55.アルト・カグツチ・アグレスト 前編
ロボが去ってから、どれくらい経っただろうか。
私は相変わらずベッドに腰掛けたまま、窓の外を眺めていた。
憎たらしいほどの晴天だった。
ロボは竜体に戻れないと言っていた。まさか歩いて王都まで戻るのだろうか……。
ここから人の足で王都を目指せば、何日掛かるかわからない。馬の足を使ったとしても、雪道を越えて数日は掛かる距離だ。
それを徒歩で、しかもコートも羽織らず軽装で。
やはり、竜種という生き物は人の物差しでは測れない、完成された生物なのだと思い知らされる。
扉が軽く軋んで、音を立てた。
視線を移すと、手に道具箱をぶら下げたカグツチが部屋に戻ってきたところだった。
真冬の外気に少しだけ触れていたのだろう、頬にはまだ薄く冷気の痕が残っている。
自然と、視線を落としてしまった。
「……廊下の壁の修理おつかれさまです」
「うーん……出来たけど色が違う。アシュレイに怒られっかな……まぁいいや、ロボのせいにしよっと」
いつも通りの、あっけらかんとした口調だった。
しかしすぐに私の方を見たまま、立ち尽くす。
「ルシア。……何か、あった?」
その声は穏やかで、棘ひとつなかった。
私は顔を上げられなかった。
「ロボが、王都に戻りました」
「……そっか」
彼はそれ以上は何も言わなかった。
恐らく――私とロボの会話は聞こえていただろう。
しかしカグツチは、ただ、私の前まで歩み寄り、そっとベッドに座ったままの私に視線を落とす。
でもそれだけだった。
言わなかったのではない。言わないと、決めてくれたのだとわかった。
その距離が、妙に優しかった。
だけどそれが今の私には、小さなトゲみたいに刺さったままだった。
私はちらりと彼の顔を見上げる。
その金色の瞳は、何も責めず、ただ――こちらを見ていた。
久しぶりに彼の目を見た気がする。
「おなか空いたから何か食べない?」
そう言って、にっこりと目を細めた。
◆ ◆ ◆
ロボが出かける際に暖炉の火を落としていったのだろう。
主人を失った巨大な暖炉は、今はただ冷たい風を吐き出すだけの黒い穴になっていた。
広い食堂は恒暖石の熱など瞬時に飲み込んでしまうほど冷え切っており、とても食事どころではない。
私たちは食料庫から適当な食材を持ち出し、部屋に戻って食べることにした。
ソファに向かい合うように腰掛け、間の低い机の上に食料を並べたカグツチはご機嫌だった。
当然だろう。私が止めるのも聞かず、彼は自分の好物ばかりを手に抱えて持ってきてしまったのだから。
私は思わず小さく笑ってしまった。
カグツチは本当に変わらない。
それが――少しだけ、心を軽くしてくれた。
「――干し肉、マシュマロ、ピポポポヨタス、マシュマロ、マシュマロ、マシュマロ……カグツチ、あまりにも栄養が偏り過ぎでは」
私が呆れ返って、パンと野菜をそっとカグツチの食物スペースに寄せると、苦笑しながら私の方へ戻した。
私は好き嫌いについて尋ねたことがなかったが、ひょっとして放っておくと好きなものしか食べないのではないだろうか。
「……これさ」
ピポポポヨタスを手に、カグツチの声色がワントーン下がった。
先ほどまでのふざけた調子ではない。どこか遠い場所から響いてくるような、懐かしむような響き。
「懐かしいなぁ。オレ、食べたことないんだよね」
「――そう気軽に食べられる果物ではないですからね。流通量は多くないですし、市場に出ても貴族の買い占めが横行していますから。私も食べたのは何度かしかありません」
「何度かはあるんだ……さすが上級貴族様。いいなぁ」
カグツチの声色が明るくなった。
「まったく……果物一つで家格を決めるのはあなただけですよ」
少し前まで、視線を合わせることさえどうすればいいか悩んでいたのが嘘みたいに、すんなりと言葉が出てきた。
ひょっとしたら私は、難しく考えすぎていただけなのかもしれない。
「下級貴族のアルトとオレには無縁の食べ物だったからね」
さらりと、カグツチの口からその名が出た。
私は呼吸を止めた。
耳に残っていたのは、この間の後悔に塗れた悲痛な叫びだった。
けれど今、彼の声は穏やかで――まるで昨日の出来事を話すように懐かしんでいる。
私は彼を刺激しないよう、手を膝に置き、慎重に次の言葉を待った。
