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53.どこにもない名前の響き

 あの後、朝食の時も、昼食になっても、私はカグツチから一方的に距離を置いたままだった。

 同じ部屋に確かにいるのに、会話は必要最低限。視線も合わせられない。

 カグツチは何も言わず、いつも通り穏やかに過ごしていた。それが余計に――気まずかった。


 昼下がりの静けさのなか、私は上掛けを羽織って部屋を出た。

 昼食を済ませた後――部屋に居続けるのが少しだけ窮屈だった。

 こんな時間にどうかと思ったが、湯に浸かりたかったので城の本棟の一番奥にある風呂場へ向かっていた。

 人間用に作られたお風呂のようで、道中に重い扉がないのは幸いだった。カグツチの手を借りずに済む。


 けれど、私のお風呂タイムは静かには始まらない。


 原因は明白だった。

 振り返ればそこにいる。歩けばついてくる。扉を開ければ立っており、扉を閉めたはずなのに、なぜかまだいる。

 気づけば背後から、湿った呼気がかかっていた。

 

 鬱陶しいこと、この上ない。


「こんな時間に風呂か? でも黒鉄の城の風呂はいいぞ、最高級の焦熱石(しょうねつせき)使ってっからなァ、一瞬で熱々だぜェ?」


 道具箱のようなものを担いだロボが私の背後にぴったりと張り付く。


「背中流してやろうかァ」


 ねっとりと絡みつくようなあからさまな演技に自然とため息が溢れた。

 

「あら、ご親切に。……けれど、貴方に触れられた皮膚をあとで削ぎ落とす手間が増えますので、結構ですわ」

 

 私の笑顔は完璧だった。

 社交界の悪意すら笑顔で弾き返す、ヴァレット家の令嬢に伝わる鋼鉄の微笑みである。

 その一撃を軽やかに突き立てた私に、ロボは一瞬きょとんと目を瞬かせ――次の瞬間、腹を抱えて爆笑した。

 長い黒髪が、まるで枯れ枝のように揺れて不気味なことこの上なかった。


「ッハーーッ!! これがヴァレットの社交の刃か! おいおい、心臓撃ち抜かれた気分だぜ、たまんねぇな!!」


 くるりとロボの巨体を避けるようにして、私は再び歩き出す。

 だが、それでもついてくるのだ。音もなく、影のように――いや、音はする。しかもうるさい。


「こらァ、無視すんなっての! そんな素っ気ない態度取ってると、本気で惚れちまうぞ?」


「まだ続けるのですか、それ……」


 背後から飛んできた軽薄な声に、私は小さく、もう一度ため息をついた。


 俺は諦めねェからな、と言ったロボは何をするかと思えば。

 わざと私にちょっかいを出して、カグツチの独占欲を刺激する――あまりに短絡的で、幼稚な作戦だった。

 けれど、理屈で御しきれない本能の塊である(つがい)と言う構造には、これ以上ないほど劇薬なのだろう。

 

 ――その瞬間だった。

 

 背後で、空気がビリッと裂けるような音がした。


「……おい」


 低く、怒気を孕んだ声。聞き慣れたその響きに、振り返らずともわかる。

 

 カグツチがそこにいた。

 ロボの声を聞きつけて追ってきたようだ。

 今、彼の瞳には、抑えきれない激情が宿っている。


「ん? なんだ坊主、なんか用かよ? なんだよ、まるで怒ってるみ」


 のんきに振り返ったロボは、カグツチの姿を確認する暇もなかったに違いない。同時に、何かが弾けるような音が響いた。

 爆発でもしたかのような衝撃波に、私は髪を押さえた。

 道具箱だけが廊下に投げ出される。

 巨体が宙を舞い、壁を突き破って吹き飛んでいく。

 そのまま雪原の大地に放り出され、大きな雪だるまになりながら遠ざかっていくまで、悲鳴すら上がらなかった。

 穴の空いた壁の向こうには吹雪と大雪原だけが顔を覗かせていた。

 何をしたのかさえ早すぎて分からなかったが、とりあえずロボは辺境の大地の雪原に向かって蹴り飛ばされたらしい。

 唖然とする私の隣で、カグツチはただ静かに、息を吐いた。


「まったく。手加減する方が大変なんだから勘弁してほしいよ」


「……カグツチ、ロボの言葉に乗ってはいけません」


 ようやく出た声に、カグツチははっと我に返ったように目を見開いた。

 それから視線を逸らし、一歩、私から離れる。


「分かってるんだけどね。こればっかりはもう本能だからさ」


 そう軽口を叩きながら、崩れた壁の瓦礫を外に向かって蹴り飛ばした。


 しばらくの静寂。

 突き破られた壁の向こうには、ただ白い雪原が広がっていた。

 遠くまでは見えないが、ロボの姿はどこにも見当たらない。

 けれど――なぜだか、妙な安心感があった。あの黒竜ならどうせ平気で戻ってくるだろうという、根拠のない確信。

 外気に晒された廊下に、白いため息が一つこぼれた。


「……穴、後で塞いでおきましょうね」

 

