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42.ただのカグツチ

 暖炉の火が落ちた客室は、しんと静まり返り、底冷えがしていた。

 石造りの壁が冷気を吐き出しているようで、足元からじわじわと寒さが這い上がってくる。

 私は部屋の隅にあったソファに腰を降ろした。革張りの座面が冷たくて、思わず身を縮める。

 すると、カグツチも当然のように私の隣へ腰を降ろしてきた。

 彼と触れ合った肩から、じんわりとした体温が伝わってくる。今の私には、どんな極上の毛皮よりもその温もりがありがたかった。


「食堂に夕飯を頂きに行っている間に暖炉の火が消えてしまいましたね……」 

 

 黒く煤けた暖炉を見つめ、私は独り言のように呟いた。

 揺らめく炎がないだけで、部屋は死んだように暗い。

 そんな私の言葉に、カグツチは可笑しそうに吹き出した。


「ルシア、消えてないよ。ほら、暖炉のすみっこに魔道具があるでしょ。ずっと付けっぱなし」


「……え? これ、ただの石の置物ではなくて?」


 カグツチが顎でしゃくった先――暖炉の隅に、無骨な黒い石が転がっていた。

 赤々と燃えているわけでもない。ただの煤けたレンガの塊にしか見えなかったが、カグツチは呆れたように笑って説明を加えた。


「『恒暖石(こうだんせき)』って知らない? 部屋を空ける時とか、寝る直前に暖炉に放り込んで置くだけで、部屋の中が凍らない程度の温度を保ってくれる魔道具だよ」


 私は目を丸くして、その石をまじまじと見つめた。

 言われてみれば、石の周りの空気だけが陽炎のようにわずかに揺らいでいる気がする。

 熱を放っていることになど、全く気づいていなかった。


「なるほど……。この極寒の地では、暖炉の火が消えれば部屋の中まで凍ってしまいますものね」


 納得すると同時に、己の無知が恥ずかしくなる。


「屋敷にいたときは、部屋が暖かいのは当たり前でしたから……」


「ノエルの城にも置いてあったよ? まぁ、ルシアの家は使用人がたくさんいたもんねぇ。夜な夜な、誰かが気づかないうちに薪を焚べてくれてたわけだ」


「……ふふ」


 カグツチの何気ない指摘に、私は自嘲気味な笑いを漏らした。

 当たり前だと思っていた快適さは、誰かの労働の上に成り立っていたのだ。


「この極寒の世界で命に関わる魔道具を知らないなんて、本当に貴族って愚かですね……」


「ルシアって、貴族の話になると結構自虐的になるよね」


 カグツチが不思議そうに覗き込んでくる。

 私は小さく首を振り、冷え切った手に息を吹きかけた。


「当然です。外の世界を知って、いかに自分の世界が狭いかを知りましたから……」


 石の城の冷たさは、私の無知を容赦なく突きつけてくる。

 けれど隣にある体温だけは、そんな私を責めることもなく、ただ温かかった。


「そろそろ寝る?」


 そう言ってカグツチは天蓋付きの人間用のベッドに視線を向けた。

 当然のように、ベッドにもたれ掛かってラグの上で寝るのだろう。

 氷の城でも当然のようにカグツチはそうしていた。

 身体は傷まないのだろうか。


 ◆ ◆ ◆


 布団の中に潜り込むと、カグツチはいつものようにベッドの縁を背もたれに座り込んだ。


「……ずっと、気になっていたことがあって」


「ん?」


恒暖石(こうだんせき)はあくまで部屋を氷点下にしないための道具。……それなのに、私が氷の城の布団の中で一度も寒さを感じませんでした」


 小さく息を吸い込んで、カグツチを見た。

 

「あなたがいてくれたからなのですね」


 カグツチは「あぁ」と短く、困ったように笑った。


「バレちゃった? 布団のそばにいれば、オレの熱が伝わるからね」


 魔道具という「機能」が部屋を暖める一方で、私を「凍えさせない」ように守っていたのは、いつだって彼の意志だったのだ。

 小さく揺れる、蜜蝋(みつろう)の橙。その心もとない灯火の向こうにある、彼の気配を見つめた。


「この暖かさを当たり前と感じていた自分が恥ずかしいです。……ありがとうございます、カグツチ」


「んーん、ルシアの役に立てて、オレすごい嬉しい」


 そう言って笑う彼の瞳は、曇りなく澄んでいた。

 本当に、心からそう思っているのだと確信できるほどに。


 ――けれど、その()()さえも。

 構造に組み込まれた報酬でしかないのだろうか。

 尽くせば尽くすほど幸福を感じるように設計された、理不尽を飲み込むための生存戦略。


 もしそうなら、いま私が感じているこの温もりは、薪が燃えて熱を出すのと同じ現象に過ぎない。

 私は彼を、心ある者として感謝して良いのだろうか。

 それとも、歴史書が説く通り、ただの便利な機能として享受すべきなのだろうか。


 喉の奥に苦い塊がせり上がってくる。

 私は、彼という存在に名前(ていぎ)をつけなければ、このまま流されてしまいそうだった。


「ひとつ、確認したいのです」


 私が深刻な顔をしていたからだろうか、彼は敢えて柔らかな笑みを浮かべる。

 

