05.竜継の儀
幼い私は、大きすぎる神話書を抱えていた。
それが夢だと気づいたのは、そこに幼い自分がいたからだ。
「なに読んでるの?」
背後から声がした。
当時、私はこの淡い陽だまりの色をした瞳の寂しげな少年――アルトと、何を話せばいいか分からなかった。
「……竜と少女のおはなしです」
「どんな話?」
昨日も泣いていたのだろうか。
目が少し赤い。
この時の私は、それが喪失の涙だとはまだ知らなかった。
「まだ全部読めません。でも――絵が好きで」
お気に入りの頁を開く。
そこには、私の大好きな、隣り合う竜と少女の絵が描かれていた。
その瞳は、まるで世界に何ひとつ恐れるものなど存在しないかのように、まっすぐに竜を見つめていた。
「我が命を臓器と成せ。君が心を燃やす限り、我は無に還らん――」
「……どういう意味なのですか?」
「難しいけど……きっと、ずっと一緒だよ、って言いたかったんじゃないかな」
「ずっといっしょ……私とアルトのことですか?」
幼い私は、家族になるという言葉の重さをまだ知らなかった。
アルトは少しだけ泣きそうになって、やがて笑って頷いた。
読めなかった文字にアルトの声が意味を与えてくれた。
あの絵が描いていたのは勝利ではなく、『ともにあること』だった――私はその日、初めてそれを愛と知った。
そこで私は目を覚ました。
温かな声の余韻が、胸の奥にまだ残っていた。
薄く開いた瞼に、やわらかな朝の光が差し込む。
「おはようございます、ルシアお嬢様」
「おはよう。今夜の竜継の儀の正装だけれど――純白のドレスは取りやめて群青のドレスにしてちょうだい」
「承りました。朝食はいかがなさいますか?」
「いつも通りスープはぬるめで。髪は自分で整えるわ」
「承りました」
優雅で静かな朝だった。
窓辺を撫でる光さえ、どこか名残惜しく思える。
この静けさは、滅びゆく家の娘に与えられた最後の猶予にすぎない。
――今日は、アルトの竜継の儀だ。
◆ ◆ ◆
日が沈み、天蓋のシャンデリアが静かに光り、竜継の間を照らしていた。
白い大理石の床に、深青の礼装のアルトが影を落とす。
私は隣に並び、その横顔を見つめていた。
アルトの表情に不安や翳りは見当たらなかった。
豪華絢爛の扉が開き、白衣の従者が告げる。
「王、御前に」
場の空気が一度に収束した。
レヴォネス・ファ・ヴォルシュタイン王の琥珀の瞳がすべてを支配する。
王の御前――それは儀の形式だ。
けれど、玉座の傍にもう一つ、席があった。
白の礼装に金の装飾。
……あれは参列者の色ではない。
王の臨席は儀の定めだ。
――慣例では、ここに次代の席はない。
「アルト・アグレストよ。汝は、カグツチと因果を結びし者。その名を戴き、家に宿し、血に刻む覚悟はあるか。アルト・カグツチ・アグレストとして――今ここに、竜継の誓いを立てよ」
「はい。アグレストとして、私はこの竜を継ぐことを誓います」
その言葉に、背後の扉が重く開かれた。
現れたのは、紅の礼装をまとったカグツチだった。
息を呑んだ。
知っているはずの背丈も、尾も、二本の角も――今夜はまるで違って見える。
赤銀の長髪が静かに揺れた。
歩むたび、会場の空気がわずかに震えているのがわかる。
いつもの飄々とした笑みも軽口もない。
ただ真っ直ぐに前を見据えて歩くその姿は、貴族の竜そのものだった。
――目の前の竜を、私は知らない。
カグツチは主の前で膝を折る。
「この命、すべて貴方に捧げます。どこまでも、お傍に」
炎のような声だった。
アルトがそっと手を差し出す。
「……ありがとう、カグツチ。これからも頼む」
「御意」
指先が触れた瞬間、会場が息を呑んだ。
ドレスの擦れる音さえ躊躇われるほどの神聖な儀式を前に、間は静まり返っていた。
その静寂の中で私は――そのままカグツチがアルトをどこかへ連れて行ってしまいそうな気がして、僅かに目を伏せた。
王が名を宣し、儀は結ばれた。
神聖の幕は下ろされたとばかりに、すぐにざわめきが広がる。
祝いと打算が混じった視線が、一斉にアルトへ向けられた。
晴れて正式に竜を継いだアルトは、これで立派な成人だ。
祝宴のざわめきの中で、私はふと気づいてしまう。
――もう、ヴァレットに竜はいない。
竜を失った家に未来はない。
私が成人したらヴァレットは幕を下ろし、次に続くのはアグレストの名だ。
その礎となる覚悟は、もう決めている。
そう思っていたはずなのに、指先は冷たい。
私はただ群衆の先の彼を見つめていた。
アルトは貴族たちに囲まれながらも、堂々と応対している。
どうやら、私の出番はなさそうだ。
その姿に、胸の奥の不安がわずかに解ける。
――淡い陽だまりの色をした瞳の寂しげな少年はもういない。
軽く息をつき、視線を会場へ戻す。
隣に誰もいないだけでこんなにも身体が冷えるなんて、知らなかった。
玉座の傍、もう一つの席から、視線だけがこちらを撫でた。