「オレがやっておくよ。ノエルのところで散々やらされたから、多分できる。さ、ルシア。風が寒いから送るよ」


 背後では、城の廊下に吹き込む風が、ごうごうと唸りを上げていた。

 壁の裂け目から流れ込む冷気が、足元から這い寄ってくる。

 外気が城の中に入ってきてしまっては風呂場に行くまでに間違いなく寒さで凍えるだろう。

 カグツチがそばにいればそれだけで寒さを感じなくなる。一人になるつもりのお風呂タイムは、結局意味のないものになってしまった。


 騒がしい空気が、ようやく静まる――そう思った、そのときだった。

 

「うおおおおおおおおおお!!!!!!」

 

 遠くから、地鳴りのような雄叫びが響いてくる。

 

「……え?」

 

 誰よりも先に声を上げたのは、たぶん私だった。

 吹雪の向こうに、黒い影があった。

 雪煙を巻き上げながら、四足獣のような勢いで突進してくるロボ。

 ズザァアッ!と凍りついた地面を抉るように滑り込み、彼は壁際へと帰還する。

 恐る恐る壁から下を覗き込んでみると――

 

「はぁっ、はぁっ……! はあああああああああ!!」

 

 半ば雄叫び、半ば絶叫。まさかの()()()()()で戻ろうとしているではないか。

 竜種が、壁を、よじ登っている。

 とてもシュールだ。

 脚をかけ、手を伸ばし、ずりずりと音を立てながら。全身から雪と泥を滴らせ、濡れ鼠のような有様で。そのたびに、崩れかけた瓦礫がゴトゴトと音を立てて落ちていく。

 

 もちろん、あの城の壁は外から登る想定で造られてなどいない。

 あまりの必死さに私は言葉を失っていた。

 カグツチも私の後ろから外を覗き込み、呆然と立ち尽くしている。


「……竜体になって飛べばいいのに」


 カグツチが呆れたように言った。


「うるせぇえええええええ!! 改名されてから飛べなくなったんだよぶっ殺すぞ!!」


 ロボは膝を突き、指をひっかけ、とうとう穴の縁まで辿り着く。

 そして、ずりずりと顔を覗かせた――その顔面には、泥、雪、そしてなぜか腐った落ち葉がぴったり貼りついていた。


「……ぜ、っはあ……っ、ふぅ……ただいまぁああ……!!」


 ロボがさらりととんでもないことを言っていたが、感傷に浸る暇すら与えないのはこの竜の長所だろう。

 

「帰ってこなくて結構ですわ」


 私の声は完璧に澄み切っていた。

 伝家の宝刀貴族の微笑みとともに放たれたその一言は、ロボの顔にさらに深いクマを刻ませるのだった。

 

「……ぜぇ、っは、……っ俺は丈夫さだけが取り柄なもんでな。隣の世界じゃ『防御ツヨツヨマン』の因果を持ってるに違いねぇ!」


 破れた外壁の瓦礫の上で、ロボは肩をぽきりと鳴らし、にやりと笑った。全身泥まみれ、雪と落ち葉まで貼りついたその姿は――見ようによっては、雪山を制覇した野良犬のようだった。

 その言葉に私はふと、ある面影を思い出していた。見た目はちっとも似ていない。しかし、言葉のその自由さと多さが――どうしても彼を連想させるのだ。


「……センスみたいなことを言いますね」


 ぽつりと呟いた私に、ロボは露骨に顔をしかめた。

 しまった。うっかり彼の地雷を口にしてしまった。


「あァ!? 誰がアイツの弟だって!? バカ言うな! 兄だ、兄!」


「何も言ってませんが……」


 問いかけると、ロボは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「俺が先に生まれたから俺が兄だ! そこだけは間違えんな!」


 思い浮かぶのは、氷の城で過ごした日々。

 よく喋り、少し意地悪で、優しい竜だった。ノエルと交わした数々の言葉が胸に蘇り、自然と口元が綻ぶ。


「センスとは似ても似つきませ――いえ、似てますね……その喋りだしたら止まらないところとか」


 センスの名前を異様に嫌う辺りから何かしらあると疑ってはいたが――兄弟と言う言葉には驚きを通り越して納得しかなかった。

 ロボはバツが悪そうに天を仰ぐ。

 そして、視線が落ちた。


「……あいつ、喋るのか?」


「それはもう……お喋りで自由な竜でしたわ」


 ロボの口ぶりからするに――兄弟でありながら接点はなかったのだろう。


「前々からセンスの名前を出すと取り乱していたのは兄弟だったからなのですね」


「はぁ……別に隠してたわけじゃねェよ。俺とセンスはふたつの卵がほぼ同時に孵った。双子ってやつだ。……竜種としては、めちゃくちゃ珍しいみてぇだけどな。あっ、卵から先に孵ったのは俺だからな」


