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57.因果の事象地平線

「ところでカグツチ、(つがい)とはどのようになるのですか?」


 私が何気なく――本当に、これからの手順を確認するだけのつもりで問いかけると。

 カグツチの動きがピタリと止まった。

 

 ほんの数秒の沈黙。

 やがて彼は、私を引き寄せていた手をそろそろと離し、「あー……」と気まずそうに視線を泳がせた。


「うん……やり方はね、なんとなくわかるよ? 本能っていうか、こう……ガブッといって、ドロドロのグチャグチャにして混ぜるみたいなイメージはあるんだけど……」


「擬音が汚すぎませんか?」


「でもさ……合ってんのかなぁ……万が一、手順間違えてルシアが死んじゃったとかなったらやだし……」


「待ってください、間違えたら死ぬのですか」


 カグツチは冷や汗をかきながら、私の肩を掴んだ。


「やっぱロボに確認取ったほうがいいかも! オレ、初めてだし!」


「ロボが帰ってくるのが先か、あなたの角が粉々に砕けるのが先か――そんな賭けをする気はありませんが」


「オレもやだ~! ……じゃあ、やるしかないか」


 カグツチは観念したように、大きく、深く息を吐いた。

 そして、顔を上げた時。

 先ほどまでの情けない表情は、綺麗に消え失せていた。

 金色の瞳が、すうっと細まる。


「……ルシア。言っとくけど、痛いよ」


 低い声が、鼓膜を震わせる。

 その言葉が、私の身を案じてのものだと気づくのに、数秒かかった。

 私はごくりと喉を鳴らし、それでも視線を逸らさずに頷いた。


「望むところです」


 私が意を決して頷くと、カグツチはシャツの袖をめくり――自分の腕を顕にすると、そのまま口元へ運んだ。

 カグツチの肌に、鋭い犬歯が突き立てられる。

 躊躇いなど微塵もなかった。


 ――ガブッ、と。

 肉の裂ける生々しい音が、私たちの人間ごっこの終わりを告げた。

 ボタボタと、赤い血が床に滴り落ちる。

 カグツチは血に塗れた腕を、私の口元へとそっと近付けた。

 鉄の匂いと、焼け付くような熱気が鼻孔を突く。


「美味しくはないと思うけど……」


「……え?」


 カグツチは、さも当たり前のように自らの血を差し出してきた。

 私は、ただただ混乱していた。

 竜の血――それを口に入れることは、死を意味すると言われていることを思い出し、思考が停止した。


「ま、待ってください――」


「うん?」


「上級貴族の間だけで交わされている噂です。不老不死を求めて自分の家の竜の生き血を啜ったとある貴族が悶え苦しみ抜いた末に死んだ、と……」


「番でもない人間が飲んだらそりゃ死ぬでしょ」


「番になるとはカグツチの血を私が経口摂取する、と言うことなのですか?」


「うーん……たぶん?」


「たぶん!? ……情報源はどこなのですか?」


「ここ?」


 カグツチは苦笑しながら、ひびの入った角に触れた。


「因果継承体などと大層な名前をもらっておきながらなぜそんな曖昧なのです!?」


「言語化する側の問題だねぇ……どう伝えたらいいのかちょっと難しくて」


 カグツチは苦笑しつつも、いつもの軽口を叩けるくらいには余裕だ。

 その笑みから察するに、竜の血は毒と言うのもまた尾ひれのついた噂話に過ぎなかったのだろうかと思わずにはいられない。


 しかし私はふと気づいた。

 彼は――不安そうに見えて、実は、確信しているのだ。

「たぶん?」などと言いながらも、その瞳の奥には揺るぎない何かがある。


「……カグツチ、あなた、本当は大丈夫だとわかっているのでしょう?」


「うん。ルシアが死ぬことはないって、それだけは確かなんだ」


「では、なぜそんなに曖昧な言い方を」


「ルシアがルシアでなくなるのは確かだけど――それは、怖いものじゃないと思う。でも、具体的に?って言われるとうまく説明出来ないんだよね」


 カグツチは困ったように頭をかいた。


「でも、絶対に大丈夫。それだけは信じて」


 私は、小さく笑った。

 この人は、本当に――。


「……わかりました。あなたを信じます」


 そう言って、恐る恐るカグツチの腕を取った。

 本当は――もう少し、ロマンティックなものだと思ったのだけれど。相手の血を啜るなんてロマンの欠片もありはしなかった。

 カグツチの腕に滴る血を、ぺろりと舌で舐めとり口に含み――飲み干した。

 カグツチの血が口の中にじわりと染み込んで、喉の奥に伝っていく。

 

