くと、それはきちんと私の視界だった。
「ルシア!」
その証拠にカグツチがいて、ついでにロボもいた。
たったいま床に投げ捨てられたようだけれど。
ゆっくりと身体を起こそうとすると、カグツチが背中を支えてくれた。
心配そうに私の顔を覗き込むカグツチの赤銀の髪。その隙間から覗く白磁のような角――右側のひびは消えていた。
「……よかった、元に戻ったのですね」
それだけで、まるで全てが終わったみたいに胸の奥がほどけていく。
「うん。……まさか生え変わると思わなかったけど」
言いながら、カグツチは部屋の隅を指さした。
そちらの方向を見やると、まるでガラクタのようにひびの入った角が壁に立て掛けてあった。
……あんなに、ひびに怯えていたというのに。まるで雨傘のような扱い。
あまりの雑さに呆れて、文句の一つでも言おうと口を開きかけ――どくん、と。
心臓が不快な早鐘を打ち、全身から冷や汗が噴き出した。
「……っ」
先程まで見ていた光景の残滓が、私の思考を黒く塗りつぶしていく。
瓦礫の山。向けられる憎悪。あれは一体、なんだったのか。
「大丈夫!? 顔が青いよ」
「――大丈夫です。妙な夢で、少し寝覚めが悪いだけです」
カグツチが不安そうに私の髪を撫でると、ロボが割って入っていた。
「なるほどな……人間が番になると竜種に生まれ直す仕組みなのか。今のルシアは卵から生まれたてのぴよぴよ竜種ちゃんってわけだ。だったらそれは、卵の中で見る原初の夢だな」
「原初の……夢」
竜が卵の中でたった一度だけ見る夢、名の因果が定まる瞬間の記憶。
確定された未来。
呑んだ息が胸の奥へ落ちていく。
「――大丈夫だよ」
カグツチは優しく私の手を握った。
夢の内容を聞かれるかと身構えたが、彼は何も聞いてこなかった。
ただ、その金色の瞳が静かに私を見つめている。
きっと――怖い夢を見たのだと、察しているのだろう。
原初の夢が何を意味するのか、変えられないものなのだと、彼も理解しているはずだ。
それでも。
「どんな因果になろうとも、その時オレは必ずルシアの隣にいるよ」
その言葉は、重くなく、軽くもなく。
まるで明日も太陽が昇るのと同じくらい当たり前のことのように、静かに告げられた。
私はカグツチの手を強く握り返した。
言葉は出なかった。
ただ――その温もりだけが、冷たくなった心を少しだけ溶かしてくれた。
「……それよか、身体は大丈夫かよ」
「そ、そうだった……! ルシア、痛いところは? 変なところはない?」
「変な、ところ……」
そう答えながら、ふと自分の手を見た。
見慣れたはずの自分の手が、どこか違って見える。
何も変わっていないのに、それでもどこか違う気がして、うまく言葉にできない。
「鏡を……見ても、いいですか?」
カグツチが立ち上がり、部屋の隅から姿見を持ってきてくれた。
私の背丈ほどもある大きな鏡を、まるで紙のように軽々と運んでくる。
「どうぞ!」
「カグツチ、手鏡で十分だったのですが……」
「貴族の家じゃねェんだぞ、あるわけねェだろ」
ロボのツッコミに妙に納得しつつ、恐る恐る覗き込むと――
そこには、見慣れた自分の顔。
けれど、頭頂部から僅かに覗く、小さな渦を巻いた黒い角。
「……本当に、生えているのですね」
「オレは確認してないけど、たぶん尻尾も生えてるんじゃないかな……オレは確認してないけど」
何故か念を押すカグツチ。
「気付かないようにしていましたが……腰の当たりにものすごい違和感があります」
布団をめくって見ると――白銀の鱗のついた細長い竜の尻尾がそこにはあった。尻尾の先がぴこぴこ動いている。どこに力を入れたら動くのだろうか。
すぐに布団を掛けて、目を閉じて、深呼吸。
私は本当に人間ではなくなってしまったようだ。
やがてカグツチはベッドの上に腰を降ろすと、安心したように微笑んだ。
私はいつも通りカグツチを見上げる形になる。
……どうやら、身長の方に変化は見られないようだ。
「ルシアがルシアじゃなくなっちゃうって思ったけど――瞳の色は変わってないね」
良かった、と付け加えた。
ちらりと姿見に映る自分の姿を見る。その瞳の色は、変わらず紫水晶の色をしていた。
