50.夜明けの熱
言われた通り、奥の部屋へ行ってみると、簡素な水場があった。
狭い部屋の中央には小さな木のテーブルがあり、その上には夕食分までまかなえそうな量のサンドイッチが置かれている。
隣にはご丁寧にグラスと満タンに入った水差しまで置いてある。――本当にここで一日頭を冷やせと言うことらしい。
あの黒竜がせっせとサンドイッチをこしらえる姿を想像して――もはや、似合うとすら思ってしまうのが悲しい。
私は椅子に座り、機械的にサンドイッチをちぎって口に運んだ。
空腹は感じていなかった。
けれど、これから思考し、決断し、行動するためにはエネルギーが必要だ。
味は、驚くくらい美味しかった。カグツチが一緒にいたなら、絶対に美味しいと声を上げていただろう。
――そのカグツチは、いま、後悔に苛まれているはずだ。
そばに寄り添うべきなのだと思う。しかしそれは余計に彼を終わりへ近付けてしまう。焼け石に水だと分かっていても、今はこうするしかなかった。
その事実が喉につかえそうになるのを、私は意識して飲み下した。
私が弱ってはいけない。私が崩れるわけにはいかない。だってもう決めたのだから。
昼食分を平らげ、深く息を吐く。
身体の内側に熱が灯る。生物としての、生きようとする単純な熱だ。
暇つぶしに本を手に取れば、窓の外はあっという間に暗くなっていた。
――決断することは難しいことじゃなかった。
けれど、一人で考えろと言うこの余白が、一番難しい。
窓辺に寄って振り返れば、そこには広すぎるベッドと、暖炉があるだけだった。
この冷たい大地の上で、私は一度足りとも寒さに凍えたことはなかった。
いつだって、隣に彼がいてくれたから。
そばにいる、それだけが彼の寿命を削っていた。
私の復讐心が、彼を内側から焼いていた。
番になれば、彼を救える。
私はそう決めた。
――けれど。
私の怒りは、彼に消えない後悔を植え付けてしまった。
アルトを救えたかもしれないと言う、取り返しのつかない痛みを。
その後悔だけが、どうしたって余白を埋め尽くしてしまうのだ。
ロボは自分のせいだと言っていたけど、それは違う。
彼を壊したのは、紛れもない私だ。
私の怒りが、後悔が、憎しみが、彼の器を内側から焼き尽くしている。
番になれば救える。
でも――壊したのは、私なのだ。
足の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
冷たい床に膝をつく。
ヴァレットの娘は膝をつかないはずだったのに。
だけど、誰も見ていない。
ここには、私を嘲笑う貴族も、私を守ろうとする竜もいない。
あるのは、凍えるような寒さと、取り返しのつかない罪の重さだけ。
喉の奥から、熱い塊がせり上がってきた。
両手で口を強く覆う。
声を上げれば、耳の良い彼に聞こえてしまうかもしれない。
あの日、広場では出なかった涙が、今さら溢れてきた。
アルトのためではない。自分のためにでもない。
ただ、私のために壊れていく、愛しい竜のために。
私は薄暗い部屋の片隅で、身を屈め、床に手をつき、声を押し殺して泣いた。
ほんの僅かな時間だけ――私はただの無力な子供に戻っていた。
それから、どうやってベッドに入ったのかよく覚えていない。
私は布団に中にいた。
深い、泥のような眠りだった。
夢を見ていたような気がする。
それはいつもの――灰色の空の下だった。
けれど、凍えるような寒さを感じない。
夢だからだろうか、それとも不意に訪れた柔らかな熱のせいだろうか。
毛布の温かさとは違う――もっと質量のある、生き物としての熱。
まるで、日向ぼっこをしているような、あるいは大きな犬に寄り添われているような。
懐かしい匂いがした。
その熱源は、私のベッドのすぐ横にじっと佇んで、凍えた空気を必死に追い払っているようだった。
『――ルシア』
祈るような、懺悔するような声が聞こえた気がした。
けれど、重たい瞼はどうしても開かない。
私はその心地よい熱に甘え、無意識のうちに熱源の方へと身を寄せ――そして、安らかな闇へと落ちていった。
◆ ◆ ◆
――ギィ。
蝶番が軋む、重たく鈍い音で目が覚めた。
意識が急速に浮上する。
私はハッとして身を起こし、音のした方を見た。
分厚い鉄の扉が、ゆっくりと閉まるところだった。
カチャリ、と小さな音がして、完全に静寂が戻る。
「……あ……」
部屋には、私一人。
朝の光が、高い窓から差し込んでいる。
夢だったのだろうか。
私は呆然と周囲を見回した。
いいや、違う。
私は肌にまとわりつく空気に違和感を覚えた。
寒くないのだ。
暖炉に薪もくべられていない石造りの部屋は、朝方には吐く息が白くなるほど冷え込むはずだ。
なのに、この部屋はまるで、ついさっきまで強力なストーブが置かれていたかのように、あたたかな余熱で満たされていた。
ベッドの横を見る。
そこには椅子などはなく、ただ冷たい床があるだけ。
私はベッドからゆっくりと降りて、床に触れる。
一箇所だけが、他よりも微かに温かい。長時間、誰かが膝をついていたかのように。
「……」
視界が再び滲んだ。
近づけば壊れると言われたのに。
離れていてと命じたのに。
彼は一晩中、ここにいたのだ。
私が寒くないように。悪夢を見ないように。
自分の命を削って熱を出し続け、私の眠りを守っていたのだ。
「……どうして、あなたはそうなのですか」
私は乱暴に目元を拭った。
けれど、その温もりの残り香が、私の中の迷いを完全に焼き払ってくれた。
これほどまでに愛おしい熱を、私は他に知らない。
これは、不器用で優しすぎる、ただのカグツチの体温だ。
裸足の足裏に伝わる床は冷たいけれど、体の芯は熱かった。
もう、泣かない。
彼があれほど守ろうとした私の笑顔を、涙で濡らすわけにはいかない。
彼の命を削ったこの熱を、申し訳ないと拒むのは、ただの私の怯えだ。
私が彼を生かすと決めたのなら、彼のその想いごと全部背負って、連れて行く。例えその行き先が地獄だとしても。
私は鏡の前に立ち、乱れた髪を整え、服の皺を伸ばした。
鏡に映る自分を見据える。
昨日までの、彼の優しさに痛みを感じていた子供はもういない。
私は扉に向かって歩き出す。
重たい扉に触れた。
「――ロボ、いるのでしょう。開けてください」
答えの代わりに扉が軋みながら開いていく。
開いた隙間から金色の瞳が覗き、私と、その背後の部屋の空気を一瞥して――ニヤリと口の端を吊り上げた。
「……昨日のバカは、いい暖房になったかよ」
私は一瞬言葉に詰まるが、彼は意地悪く笑うだけだった。
「いい面構えだ。……迷いは捨ててきたようだな」