「歴史書には――竜種は痛みも寒さも感じない、家の歴史と権威を維持するための道具だと書かれていました」


「あぁ。アルトが読んでた本に書いてあったね。殆どが間違いだったけど――あ、でも合ってることもあったよ」


「え……そうなのですか?」


「竜は夢を見ない」


 不意に――センスの言葉が蘇る。

 

 『竜は一生に一度、卵の中で夢を見るそうです。それが原初の夢――名の因果が定まる瞬間に見る夢だと。普通は目覚めた瞬間に全て忘れてしまうそうですが』


 歴史書には夢を見ないという結果しか書かれていない。

 なぜ見ないのか、卵の中で何が起きているのか。

 その神秘的な理由は綺麗に削ぎ落とされている。


 それは、竜の言葉がひとつも記されていない本だ。

 彼らの声を聴こうともせず、ただ人間が都合よく利用するために書かれた、一方的な観察記録。


「……あなたは歴史書についてどう思いますか?」


「竜に直接聞かなかったのかなーって。でも、この国の竜の扱いを見れば当然だよね。オレが特殊な育ちなだけで」


 もし、竜がみなカグツチのような、あるいはスピカのような育ち方をしてきたのであったら。

 歴史書は今とは違ったのかもしれない。

 確信はあった。けれど、彼の一言が、私の知る歴史がいかに独りよがりな虚構であったかを残酷に決定づけた。


「もはや歴史書を信じるつもりはないのですが……」


 私はそこで言葉を一度切った。


「――あなたは、角と尻尾が生えているだけの人間ですよね……?」


 それは、私の最後の「逃げ場」だった。

 彼が未来ある「人間」だとしたら――私は、この手を離さなければならない。

 復讐などという私のエゴに、心ある人間を巻き込み、その人生を使い潰すことなど、ヴァレットの誇りが許さないからだ。


 しかしそうなれば私は、ゼファレスの首へ至るための唯一の翼を失うことになる。

 彼の人間性を尊重して手を離せば、私の復讐は果てしなく遠のく。

 ――彼の「正しさ」を盾にして、復讐の機を永遠に先送りするのか。

 ――あるいは、彼を「道具」と切り捨てて、泥沼に引きずり込むのか。


 なんて卑怯で、甘えた計算なのだろう。

 カグツチは、そんな私の澱んだ思考を透かして見るように、静かに目を細めた。


「……歴史書も、竜も、ルシアも。みんな名前をつけたがるよね」


 カグツチは呆れたように肩をすくめた。


「人間か竜かなんて、オレにとってはどっちでもいいことだよ。ルシアの隣にいるのが()()なら君は孤独で壊れちゃうし、()()なら君は罪悪感で死んじゃう。……だから、オレはどっちにもならない」


 彼はベッドの縁に頭を預け、私を見上げることなく静かに告げた。


「オレはただのカグツチだよ。君が誰にも言えない本当の気持ちを、そのまま抱えて地獄まで切り拓くための、君にしか振れない()……それじゃダメ?」


 視界が――一瞬だけ白く明滅したような気がした。

 呼吸の仕方を忘れたように、私の胸は浅く、激しく上下する。


 ――あぁ、なんてことだろう。

 この竜は。この、私の隣にいる「ただのカグツチ」は。

 私が自分を救うために築き上げた()()()()という卑怯な防壁を跡形もなく粉々に壊してしまった。


 人間だと思えば、私の復讐は揺らぎ、私はひとりぼっちに戻ってしまう。

 道具だと思えば、私は彼を使い潰した罪の重さに耐えきれなくなる。

 そんな私の行き止まりを、彼は誰よりも深く、鋭く理解していた。


「……っ、」


 声にならない吐息が漏れる。

 彼は私を責めることも諭すこともしない。

 ただ、私の醜い執着も、名前のつかない地獄も、すべてを等身大で抱えたまま「君だけの剣」になると言う。


 それは救いという名をした、逃れられない呪いのようだった。

 彼が「ただのカグツチ」でいる以上、私は彼を切り捨てることも、遠ざけることもできない。

 橙のあたたかい灯りの中で、彼の放つ体温だけが私の心拍よりもずっと確かに響いている。

 私は、彼にすべてを見透かされ、すべてを委ねるしかなくなった己の弱さに、ただ戦慄するしかなかった。


「さぁ、今日はもう寝よう」


 カグツチはそう言うと、そっと布団を引き上げて私にかけてくれた。

 そして枕元のサイドテーブルに置かれた蜜蝋の灯りに手を伸ばす。


「おやすみ」


 穏やかに笑って、ふっと吹き消した。


 ふっと訪れた暗闇と静寂。

 けれど、隣にある体温のせいで、ちっとも寒くはなかった。

 私は目を閉じる。

 火竜の熱を感じながら、深い微睡みへと落ちていった。

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