04.お説教
馬車の窓からちらりと見えた星の光をしばらく見つめた後、ゆっくりと二人に向き直った。
「少し話します。――聞いてくださいね」
アルトとカグツチは、先ほどの大活躍が幻だったかのように、まるで叱られ待ちの子どものようにちょこんと座っていた。
「できれば領に着くまでに終わりにしてもらえると助かるなぁ」
「カグツチっ」
アルトは焦ったようにカグツチを腕で小突く。
こうしていつものように始まる講義は、決してお説教ではない。
この世界で生き残るための教えなのだ。
「まず――勝てばいい話ではありません」
アルトの視線が、わずかに泳ぐ。
カグツチの尾が、ぴたりと止まった。
「勝ち方。負け方。礼。間合い。視線。ぜんぶが家格の採点対象です――聞いていますか、カグツチ」
「聞いてる~」
私の声は冷たいほどに澄んでいた。
カグツチは瞳を閉じ、天井を仰いだ。――聞く気がない。
「たとえば格下が格上に銀貨を返す。形式上は挑戦でも、無礼と取られます」
一拍、置く。
カグツチの尾が、ぴくりと震えた。
「そして場合によっては――勝利こそが、家格を傷つける結果となります」
言葉の重みが空間を支配する。
カグツチは自分も叱責の対象になっていると気付き、目を泳がせていた。
「つまり、勝ったから偉いでは済まないのです。礼を欠かさず、相手に恥をかかせず、それでいて堂々と勝つ――それが、貴族の嗜みとしての貴族遊戯なのです」
アルトはごくりと喉を鳴らした。
カグツチは完全に理解を放棄した顔で、窓の外を見た。
アルトもまた、窓枠の影へ視線を落とす。――どちらも私の目を避けている。
「相手がグレイシャル卿で本当に良かったですね。これが貴族として未熟な下級貴族相手でしたら、明日の竜継の儀はなくなっていたかもしれません」
カグツチは床を見つめながら、黙り込んでしまう。
自分の無知がアグレストの名を傷つけたことをようやく理解しているようだった。
叱責されているのは自分ではない。――アグレスト家そのものだ。
ふと、アルトが笑う。
それだけで私の息が、ひとつ遅れてほどけた。
「それでも相手はグレイシャル卿で、明日の竜継の儀はなくならない。今回はもらい事故のようなものだったし、そんなに怖い顔しないで。ほら、まずはカグツチを褒めてやってよ。今日くらいなら……ね?」
「アルト、そうは言いますけどアグレスト家はこれまで一度も決闘に出場したことがない家なのですよ? 注目は、善意だけを連れてきません……私はあなたが心配で――」
アルトのその、小さな子どもを窘めるみたいな表情に言葉が詰まる。
まるで――私の心配など杞憂だと言っているようで。
「うん。ルシアが俺のことを案じてくれるのは誰よりも理解してるよ。だからこそ、俺とカグツチを信じてほしい」
私を射抜く夜明けの空のような色の瞳は、どこまでもまっすぐだった。
私が本当に見なければいけないのはアルトであって、貴族社会ではない。
「……そうですね。見ていましたよ。カグツチは、とても強かったです」
その一言に、カグツチの尾がぴこぴこと揺れ出した。
この竜は本当によく感情が尻尾に出る。
「ルシアがオレのこと褒めてくれるなんて、珍しい。明日は晴れたりして」
「それは勝利に対してであり、礼節に関しては褒められたものではないのですよ?」
「ははっ、いいじゃないか。今日くらいはさ」
「だよねぇ?」
窘める私の声などカグツチは聞こえないとばかりに、その巨躯はアルトの肩を抱き寄せて無理やり頭を寄せていた。
その姿は巨大な猫にしか見えなかった。
「にしてもカグツチ……お前、なんでこんなに強いことを隠してたんだ?」
「別に隠してたわけじゃないよ。お前の父さんも爺ちゃんもそのまた爺ちゃんも、オレが傷ついたら可哀想だからって決闘に参加させなかっただけ」
その話は初耳だった。
カグツチがアグレスト家に賜られて三百年。彼らが社交に出なかった理由が――「傷つけたくない」だなんて。
そしてどうやら、その血脈は今もなお受け継がれている。――だが、それも今日で終わる。
「せっかくですし、アルトにはいろいろと知っておいてもらいましょう」
「えぇ……お説教終わりじゃないの?」
カグツチは面倒くさそうに窓に肘をつくと、そのまま窓の外に顔だけ向けたまま瞳を閉じてしまった。
まるできらいな授業に耳を貸さない子どものようだった。
「なぜ、カグツチの名前はカグツチなのか知っていますか?」
私の突拍子もない質問に、アルトは目を丸くする。
「名前、か……考えたこともなかったな」
隣で瞼を閉じて寝たフリを決め込んでいるカグツチを見上げていた。
「名は竜種にとって命そのもの。竜種の強さは、生まれた時の名で定められています」