「――ところで、私が眠ってからどれくらいが経ったのですか」
窓の外に目を向けると、日はまだ昇っている。それでも詳しい時間は分からなかった。
しかし王都へ向かったはずのロボが帰ってきている。
段々と頭の中がはっきりとしてきた。
「ルシアが眠ってから一週間が経ったよ。起こしても全然起きてくれなくて……」
カグツチは何度かまばたきを繰り返した後、珍しくその目を伏せてしまった。
「死なないってわかってても、二度と目を開けてくれなかったらどうしようって思った……」
ぽつりと落とされた言葉に、私は初めて彼の不安の温度を知った。
「随分と心配を掛けたみたいですね……」
「ううん、目が覚めてよかった」
そう言って微笑むカグツチの頬が少しだけ痩けている気がした。
一週間、ずっと心配していたのだろう。
私は何も言えず、ただカグツチの手を握り返した。
しばしの沈黙の後――
「あー……その、な。感動的な寝覚めに水差すようで悪ぃんだがよ」
ロボは言い淀みながら頭を掻いた。
「ゼファレスの戴冠式が、来月行われることになった」
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に先ほどの夢の光景が重なった。
灰色の空。崩れ落ちる城。
そこに立つ、魔王と呼ばれた影。
「……来月」
反芻する私の声は、ひどく乾いていた。
「ああ。ドラグマキナ徴用制度をチラつかせて上級貴族の一部を味方にして押し進めやがった。全ての貴族はもちろん、教会や商会まで招く大規模なものになるらしい。アシュレイはその裏取りのためにまだ王都に残ってる。で、ここからが本題だ」
ロボは懐から、一枚の羊皮紙――安っぽい紙に刷られた求人票のようなものをベッドの隣にあったサイドテーブルに置いた。
「式の準備で人手が足りてねぇらしい。明日から、城の下働き……臨時の雑用係の大量採用が始まる」
私は、シーツを握りしめた。
あそこへ行くための道が、向こうから開かれたのだ。
「……なるほど。式当日まで待つ必要はないということですね。懐に入り込み、内側から食い荒らすには絶好の機会です」
身体の奥底で、黒い何かが歓喜に震えた気がした。
逸る気持ちを抑えきれず、私はベッドから降りようと身を乗り出した。
身体に痛みはない。むしろ、以前よりも羽根のように軽い。
私はサイドテーブルに手をつき、身体を支えようとして――。
――メキョ、と。
湿った木が折れるような、嫌な音が響いた。
「え?」
私の視界がガクリと傾くと、カグツチが慌てて私を支えてくれた。
手をついたはずの木製のサイドテーブルが、まるで腐った果実のように、私の掌の形にひしゃげていた。
力を込めたつもりはない。ただ、軽く触れただけなのに。
「……おいおい」
ロボが呆れたような声を出す。
私は自分の手と、無惨にひび割れたテーブルを交互に見つめた。
距離感が掴めない。自分の出力が、自分の認識と決定的にズレている。
「やっぱり、まだ馴染んでないね」
カグツチが、こともなげに言った。
「ルシアは一度ほどかれて、また編み直されたんだから。新しい身体に魂の認識が追いついていないんだよ」
私は、自分の白く細い指先を見つめた。
見た目は変わらない。けれど、これはもう以前の私ではない。
今のままでは、城に潜入する以前に、些細な動作一つで不自然さを露呈してしまうだろう。
「……制御が必要ですね」
私は、ひしゃげたテーブルの木片を指先で摘まみ上げ――そのまま、粉々にすり潰した。
砂のようにサラサラと落ちていくそれを見ても、絶望はなかった。
むしろ、この制御不能な力が、あの男を殺すための凶器になる。
「一ヶ月……十分です。この新しい身体を、ゼファレスの首を取るために最適化して仕上げてみせます」
私はカグツチの手を借りて、ゆっくりと、しかし確実に床に足をつけた。
魔王が産声を上げ、立ち上がるまでの孵化の時間だ。
「行きましょう。――終わりの始まりへ」
例え目指す空は灰色だとしても。
その先が、今は何も見えないとしても。
さあ、証明をはじめよう。




