52.尊重という名の欺瞞
彼を失いたくない――それを、他の誰でもない、彼によって阻止されてしまった。
自分の無力さに打ちひしがれ、次の言葉も浮かばぬまま、私が沈黙に沈もうとしたその時――。
「――っ、この、バカどもがぁッ!!」
再び部屋に突っ込んできたロボは我慢の限界だとばかりに、先ほど吹っ飛んで床に突き刺さっていた扉を蹴った。
凄まじい足音と共に詰め寄ってきた彼は、私とカグツチの間に割って入ると、まず私を指差して怒鳴りつけた。
「おいルシア! なにカグツチの口車に乗せられてんだ、てめェ!!」
「……」
「それでもヴァレットかよ!? お前ら先祖代々王都じゃその回る舌で、気に入らねェ貴族どもを次々に地獄へ叩き落としてきたんだろうが! なにガキみたいな綺麗事に論破されてやがる!」
ロボの金色の瞳が、怒りで火花を散らしている。
罵声が耳の奥で反響する。
わかっている。ロボの言うことは正しい。
けれど、カグツチのあの凪いだ瞳を見てしまえば、私の持てるどんな刃も、どんな詭弁も、届く気がしなかった。
私は、眼の前の竜の情に屈した。
ロボの金色の瞳が細められ、私とカグツチを代わりばんこに睨みつけた後――。
「……チッ。あー、わかった。わかったよ。もういい、言葉でわからせるのは諦めた」
ロボは呆れたように吐き捨てると、突然、私の腕を乱暴に掴んで引き寄せた。
「何を――」
「黙ってろ。テメェら二人じゃ、いつまで経っても埒が明かねェ」
ロボは私を自分の横に強引に固定すると、冷え切った目でカグツチを見下ろした。
その顔には、先ほどまでの憤怒を通り越した、残酷な嘲笑が浮かんでいる。
「おい、カグツチ。テメェはこのままのルシアがいいなんて綺麗事抜かして、自分だけ勝手に死ぬつもりらしいが……。だったら、道半ばでお前が死んだとして、その後のこいつはどうなってもいいってことだよな?」
「……オレはゼファレスの首にルシアを届けるまで死なない」
「甘ったれたこと言ってんじゃねェ。絶対なんてねェんだよ。テメェが野垂れ死んだ後、俺は試すぞ。もしかしたら俺の番になれるかもしれねェからな」
ふん、と鼻を鳴らし、嘲るように唇を歪めた。
ロボの手が、私の頬をぺちぺちと軽く叩く。
まるで、値を踏むように。
「構わねェよな? どんな可能性だって俺は縋るぜェ。俺の手でゼファレスを殺せりゃそれが一番だからよォ!」
カグツチの瞳から色が消えた。
射抜くような黄金の双眸がロボをその場に縫い付け、ただ、抗いようのない殺戮の気配だけが室内を支配していく。
喉の奥から、地を這うような獣の唸り声が漏れた。
「やめろ……」
「ハッ、なんでだよ。守れもしないくせに文句を言われる筋合いはねェ。こいつの壊されようが、尊厳がズタズタになろうが、お前には関係ねェことだ」
ロボは私の襟首を掴み、乱暴に力を込める。
が、その手は僅かに震えている上に、言葉が伴わないくらい手つきが優しい。
嘲笑を浮かべたまま、カグツチを真っ直ぐに射抜いた。
「テメェが死ぬってのはな、外道にルシアをくれてやるってことなんだよ。お前の大好きなルシアが、俺の下で絶望に顔を歪ませるのを想像しながら死ね。……それがお前の望んだ尊重のけっ――」
ロボの言葉が最後まで紡がれることはなかった。
爆音。視界が真っ赤な熱量に塗り潰された。
「……ッ!!」
ロボの体が、砲弾のような勢いで真横へと吹き飛んだ。
私の襟首を掴んでいた指が無理やり引き剥がされる。
凄まじい衝撃音が室内に響き渡った。
ロボの巨体が石壁を粉砕し、瓦礫の山に深く沈み込む。
常人なら即死、頑強な竜種であるロボでさえ、その一撃に呻き声を漏らすほど。
カグツチがそこに立っていた。
床を文字通り爆破して、その瞬発力だけで間を詰めたのだ。
蹴り抜いた姿勢のまま、彼の周囲の床は熱で赤黒く変色している。
「……触るな」
地を這うような声。カグツチの瞳は、もはや濁った金色ではなかった。
怒りと、独占欲と、そして煮え滾るような殺意。
右側の角からは、亀裂をさらに広げるようにドス黒い火花が噴き出し、彼の半身を不吉な炎が包み込んでいる。
