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56.アルト・カグツチ・アグレスト 後編

 しばらくして、私はふと疑問に思ったことを口にした。


「――ところで、なぜその時、辺境の地に行こうと思ったのですか?」


 パンの最後の一欠片を飲み込んだあと、私は何気なくカグツチに問うた。


「クロードとヴィオラ――アルトの両親の葬式が終わったしばらく経って、突然行こうって言い出したんだ」


 アルトの両親は私も面識があるはずだが――流行り病で亡くなったのは私が六歳の頃だ。

 顔さえ思い出せないくらい二人の記憶はおぼろげだ。

 ただ――あの頃、アルトが深く沈んでいたのは今でも鮮明に覚えている。


「別荘のことをアルトは知っていたのですか?」


「ううん、そもそも別荘目指して行ったわけじゃなくて――」


 カグツチは果実を頬張ろうとして、その手を止め、目を見開いた。


「……え」


 間の抜けた声。やがて、銀色のナイフがカグツチの掌から床へ滑り落ちた。

 カシャン、と乾いた金属音を立てて転がるそれを、カグツチは拾おうともせず、虚空を見つめて固まっている。


「カグツチ……?」


「オレはてっきり、クロードとヴィオラが亡くなって、傷心旅行のつもりで辺境の地に行ったと思ってた――でも、違う……」


 カグツチの瞳孔が揺れていた。

 何か恐ろしい見落としに気づいてしまったかのように、彼の顔色がサーッと青ざめていく。


「アルト……分かってたんだ」


「カグツチ、一体なんの話を――」


 私は彼の名を呼んだが、彼の耳には届いていないようだった。

 彼はただ、虚空を見つめ考えに浸っていた。


「葬式の直後に――屋敷で隠し部屋を見つけたんだ。そこでアルトは何か古い本を読んで――」


 カグツチは独り言のように、記憶を辿りながら言葉を紡いでいた。


「……そうだ、アルトはそれを見て辺境の地に行こうって言い出したんだ。あの時はどこを目指してたのか教えてくれなかった」


 先程話してくれた別荘の話。

 カグツチは、覚悟を決めたように私を見据えた。


「目的地は別荘じゃなかった……アルトはもっと奥へ行きたがっていた。辺境の地の更に奥地――アルトは……ロボが言ってた、ヴォルシュタインの故郷へ行こうとしてたんだ」


 カグツチの言葉に、私は息を呑んだ。


 あの時、ロボが語ったゼファリオンの話に出てきたヴォルシュタインの故郷。

 この黒鉄の城の更に奥地にあると言われる、今からおよそ80年前に滅びた限界集落。

 ロボの話では、ゼファリオン亡き後に訪ねたが何もなかった、と言っていた。


「カグツチ、それは――」


 かつて辺境の地に追いやられたという人と竜の子。

 けれど、アルトがかつてその土地を訪ねようとしていた理由――導き出される答えは、あまりにも突飛すぎる。

 カグツチはようやく果実を口へと放り込んだ後、ナイフを拾い上げテーブルの上に置くと布巾で手を拭った。


「……アルトがヴォルシュタインに関係していると、そう言いたいのですか」


「……そこまではわからない」


 カグツチは視線を落とし、首を振る。

 ロボの話によれば、ゼファリオンがヴォルシュタインを名乗ったのは王都へ辿り着いてからの事だ。

 アグレストは300年前、貴族としてアグレスト領とカグツチを王より賜っている。

 

