51.後悔しない方の選び方
東棟からカグツチのいる本棟までは、一度外へ出る必要がある。
陽光が、溶けることのない永久凍土に照り返して、目が痛くなるほど眩しかった。
本棟の廊下に入ってからも、ロボは振り返ることも、口を開くこともなかった。
ただ黙って案内し、重厚な鉄の扉を軽々と押し開ける。
部屋の中では、カグツチがソファに深く沈み込んでいた。
私たちの気配に気づくと、彼は慌てて居住まいを正し――ほっとしたような、あどけない笑みを私に向けた。
その笑顔に心が溶かされる。
けれど同時に、右側の角に走る亀裂が、残酷な現実として目に飛び込んできた。
昨夜よりも、ひびが深くなっているように見えるのは気のせいではないはずだ。
「ルシア……。昨日は、よく眠れた?」
探るような、けれど優しい声。
背後で、ロボが閉めた扉の音が重く響く。
私は扉の前に立ち尽くしたまま、まっすぐにカグツチを見据えた。
「――ええ、よく眠れましたよ。私の恒暖石は特別製らしくて。勝手に私の後を付いてきてしまうのです」
カグツチはきょとんとして、それからバツが悪そうに頭をかいた。
「あはは……バレた?」
僅かな間。
こうしている間にも、カグツチは私の怒りに内側を焼かれている。
迷っている時間が惜しかった。
「カグツチ」
言葉は選んできたはずだった。
でも、どうにも言葉にならない。
私は無言のまま彼に歩み寄り、彼の座るソファの前に立った。
そして、その痛々しい亀裂――右側の角に、そっと指先を伸ばした。
「……っ」
カグツチが息を呑む。
触れると、指先が焦げそうなほど熱い。
彼はこんな熱を抱えて、平気な顔をして笑っていたのだ。
「……痛むのですね」
「ちょっとだけ、ね。動けなくなるほどじゃないよ」
カグツチは、私の手を振り払うことはなかった。
彼がソファに座って、私は立ったままで――ちょうどぴったり、視線が合う。
赤銀色の髪が僅かに揺れた。
「……ねぇ、やめてよルシア」
カグツチは、角に触れていた私の手を取り自分の頬に寄せ、視線を落とす。
私の冷えた手が彼の熱に溶けていく。
途端――カグツチの表情が歪んだ。
「そんな、決めましたって顔、しないで……」
向けられたのは、懇願するような瞳だった。
私がこれ以上、修羅の道に進まないように。
私が人間としての平穏を捨てないように――ルシアでいられるように、彼は必死に引き止めようとしている。
――あぁ、やっぱりあなたは聡い。
私はその頬をゆっくりと撫でる。
熱い。けれど、もう火傷しそうだなんて思わない。
「カグツチ、私を番にしてください」
カグツチは頬に当てていた私の手を、ゆっくりと降ろす。
俯いてしまって、表情は伺えなかった。
「……でも、ルシアはどうなるの?」
「大丈夫です。私があなたに取り込まれてなくなるようなことはありません。ですから――」
大切なものを扱うように、私の手を――そっと離した。
やがてカグツチは顔を上げ、その金色の瞳で真っ直ぐに私を射抜いた。
「番にはならない」
それは、空き別荘で見せたときと同じ明確な拒絶だった。
「オレはルシアをゼファレスの首に届けるまでは絶対に死なない。だから番にはならない」
そこには悲しみや後悔はなく――私と同じ、決して揺らぐつもりのない絶対な意思が宿っていた。
「……嘘つき」
私は静かに告げた。
カグツチの眉がピクリと動く。
「死なない? 復讐が終わるまで? ……よくもまあ、そんな透けて見える嘘を言えたものですね」
私は一歩、彼に詰め寄った。
カグツチは反射的に身を引こうとしたが――ソファの背もたれに阻まれて動けない。
「鏡を見てみなさい。あなたの角、昨日よりも亀裂が広がっています。今までは運良く大丈夫なだけだった。でもそれが明日も続くとは限りません。……それで、どうやって王都まで私を連れて行くつもりですか」
「センスはひびが入ってから三年は生きてる。センスに出来てオレに出来ないわけない」
「な……」
まるで反抗期の子供のような言い草に呆れて言葉が詰まる。
ふう、と息を大きく吸い込んで吐き出した。心を落ち着かせるための深呼吸だ。
「いいですか、カグツチ。私は情報を精査した上で、番は安全であると申しているわけでして」
「へえ、じゃあルシアは見たの? 八百歳のロボが竜同士の番すら見たことないって言ってるのに」
それはまるで――アグレストの家にいた時のカグツチそのものだった。
私の講義に耳を傾けることなく、時に寝たふりを決め込んでしまうような――貴族の竜とは程遠い自由な火竜。
「大体、この国の歴史書は嘘ばっかりって言ったのはルシアじゃん。なんなら神話書に書いてあるのなんて絵だよ? それで番になっても五体満足で生きてます、なんて都合が良すぎない?」
「なっ……盗み聞きしましたね?」
「盗み聞きはしてないよ。聞こえただけ」
言い返せないことはなかったが――カグツチに正論で私をねじ伏せたい意図はなく、ただ、話を逸らしたいだけだ。
現実から目を背けるために、必死に言葉のバリケードを築いている。
これ以上は泥仕合を覚悟しなければならない。
会話と言う戦において、論点をズラしてくる相手と戦うと言うことほど不毛なものはない。
私が口を開こうとした、その時だった。
――ドォォォォンッ!!