「でもね、オレ知ってたんだ。これ、どんな味か」
「……え?」
「って言っても、食べたことあるわけじゃないけどね」
カグツチは黄色い実を愛おしげに撫でると、独り言のように続けた。
「――まだアルトが小さい時に辺境の地に来たことがあるんだ。その時に使われなくなった別荘群を見つけて、鍵を壊して侵入して――そこに、これが置いてあったんだよ」
ふと、あの日のことを思い出す。
広場からカグツチの背に乗り国境の外へ飛び出したあの日――カグツチは、確かに言っていた。
『国境を越えれば何もないし、追手も来ないと思う。確か使われてない貴族の別荘があったはずだ、前にアルトと――』
だから、あの辺りに別荘があることを知っていたのだ。
「ただ……氷漬けになってミイラ化してたんだよね。いつのか分かんないけどとりあえず溶かしてみる?って冗談で聞いたら、アルトったら興味津々に頷いてさ」
「……解凍したのですか?」
「うん。溶かしてちょっと齧ってみたんだ、アルトが」
「普段は慎重なくせになぜそういうところだけ思い切りが良いのですか……」
「あはは、ほんとだよね。……でさ、ひとくち齧ってすぐにぺって吐き出して。『これは冒険者の味だ! 土と歴史の味がする!』とか言ってさ」
カグツチは黄色い実を指でくるくると回しながら、くすりと笑った。
目に浮かぶようだ。埃まみれになって変な味の果物を掲げる少年と、それを呆れながら見ているカグツチの姿が。
「ふふ、あなたは二度もあの別荘に不法侵入したのですね……いえ、笑い事ではないのですけれど」
「今度、ノエルに謝らなきゃね」
カグツチは笑った。
その日が訪れることを、彼は当たり前に信じているように見えて――私は視線を落とす。
「……楽しかったなぁ」
カグツチの手が止まる。
ぽつりと落ちた言葉は、部屋の空気に溶けて、静かに染み渡った。
「……ずっと、思い出すのが怖かったんだ」
彼は果実をテーブルに置き、静かに言葉を紡いだ。
「アルトのことを考えると、守れなかった時のことばっかり浮かんできて、苦しくて、焼かれそうで……。だから、全部蓋をしてた。楽しかったことも、笑ったことも、全部」
カグツチの視線が、私に向けられる。
その金色の瞳は、迷子のような不安と、それでも前へ進もうとする微かな光が揺れていた。
「でも、それじゃダメなんだよね。……辛いからって、アルトがオレにくれた"楽しい"まで無かったことにしちゃ、アルトに失礼だ」
それは、彼なりの前進だった。
過去を忘れるのではなく、痛みを抱えたまま、それでも美しい思い出を拾い上げていく。
私が復讐という地獄を選んだのに対し、彼は思い出という光を守ることを選んだのだ。
私は喉の奥の震えを押し殺し、努めて静かに頷いた。
カグツチは、アグレスト家で愛されて育った。
だからこんなにも前を向くことができるのだろう。
羨ましいと言う感情は湧いてこなかった。
だってそれは――アグレスト家の人々が三百年を掛けて紡いできた愛の証だったからだ。
それは私にはない強さだった。
「……そうですね。あの人は、あなたが笑って話してくれることを、何より望むでしょうから」
「うん」
カグツチは一度だけ強く瞬きをして、濡れた光を振り払うように笑った。
「……だからルシア、これ食べよ? 今度はミイラじゃない、ちゃんとしたやつ」
カグツチはナイフで器用に黄色い皮を剥くと、瑞々しい果肉を一口大に切り分け、私に差し出した。
口に含むと、ふわりとした甘みが広がる。
かつてアルトが味わった歴史の味とは違う――凍えた体に染み渡るような、とても優しい味がした。
「……おいしいです」
カグツチは満足そうに笑うと、自分もひとかけら口に放り込んだ。
「……うっま!? これは貴族が買い占める理由もわかるなぁ……もしアルトが買ってくれてたらオレ、際限なく欲しがってたかも」
「ふふ、あなたが欲しいと言えばアルトは無理してでも買ってきたでしょうね」
「だろうね。アルトはそういう奴だよ」
カグツチは柔らかく笑い、また一切れ果実を口に運ぶ。
その横顔は穏やかで、少しだけ――ほんの少しだけ、未来を見ているようだった。
窓の外では雪が降り続いているが、この部屋は温かな光に満ちていた。