 しかし――


「……もし、ゼファリオンが故郷を発つそれ以前に――辺境の奥地から、人の中に紛れた人と竜の子が他にもいたとしたなら……」


 言いながら私は、恐る恐るカグツチの顔を見た。

 その表情は、理解してしまった人の顔だった。


「……アルトが、アグレストがそうであると――そう考えているのですか?」


 私の問いに、カグツチは少しの間、沈黙した。

 まるで、今この瞬間に全てが繋がったかのように――彼は、ゆっくりと頷いた。


「……たぶん。アルトは、人と竜の子だったんだと思う」


「ですがそれは話が飛躍しすぎですよ。アルトは普通の人間でしたよ」


 カグツチが私の瞳をじっと見つめた。


「ねぇルシア。普通の人間がオレと手合わせして互角なんてありえなくない?」


 たまにカグツチと手合わせしていると言う話をアルトから聞いたことがないわけじゃなかった。

 竜継(りゅうけい)()の前日も、そんな話をしていた。


「……カグツチが本気を出していなかっただけでは? アルトは人間ですし、あなたが本気になればアルトを傷つけてしまうでしょう?」


 しかし、カグツチは静かに首を横に振った。


「もちろん、怪我させちゃうかもしれないから本気は出したことないよ。でも、ギリギリ踏みとどまらなきゃいけないくらいアルトは強かった」


 アシュレイが見せた怪力――そしてロボが語っていたゼファリオンの異常性。

 そんなはずはない。だって私はアルトの異変を一度だって見たことはなかったはずだ。


「アルトは、ルシアには隠してたのかもね。アシュレイも言ってただろ、人と違うって言うのはそれだけで忌避される」


 違う、と否定することが出来なかった。

 ヴァレット領とアグレスト領は離れていなかったとは言え、私たちは頻繁に会話を交わしていたわけじゃない。

 毎日でも会っていれば、私は必ずその違和感に気付いただろう。

 女学院に通うようになってからはもっと会う頻度は減った。

 ……無理だ、気付けるはずがない。


「仮に――アルトが竜種に近い怪力能力を持っていたとして、アグレストにヴォルシュタインのような命定改名(ミューテ・ノメン)のような能力があったとは思えません。祖母の代から付き合いですよ? そんなものがあればヴァレットに共有されているはずです」


「それなんだけどさ、命定改名(ミューテ・ノメン)の能力を聞いた時に思ったんだよね。まるで母さんから名前をもらう時と一緒のことするんだなって」


「……それは、確かに似ていますけれども……」


「もしかして人と竜の子は、人のかたちをしているのに竜の特性を持ってるんじゃないかな」


 カグツチはそう言うと、静かに息を吸い込んだ。


「竜は夢をみない――歴史書にはそう書いてあったんだっけ。覚えてる? センスが言ってた原初の夢の話」


 何を話すかと思えば、唐突だった。

 私は首を傾げながら言葉の意図を探そうとするが、見つからない。


「――えぇ。竜は卵の中でたった一度だけ見る夢、名の因果が定まる瞬間だと、そう言っていましたね」


「オレさ、センスに言われるまで知らなかったんだよね。夢って、最初に見る一回きりなのは竜種だけって」


 カグツチは一度言葉を切り、私を真っ直ぐに見つめた。


「人間は毎日夢を見るんでしょ? ルシアが寝てるときに辛そうなのも、夢に魘されてるからなんだよね」


「……そうですね、毎日ではありませんが」


 カグツチは、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。


「昔、アルトに聞かれたことがあるんだ。カグツチは夢を見る? って。オレはもう原初の夢の内容なんて忘れちゃったから曖昧にしか答えられなくてさ……。そしたらアルトは――昔見た夢がずっと忘れられないって……泣いてた」


 カグツチの手が、微かに震えた。


「その時は、人間も竜種も夢は一度しか見ないものだと思ってた。でも、ルシアは毎日夢を見る。……アルトは違ったんだ」


 言葉を失った。

 本来、人間には見るはずのないその夢を、アルトは見ていたというのか。


「……アルトは、たった一度きりのその夢をどうしても忘れられなくて。……何年も前のことなのに、昨日のことみたいに思い出して震えてたんだ。竜種は何百年も生きるから原初の夢なんて遠い過去になる。でも、人間にとっての何年かは――まだ、昨日みたいなものなんだろうね」


 それを見たわけじゃないのに――淡い陽だまりの色をした瞳を濡らして彷徨う孤独な少年のアルトに寄り添うカグツチの姿が浮かんだ。

 それを知ったところでどうにか出来るわけじゃないのに、どうしてもその光景に手を伸ばしてしまいそうになる。


 アグレスト家はカグツチを傷つけないために、貴族でありながら社交界や決闘に一切顔を出さなかった。

 出していたとしても、竜同士で会話をすることはなかっただろうから――カグツチは原初の夢の存在を知る由もなかったのだ。


「あの本に何が書いてあったのかはわからない。でも、だからアルトは確かめに行こうとしたんだ。自分が何者なのかを。そこに行けば、夢の正体がわかるかもしれないって」


「何か手掛かりは……あったのですか?」


 私の問いに、カグツチは首を横に振った。

 その顔は――不思議と穏やかだった。


「ううん。……行けなかったから」

 

「……え?」

 

「猛吹雪だったんだ。別荘から先に進むには、食料も何もかも足りなかった。……オレがアルトを止めたんだ。二人で別荘に泊まって、次の日、雪が収まった一瞬を狙って帰ったよ」


 カグツチは膝の上で組んだ指先を静かに見つめた。


「結局、夢の謎も、自分のことも、何一つわからなかったんだろうね」


 救いのない結末だった。

 すがるような思いで極寒の地へ向かい、自然の猛威の前に何も得られず敗走する。

 幼いアルトが味わった絶望は、いかばかりだっただろう。


「……では、アルトはずっと夢に怯え続けていたのですね」


 噴水で待ち合わせを約束したあの日の夜も――彼は夢に怯えていたのだろうか。


「ううん、違うよ」

 

「え……?」

 