「へぇ……じゃあオレの名前って当たりだったんだ」
眠たげな声が割り込んだ。
「その言い方はどうかと思いますが……とにかくカグツチは、強さを宿す名を与えられて生まれてきた竜なのです」
アルトはぽかんと口を開け、しばらく考え込んだ。
「……名? そういえば竜種って、意味の分からない名前をしてるよな。カグツチもそうだし、卿のシロクマもそうだし……」
「そもそも名前という概念が、竜と人とではまったく別物なのです」
アルトは眉を寄せながら考え込んでいた。でも、答えはきっと出ないだろう。
私だって歴史書に書いてあることしか理解できていない――それは、この世界の理の外側にある事象だからだ。
「竜種の名付けは、竜の母がするものだと聞いております。竜の名は、人には理解できない異界の響きです。カグツチもシロクマも、人の言葉ではありませんからね」
アルトは、返す言葉を探すように口を開いたまま、閉じた。
困惑した表情のまま、隣に座るカグツチを見上げていた。
「カグツチ。お前は自分の名前の意味、知ってるのか?」
寝たフリを決め込んでいたカグツチだったが、アルトの声で目を開ける。
カグツチは、いつだってアルトの声だけ聞き逃さないようにしている。昔からそうだった。
「うーん……知らない。母のことも何も覚えてないしなぁ。竜ってさ、生まれた時からどっかの家のもんになってるだろ? オレが強いって知ったのも今日が初めてだし」
無邪気に答えるカグツチに、アルトがまた驚く。
「……そうだったのか!?」
「うん。本気出したの今日が生まれ初めて」
「それは良かったのか悪かったのか……」
「別にオレの強さをみんな見てー!とかないし」
とことん無欲な生き物だった。
そしてその無欲な生き物に対してアルトは複雑な表情を浮かべている。
彼のことだ。きっと、自分が社交の場に引きずり出してしまった、とか――そんなことばかり考えているのだろう。
「今までのアグレストの家で生きてきて嫌だなんて思ったこと一度もないよ。それはこれからも変わんない」
そう言って微笑むカグツチの表情に、アルトは心底安心したように目を細めていた。
私は貴族として竜の扱いを学んできた。
けれど、竜と暮らしたことはない。
幼い頃から二人をそばで見守ってきた。
そして社交の場では、この国の竜の正しさも見てきた。
だからこそ思う。
――アルトの竜への距離感は、この国の常識とはズレている。
そのズレは、あまりにも優しかった。
「アルト……聞いてほしいのです」
私は息を小さく吸い込んだ。
このささやかな幸せを、どう守ればいいのか。
「ヴァレットは……もう竜のいない家。いくら歴史があっても、私の守れる範囲には限界があるのです。だから――」
「分かってるよ、ルシア」
言葉を遮ったアルトの声は、不思議なほどまっすぐだった。
「この国で歴史がすべてなのも、アグレストの名じゃ太刀打ちできないのも分かってる。それでも……俺の手の届く範囲くらいは、ちゃんと守れるよ」
その範囲に私がいることを、アルトの瞳は物語っていた。
――だからこそ、明日の竜継の儀が怖くてたまらない。
それを、二人には悟られないように。
この優しさも、無垢さも、カグツチの強さも。
あの場では、何一つ守りにならない。
それでも今夜だけは――優しくしていたい。明日が来る前に。
「――名も、運も、あるいは相手の慈悲も、今日の勝利を支えた要素のひとつでしょう。でも、あなた方が勝つべくして勝ったのだと証明するのは、これからの振る舞いにかかっています」
馬車の速度がわずかに落ちた。
窓の外には見慣れた景色があった。
「――あなた方の戦いは、アグレスト家の名に恥じぬものでした」
アルトが目を見開く。
カグツチも、驚いた顔をしていた。
「誇っていいと思います。アルト・アグレストとして。アグレスト家のドラグマキナとして」
ぽん、とアルトがカグツチの肩を叩くその仕草は、親友を労うそれと同じだった。
カグツチは尾をばたばたさせながらアルトに向かって満面の笑みを浮かべている。
「……ただし、評価はあくまで今日の出来に対するものですから。明日以降も慢心なさらぬよう」
馬車が止まる。
二人の表情にぴしりとひびが入る音が聞こえた。
「アグレスト家が、貴族としてふさわしい家であると、外聞に恥じぬよう。……しっかり、成長してくださいませね」
「……き、肝に銘じておくよ」
外で馬の鳴く声が聞こえた後、間もなくして御者が扉を開いた。
「お待たせしました、ヴァレット様」
ポケットから取り出した手袋をつけ終えると、アルトに向き直る。
「――では、明日の竜継の儀、楽しみにしていますよ」
その一言を残して、そっと馬車を後にした。