 次の瞬間、目の前が白く霞んだ。音が止んだ。

 カグツチが焦ったような顔で何か言っている。

 でも、何も聞こえない。

 嫌な気配を感じた。

 まるで形のない暗闇に引きずり込まれるような――恐怖。


 声は出せなかった。

 呼吸がちゃんと出来ているのかもわからない。

 水の中にいるような感覚、(ある)いは肺は恐怖で満たされているのか。

 一人だった。光はない。暗闇にいるのかさえ分からない。


 気付けば私は、上も下もない、無音の闇に放り出されていた。


 カグツチがいない。


 私と言う境界が曖昧になっていく。

 感じたことのないほどの孤独だった。


 直後、激痛が走った。

 身体の中心に、冷たく巨大なフォークが突き立てられたような感覚。

 それを軸にして私という器が、無理やり掻き混ぜられていく。

 私の存在が四方八方に引っ張られ、渦を巻く。

 存在がねじ切られて、あらゆる境界が崩壊していく。

 骨も、内臓も、声も、音も、感覚も、何もかもが溶けて、きらめく光の粒になる。

 痛みの輪郭は確かにあって、でも所在は分からない。

 無音の闇の中に私が溶けて、いなくなっていく感覚。それでもすぐに痛みで引き戻される。

 まるで、痛みだけを感じる道具にされたみたいだ。


 あぁ――これは、終わらない死だ。


 直感でそれが分かった。

 竜種が共有する、果てしなく古い記憶のようなものが流れ込んできて、そう告げている。


 ――これが、因果継承体だ。


 センスが言っていた、あの言葉。

 カグツチが言葉にできなかったその意味を、私は今、はっきりと理解している。

 竜の血――即ち、因果継承体。

 人間の身体に()()が耐えられるはずがない。

 容赦なく流し込まれる情報は蓄積される間もなく内側を埋め尽くして破裂する。理解した途端、分からなくなる。それが延々と続くのだ。

 これを口にすると言う事は、終わらない死を永遠に繰り返し続けると言う事だったんだ。


 音が止んだ。

 温度のない、冷たい暗闇。


 こわい、と。声にならない声をあげた――あげられたのだろうか、それすらわからない。

 寒さに、もう存在するか定かではない手を伸ばした瞬間だった。


 ――果てしない闇の向こうに、青白い光が見えた。


 それは、凍てつく闇の中で唯一またたく、一筋の星の光。

 決して近づいてはこない。けれど、離れていくこともない。

 ただ静かに、因果継承体に飲まれていく私を優しく見守っている。


 その光を見た瞬間、恐怖がすうっと引いていった。

 まるでぬるま湯の中にいるような安心感があった。


 声は出ない。視界もない。感覚も戻らない。でも、痛みはもうなかった。


 思考と感覚が混じり合う。

 彼の呼吸、鼓動、熱――全部が、私の中に流れ込んでくる。

 おかしい。

 違う生き物なのに。種族も、性別も、生きてきた時間も違うのに。

 根底に流れる魂の色だけが、鏡合わせのように限りなく同一だった。

 私の魂と彼の魂は、最初から一つの(つい)であったかのように――恐ろしいほどの精度で噛み合い、溶け合っていく。


 これが、(つがい)と定義された存在の正体。


 視界が戻る――誰かを見下ろしている?