カグツチはゆっくりと上げていた足を降ろし、俯いた。
やがて――カグツチは深呼吸を繰り返した。
角の亀裂に血のように滲んでいた火花が引いていく。
周囲を燃え尽くさんばかりの勢いで彼を包んでいた炎も、雨に打たれたかのように静けさを取り戻していた。
「……ふう。危なく殺すところだった……」
瓦礫の山が崩れ、眉間のシワをぴくぴくさせたロボが顔を出す。
「ロボ、演技下手すぎ。煽ったつもりなんだろうけど――本当に殺しちゃうかもしれないから気をつけて」
そう言いながらも、カグツチの声には怒りの熱が残っていた。
演技だと分かっていても、怒りは簡単には収まらないようだ。
瓦礫の中から這い出してきたロボは、煤けた服を払いながら、忌々しげに顔を歪めた。
「……ケッ。演技だなんだと抜かす割に、いい蹴り入れやがって。……本気で脇腹の骨がいったかと思ったぜ」
ロボは吐き捨てたが、その視線はカグツチの足元――熱でドロドロに溶け始めた石床に向けられていた。
先ほどまでの死を受け入れた敗北者の顔は、もうカグツチのどこにも残っていない。
「……おい、カグツチ。まだこのままでいいなんて抜かすつもりか?」
ロボの問いに、カグツチは答えなかった。
ただゆっくりと私の方へ向き直り、その大きな手で乱れた髪を優しく撫でる。
震えるほど熱い。けれど、驚くほど優しい手つきだった。
「……ごめん、ルシア。怖かったよね」
カグツチの声は、いつもの穏やかさを取り戻しているように聞こえた。
けれど、私を見つめる金色の瞳の奥には、消えることのない執着の炎が静かに強く宿っている。
「番にならなくたって、ルシアにゼファレスの首を斬らせることは出来る」
カグツチの目には、静かな決意が宿っていた。
「もしオレが死にそうになったら、その時は今すぐゼファレスのところへ行く。オレの全てを使ってでも、あいつの首を取らせる。ルシアの復讐は、絶対に果たさせる」
「……甘い。甘すぎんだよ、マシュマロより甘ぇんだよてめェらッ!! 脳内お花畑か!? 勝手に野垂れ死ねッ!!!」
そういい捨て、ロボは部屋を出た。
これでよかったのだろうか――そんな思いを抱えるより先に、ロボが一度だけこちらを振り返った。
「俺は諦めねェからな」
「どうぞご自由に。オレに殺されない程度にね」
「ケッ!! 死ねェ!!」
ロボの尻尾が破損仕掛けの扉を叩くと、ぺちっと弱々しい音が響いた。
今度こそ、本当に静寂が戻った。
瓦礫の山と、熱で変色した石床。そして、ロボによって無惨に引き裂かれた私の襟元。
カグツチは私から手を離すと、一歩、距離を置いた。
先ほどまでの狂気的な熱量は影を潜め、彼はまた、いつもの静かな火竜に戻っている。
「……ごめん」
カグツチの声はいつも通りだった。
私をロボの手から守り、番を拒んだ――私には、どうにも矛盾しているような気がして理解が追いつかなかった。
「……カグツチ」
私は乱れた襟元を右手で押さえながら、カグツチを見た。
カグツチは視線を落とし、自分の右側の角の亀裂を指先でなぞった。
「オレの怒りの出力はオレが管理する。……ルシアの復讐の邪魔はさせない」
「……」
「それとも――オレを説得させて見る? もちろん、命令なら従うよ。オレは従順な竜種だからね、道具として生きろと言うなら喜んでそうするよ。それ以外だとどうかなぁ。ふふ、オレ結構頑固だよ」
そう言ってカグツチは、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべ、軽口を叩いてみせた。
けれどその笑顔の奥には、決して譲らないという静かな意志が宿っていた。
その言葉は、私の退路を完璧に塞いでいた。
彼を道具にしたくないから、番を拒んできた。彼を救うために、番を申し出た。
それなのに彼は、言うことを聞かせたいなら道具として命令しろと、残酷な矛盾を突きつけて笑っているのだ。まるで、反抗期の子どものように。
私は、まだ答えを見つけられていない。
なぜ番になりたいのか――彼の献身を打ち破るための本当の理由を、私はまだ答えられていない。