「何もわからなかった。何も得られなかった。……でも、その別荘で、二人で寄り添って、不味いミイラの実を齧って、外の吹雪を見ながら――」


 カグツチの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。


「アルトは笑ったんだ。オレの適当な言葉でさ」


 謎が解けなかったことへの失望ではない。

 それでも何かを見つけられたような――そんなアルトの表情が、私の脳裏に自然と浮かんだ。


「俺はもう十分泣いたから、って」


 カグツチの言葉に、記憶の蓋が開く。

 あの日。両親を失って泣いていた私の前で、アルトは優しく微笑んで言ったのだ。

 

 『大丈夫だよ。……泣いていいんだ。いっぱい泣いて、あとのことは、全部、泣き止んでからでいいんだ』

 

 あの言葉は、誰あろうアルト自身が、自分の運命に向けて言った言葉だったのか。

 自分は何者なのか、なぜその夢を見たのか。

 答えを求めて旅に出て、けれど望むような答えは見つからなかった。

 それでも、アルトはきっとそこで何かを見つけたのだ。


「俺はもう自分のためには泣かない。残りの時間は全部、ルシアとお前のために使う――って」


 カグツチが静かに告げた。

 その言葉は、まるで遺言のように重く、そしてあたたかく私の胸に降り積もる。


「今ならその言葉の意味が分かる……。アルト、自分が死ぬのわかってたんだ」


 カグツチの金色の瞳が微かに揺らぐ。

 そんなはずない、と否定出来なかった。

 私の視界にはあの日、噴水の前で待ち合わせを約束したあの日の夜の光景が鮮明に浮かんでいたからだ。


 『――大丈夫。君の明日は、きっと晴れるよ』


 晴れなんて訪れるわけがない。

 私の空はいつだって灰色で、だから復讐に縋るしかなかったのに。

 まるでアルトがこの時のために遺した言葉のように、今になって私の胸の一番深いところに突き刺さる。


 あなたも、そう言うのですね。

 その先を見ろ、と。


「ねぇ、ルシア」


 その濡れた瞳が真っ直ぐに私を見つめていた。


「――オレに、君の怒りを分けてほしい」


 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

 カグツチは――(つがい)になると言っているのだ。

 拒否していた彼が、今、自分から。

 

 私は、いまどんな顔をしているのだろう。

 アルトとカグツチの言葉だけが頭を満たしていて、よくわからなかった。


「カグツチ……私はいま、どんな顔をしていますか?」


「笑ってるね。ちょっとこれは予想外だった」


「……そうなのですね。私もよく分かりません」


 本当に分からなかった。

 嬉しいのか、悲しいのか、安心しているのか――全部が一度に押し寄せてきて、ただ涙が溢れそうになるのを必死で堪えていた。


「ですが、とても心が軽いのです――カグツチ、なぜ先程からそのようにニヤニヤとしているのですか」


「んーん、なんでもないよ。ふふっ」


 彼はそう言って笑った。

 私は意を決してソファから立ち上がり、ローテーブルを回り込んで、カグツチの隣に腰掛ける。

 カグツチが自然とこちらを向いて、私たちは向き合う形になった。

 まるでそうすることが自然であるように、彼は私の両手を取った。

 その手つきは相変わらず優しかった。


「カグツチ、私にはやっぱり――復讐の後に残るものなんて考えられないのです。……未来なんて、私には分からなくて」


 考えるよりも先に言葉が出ていた。

 まとまりもない、散らかった単語だけが口の先から零れ落ちていく。


「それでも……あなたに生きてほしい」


 小さく息を吸い込んだ。

 ようやく見つけられた気がする。

 私が――進むべき、その一歩を。


「私の明日は晴れるのだと、証明したいのです」


 カグツチは、私の手をぎゅっと握った。

 その大きな手に包まれている、それだけで妙に心が浮ついた。


「でも、具体的にどうと言われると今はまったく分からなくて……」


 復讐の先に待つものを考えるなんておかしな話だった。

 決して、肯定される行いではない。

 奪われたから奪っても良い――そんな理屈は感情が許しても法は許さない。

 今の私にその先に待つものを想像することは無理な話だった。

 それでも――


「それでいいよ」


 金色の瞳は、まるで私の正しくなさや人の道を外れることも何もかも全てを肯定するようだった。

 言葉が出なかった。


「未来にはオレが勝手に連れて行く」


 彼の優しい微笑みは、その火と同じで。

 私の冷たいところを全部溶かしていくのだった。


「……勝手ですね、本当に」


 私は呆れたように、けれど嬉しさは隠せていないのだろう。

 目の前の彼は、もうただの従順な竜ではない。

 私の地獄も、未来も、全てを飲み込もうとする強欲な、この世でただひとつの厄災だ。


「うん。オレはオルドレアいちの愛され竜だからね。自由で、勝手だよ」


 繋いだ手はそのままに、カグツチが一歩私の方に寄った。

 その距離がゼロになる。


「改めて言わせて。――オレの(つがい)になってほしい」


 頷くことに、もう迷いはどこにもなかった。

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