爆発音のような轟音が響き、重厚な鉄の扉が悲鳴を上げて内側へ弾け飛んだ。
蝶番がひしゃげ、ひらりと舞った鉄板が床に突き刺さる。
カグツチが粉塵から私を庇うように前に出る。
もうもうと舞い上がる土煙の向こうから、憤怒の形相をしたロボがドカドカと踏み込んできた。
「カグツチてめぇアホかーー!!」
「おい、ルシアに当たったらどうするんだよ!」
「ガタガタうるせェんだよ! 扉越しに聞いてりゃセンスだの確率だの、ウジウジウジウジ女々しい御託並べやがって!」
ロボはカグツチの胸倉を掴み上げると、至近距離で怒鳴りつけた。
「ルシアはただの人間だ。テメェが言う通り、歴史書に書いてあることも神話も、実際にどうかなんて誰にも分からねェ」
ロボは乱暴にカグツチをソファへ放り投げると、私を親指で指し示した。
「だがな! こいつは、考えた上で賭けに乗るって言ってンだよ! ただの人間が、命を賭けてテメェを助けるって決めて、ここまで来たんだ! 守られる側がガタガタ抜かしてんじゃねェ、この石頭が!」
カグツチは口を半開きにして、私とロボを交互に見た。
ロボの言葉には、理屈を超えた暴力的なまでの説得力があった。
「これ以上ルシアを待たせるんなら――俺はテメェの中身を、今度は完全に折る。……返事を聞かせろ、カグツチ」
ロボウノイシはそう言い捨てると、最後に私に「話がついたら教えろ」と目配せをして、蹴破った扉の向こうへと消えていった。
嵐のような静寂が戻る。
私は、呆然とするカグツチに向き直った。
「……カグツチ」
私は、彼の震える手に自分の手を重ねた。
真っ直ぐに彼の目を見て、心を落ち着かせるようにその手に力を込める。
「五千年前、人と竜は番になりましたが――その結果として竜種が存在している。これは私が番になっても残り続けると言う確かな証明です」
しかしカグツチはその大きな手を握り返すこともなく――じっと私の瞳を見ている。
その目は、何かを語りかけているようだった。
「ねぇ、ルシア」
カグツチの唇が動いた。
その声色は落ち着いていて、きっと反論ではないのだろうと悟った。
私は静かに首を傾げる。
「ルシアは復讐を終えたら、どうするつもりなの?」
「……え?」
予期せぬ問いに、思考が一瞬空白になる。
「番になるって言うのは、復讐の道具になることじゃない。……その先も、ずっと一緒に生き続けるってことだよ?」
カグツチの声は静かだった。
けれどその言葉は、私の痛いところを正確に突いていた。
私は復讐の後のことなど考えていない。白紙だ。
けれど番とは、復讐が終われば切れるようなものではない。一生続く、命の結びつきだ。
未来を描いていない私が、未来永劫続く契約を結ぼうとしている。
その矛盾を、彼は見抜いているのだ。
「……それは」
言葉に詰まる私を見て、カグツチは悲しげに眉を下げた。
「――なら、それはなんで?」
その問いは、証明のことでも、未来のことでもない。
もっと根本的な、私の心の在り処を問うものだった。
「未来なんてないって思ってるのに。……どうして、ルシアは番になりたいの?」
その目は、何かを語りかけているようだった。
答えが出てこなかった。
いや――答えはすでに出ていたはずだ。
カグツチに消えてほしくない、いなくなってほしくない。そういう、純粋なものだったはずだ。
なのにどうしてか、その一言がきちんとした形にならない。
「オレを救うためだけに、ルシアという人間を使い潰すつもりなんだろ? ……そんな理由でルシアがルシアじゃなくなるなんて――」
カグツチの声が、微かに震えた。
「今のルシアを、失いたくない。……そんなのやだよ」
私の迷いを遮るように、彼は優しく、けれど拒絶の言葉を紡ぐ。
やがて、カグツチは静かに微笑み、私の両手を取った。
「もし君がオレをただのカグツチとして尊重してくれるなら――」
静かに紡がれる言葉を、私はただ聞いていた。
「このままでいたい」
短く切ったあと、彼は笑みを浮かべた。
「復讐が終わったら、オレも一緒に終わるよ。言ったよね、地獄までついていくって」
その言葉は、ひどく穏やかで――けれどどこか、彼自身も言いたくなかったかのような、苦しげな響きを孕んでいた。
繋いでいた私の手を、まるで壊れ物を戻すようにゆっくりと離した。
そして、まるで何かに耐えるように、自分の膝の上で拳を強く握りしめる。
その指先は微かに震え、膝に置かれた拳からは、彼が耐えている熱が陽炎のように揺れていた。
カグツチの言葉に、私は何も言い返せなかった。
私という人間を、私自身よりも大切にしてしまっている。
私のために死ぬことさえ、彼は最高の幸福のように受け入れようとしている。
そんな狂気のような優しさに、一体どんな正論が通用するというのか。
私はそれ以上――何も言うことが出来なかった。