 声色が一段階、落ちた気がした。


「竜種にも双子ってあるんだ」


 カグツチの問いに、ロボは鼻を鳴らす。


「人間で言う兄弟ってのとは、ちょっと違うけどな。……俺たちは、そもそも家族って感覚が薄い。生まれりゃすぐ、貴族の家に配られる。それが普通なんだよ」


 その言葉の奥に、何かが沈んでいるように聞こえた。


「……じゃあ、センスとは生まれてから会ってないのですか?」


「いや、決闘場か社交場で顔は合わせてた。年に数回な」


 その言い方は、思い出の埃を払うようだった。


「俺がゼファリオンに付く前の話だから、お互い会話は許されてなかったけどな。ああ……貴族遊戯(ドラグデュエル)の場にも立ったことがあった。手加減なしでぶつかって――負かした。何度も、何度も」


 その瞬間、拳がぐっと握られる。爪が皮膚に食い込みそうなほど、力がこもっていた。


「ロボがセンスに……勝つ?」


 カグツチの声が、わずかに震えた。

 信じられないものを見るような視線が、ロボに突き刺さる。彼のこめかみに、青筋が走った。


「改名される前は、俺もそこそこ強かったンだよ!!」


 怒鳴るように吐き捨てて、息を荒くする。

 それでも、どこか悔しさを含んだ響きだった。


「悪かったって。で、なんて名前だったの?」


 カグツチの問いに、ロボの肩がぴくりと揺れる

 返事は、なかった。

 ロボは唇を噛み、俯く。

 その沈黙は――届かないものに手を伸ばし続けるような、空虚だった。


「……思い出せねぇよ。改名されたら前の名は因果から断ち切られンだ。もうどこにもねぇんだよ、俺の名前は」


 小さく、吐いた息が白く溶ける。その声には怒りも、苛立ちもなかった。ただひとつ、喪失の事実だけが、ぽたりと落ちた。


「ま、もういいけどな――因果は変わっても記憶は消えてねェんだからよ……」


 彼にとって、ゼファリオンがつけた今の名前こそが彼を象る因果なのだろう。

 ゼファリオンとのその記憶こそが、彼にとって何よりも大切なものだと言っているように聞こえた。


「……なぁ。センスの最期は穏やかだって言ってたな」


 ロボは道具箱を拾い上げながら、視線も合わさず言った。


「えぇ。あなたが言うような無口な竜ではありませんでしたよ。困ってしまうくらいに自由で――ノエルさんは随分と手を焼いておられましたが、生きることを満喫していましたよ」


「……そーかよ」


「主をあごで使って優雅にティータイムするくらいには……いや、やっぱり自由すぎるだろアイツ」


 カグツチは言いながら、氷の城でのことを思い出して少し笑った。


「……いや自由すぎんだろ、流石に盛りすぎだ」


 盛りすぎではないのだけれど。

 ロボはこれから、まるで私の思い出の中のスピカがぼろぼろ崩れていくのと同じ経験をすることになるだろう。


「俺がゼファリオンに付いてくって決めてアイツを誘ったけど、うんともすんとも言わなかったんだぜ、アイツ」


 それはまだセンスがスコット家のドラグマキナだった頃の話だ。


「ノエルの嬢ちゃんと二人で氷の城に住んでたのは知ってたけどな……そっか。あいつはそれで満足だったんだな」


 何か納得するように頷くと、それ以上は何も聞いてくることはなかった。

 やがてロボは一つ大きなため息をつく。


「さ、部屋の壁直しとくからとっとと風呂行って来いよ。あ、廊下の壁はお前が直せよ!?」


 それだけ言うとロボは道具箱を肩に担ぎ上げ、昨日、二人がそれぞれ暴れたことで壁も扉も壊れてしまった部屋に入った。

 ロボはそのまま、ガチャンと音を立てて工具箱を床に置くと、腕まくりをして壊れた壁の瓦礫を蹴り飛ばした。


「……さて、サッサと直さねェとアシュレイが戻ってきた時にうるせェからな」


 背中で語るその姿には、先ほどまでの名前と兄弟を失った空虚はもう見えない。

 センスが双子だったという衝撃の事実は、ロボとセンスの因縁を解く鍵にはなったけれど――私たち二人の問題を解く鍵にはなり得なかった。


 壁は直せても、この亀裂は直せない。


 結局、あの頑ななカグツチを説得する言葉は、まだ見つかっていないのだ。

 私は逃げるように、風呂場へと足を向けた。

 その後を、カグツチは何も言わず付いてくるのだった。


 ◆ ◆ ◆


 風呂場の扉の前まで私を送ると、「壁、とりあえず塞いでくる」と言って行ってしまった。


 湯に浸かっても、心は落ち着かなかった。

 まだ陽の高いこんな時間に風呂場へ逃げ込んで、一体何をしているのだろう。


 カグツチは、普通に接してくれる。

 いつものように優しく声をかけてくれる。

 

 でも私は――どう接したらいいのか分からない。

 

 番になってほしいと言えば拒まれる。

 その先に何があるのか、何も見えない。

 刻一刻とひびは終わりを刻んでいるのに、彼は優しいまま落ちていく砂時計をただ眺めている。

 

 だから、視線を合わせられない。

 気づけば、距離を取ってしまう。

 

 彼は何も変わっていないのに。

 変わってしまったのは、私の方だった。

 

 湯の温もりが、ひどく虚しく感じられた。

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