 視界に映るのは、私ではない誰かの手。強く、熱を帯びた見慣れた腕。

 でもそれは、確かに今の私の感覚だった。

 その腕がそっと抱きかかえるのを、私は見ていた。

 その先にいたのは――私だった。

 閉じられた瞼、傷の残る首筋。ぐったりと眠る、見慣れた自分の身体。


 その瞬間、理解した。

 私は今、カグツチの中にいる。

 

 次の瞬間、言葉が洪水みたいに押し寄せた。


 『ルシア、息してない……』


 音じゃない。胸の奥に、直接流れ込んできて、耳の奥が震えるみたいに反響する。

 あたたかくて、優しい。なのに、泣きそうなくらいに切ない。

 私の――今は眠っている方の身体の頭頂部に、小さな黒い渦巻状の角のようなものが、にじむように生えてきている。


 閉じられた瞼。

 肋骨のあたりに視線を落としても、服の規則的な上下の動きはどこにもなかった。


(あれ、これ、私――)


 体温がすっと引いていく。心臓の奥が、氷みたいに冷えた。

 ひどく遠い世界で、自分の変わり果てた身体を見下ろしている。

 「息をしていない」と、さっきカグツチが告げていた。


(私はいま、死んでいる)


 『ルシアの魂は、オレの中で保管できてるはず……でも、どうやって戻すんだろう』


 ――待ってほしい。

 

(この状況で不安になるようなことを言うのは、やめてほしいです……)


 そう思っても、どうやら私の言葉は届いていないようだった。


 カグツチの思考は水に浮かんだ混ざる前の絵の具のように、一秒ごとに違う色を見せた。

 流れが変わった。

 胸の奥――私の怒りに触れられたのがわかった。

 触れられた瞬間、世界が沈む。熱も光もない。質量はないのに重く感じた。

 呼吸の音が遠のいて、代わりに彼の声が響いた。


『……ああ、これが、君の怒りなんだね』


 思考が混じる。私の怒りが、彼の中で形を持つ。

 痛みも苦しみもなく、ただ、重たく沈んでいく。


『ずっと……こんなの、一人で持ってたの?』


 その言葉に、心臓の奥が震えた。

 私の中にあった炎が、ゆっくりと彼の血をめぐり始める。

 悲しみも絶望も、彼の中で姿を変えていく。

 

『これが……ルシアの怒りなんだ。……こんなに静かなものなんだな』


 どくん、と鼓動が響く。

 私の業火のような怒りが、彼の心臓に灯る。

 それは、世界でいちばん静かな心臓の音だった。


 カグツチの表情は見えない。

 でも、感情がそのまま流れ込んでくる。

 

 『痛くなかったかな……』


 カグツチを通して見る私の姿はとても小さく、頼りない。

 この身で王太子に復讐なんて無謀だと改めて思う。

 流れ込んでくる感情の雨が優しすぎて、胸が苦しかった。


 『オレはさ、道具で良かったんだよ。君が望むならなんだってできるよ。臓器(きみ)を手に入れるなら、どんな事だってするって――最初は思ってたんだけどね。でもさ――』


 優しさと愛しさが血の通った生き物のように心に触れる。

 その感情が、私の神経にまで染み込んで、頭の中をぐちゃぐちゃにしていく。


 『オレはルシアのことを、今はもう欠けた自分の臓器なんて思えない』


 感情の雨が止まない。

 耳をふさぐ手が見当たらない。


「大好きだよ、ルシア」


 はっきりと、カグツチの声が部屋に反響する。


 『もう終わったかな……ルシアの魂、ちゃんと戻れるかな? どうやって返したらいいんだろう。触れればいいのか。どこに? ――人間だったらこうするよね』


 ゆっくりと、私の顔が近づいてくる。

 そのまま近づいたらどうなるのか、わかっているのに――目を塞ぐ手も、瞼も見当たらない。


(待ってくださいカグツチ……っ! まだ心の準備とかそういうものが!)

 

 もう、唇が触れていた。


 『……やわらかい』


 その言葉と共に、温かい何かが――おそらくはカグツチの命そのものが、私の唇から流れ込んでくるのを感じた。

 魂が、強引に、けれど優しく器へ押し戻されていく。


 私の意識は、甘い闇へと落ちていった。

 それは、終わりの始まり。

 ルシアと言う個が再定義された――本当の始まりだった。

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