03.竜の血は毒
決闘場から続く石段の途中、カグツチが鼻をひくつかせた。
「……あれ。アルトから甘いにおいがする。マシュマロ?」
アルトが呆れたようにため息をついた。
「試合前にマシュマロ食ったあと俺の服で拭いたのはどこの誰だ……」
「そうだった! まだ食べかけ……あっ、控室に忘れた!」
「戻りません」
私がカグツチに被せるように言うと、眉を下げて落胆した。
「えぇぇ……」
私よりも随分と大きな背丈だというのに、まるで子どものような物言いに、口の端がゆるんだ。
――その瞬間だった。
ふと、背後に冷たい気配を感じて私は振り返る。
そこに立っていたのは、先ほど決闘場でアルトと貴族遊戯を交えたグレイシャル家の当主だった。
その背後に、白銀の礼装の青年が控えている。
グレイシャル家が所有する貴族の道具――シロクマ。
「おや……これはルシア嬢。お久しゅうございます」
「お久しゅうございますわ、グレイシャル卿。最後にお会いしたのは……新年の式典でしたかしら」
微笑みは礼節の形を保ち、その奥で盤面だけが動く。
彼らの視線がアルトではなく、当然のように私へ集まっているのが分かった。
「ええ、あれ以来ですな。こうしてご縁をいただくのも……何かの因果でしょう」
この場に立つだけで、すでに社交は始まっている。
「本日は婚約者に丁寧なご指導、痛み入りますわ」
「いえ、敗北は敗北。……しかし驚きましたぞ。まさかドラグマキナが、自分の判断で銀貨を返すとは。アグレスト家はずいぶんと、竜のしつけに寛容でおられるようだ」
彼の視線が、ちらりとアルトへ向く。
蔑みでも侮蔑でもなく――興味。その無感情さが、かえって冷たかった。
アルトはそれに気づかず、しきりにシロクマの容態を気にしているようだった。
だから私が代わりに問う。
「シロクマの状態は大丈夫でしょうか」
グレイシャルは軽く手を振り、背後を示した。
白銀の竜は主の後ろでただ立っていた。片脚が震え、礼装の裾を黒い血が汚しているのに、表情ひとつ変えない。
「問題はありません。ここまで壊されることは珍しいですが、竜種の回復力は異常だ。……ルシア嬢は竜の扱いに慣れておられる。わざわざ説明する必要もありませんな」
――壊される。
その言葉が、裂けた皮膚をただの損耗みたいに見せた。
「シロクマ……痛まないのか……」
アルトが思わず近づいた――その瞬間。
「触れてはなりません、アルト」
バチッ、と静電気のような音が鳴った。
カグツチが、アルトの手を乱暴に払い除けていたのと、私がアルトの手を掴んだのはほぼ同時だった。
強すぎたのか、アルトが驚いたように目を見開く。
「竜の血には毒があります。人が触れれば――倒れます」
これは歴史書には載っていない。知っている者も貴族の中でもごく一部と限られている。
正確には、噂の域を出ない話だ。けれど今は、アルトを止めることの方が大事だった。
グレイシャル卿の口元が、愉快げにわずかに歪んだ。
「……さすがはヴァレット家。代々竜を扱ってこられた家は、危機の見抜き方が違う。──アグレスト家は、社交に顔を出されぬゆえ、こうした基礎が伝わっておらんのですな」
アルトの肩が、ほんの少しだけ落ちた。
責められていると思っていない。ただ、自分が気づけなかったことを恥じている。
だから私は、アルトから目をそらさずに言った。
「竜を労わるお気持ちは立派です。ですが、あなた自身を危険に晒す必要はありません」
アルトの表情がゆるみ、痛ましいほどの優しさが浮かんだ。
「……ごめん」
「いえ、知らないことはこれから知っていけばいいのです」
その一言に、グレイシャル卿の目がかすかに細められる。
庇ったと理解したのだろう。
「明日はアグレスト殿の竜継の儀でしたな。……ふむ、もとよりルシア嬢が出席なされるので参列するつもりではありましたが――」
グレイシャル卿は、わざとらしく視線を巡らせる。
「この調子なら、ずいぶんと賑やかな一日になりそうです。いやはや、久方ぶりに見応えのある儀になるやもしれませんな」
穏やかな声で針を刺してくる。
今夜の勝利が、もう次を呼んでいる。
「……ではルシア嬢、本日はこれにて。明日の儀――楽しみにしておりますぞ」
深い礼。視線は最後まで私にだけ向けられている。
「ご丁寧に痛み入りますわ、グレイシャル卿。お気をつけてお帰りくださいませ」
私は優雅に礼を返す。
その背後で、白銀の礼装を纏ったシロクマは影のように控え、一言も発さぬまま主を待っていた。
その二人が石畳を下り始めた、その時――
「ごめんねー、大丈夫? 竜種相手なら、手加減いらないと思ってさ……痛い?」
軽い声が、空気の温度を一気に壊した。
振り返るとカグツチが、申し訳なさそうに笑顔を浮かべて立っていた。
シロクマの肩はかすかに震えている。血の匂いが濃い。裂けた皮膚が見える。深すぎる傷が、目に刺さる。
その痛みがこちらへ逆流してくるようで、視界の端が冷たくなる。
シロクマは視線を上げずに言った。
「――あいにく、会話は許されていない」
低く、抑揚のない声。命じられた言葉しか発さぬ道具のそれ。
シロクマは主の背を追おうと一歩踏み出す。
「うわ、胸めっちゃ焼けてる。……血も出てるじゃん。早く手当してもらいなよ」
その無邪気な言葉が、一番残酷に響いた。
「ねぇ、主人は? なんで治してくれないの?」
竜種同士なら、血の毒は効かない――と聞いている。
カグツチがひょいと肩へ手を伸ばした瞬間、シロクマは機械的にその手を避けた。
感情のない動作。まるで、触れられることそのものが想定されていないかのように。
カグツチが、首を傾げた。
いつもの笑顔が消え、ただシロクマを見ている。
その目に何が映っているのか、私には分からない。
わずかな沈黙ののち、グレイシャルが立ち止まらずに言う。
「行くぞ、シロクマ」
その声だけで、シロクマはすっと主の影に戻る。
振り返らない。表情も変えない。
ただ決まった位置に立ち、主とともに去って行った。
冷たい石畳に残ったのは、血の匂いだけじゃなかった。
グレイシャル卿は、最後までアルトに敬意の欠片も見せなかった。
それがこの世界の正しさだ。
あの家とアルトの間に横たわる断絶――その社交の刃が、いつか彼の喉元に届く未来が、私の脳裏をすでに掠めていた。
深く息を吸う。
今は、先を急がなければ。
「おふたりとも、馬車を待たせてありますので――」
声をかけようとして、私は口を噤んだ。
カグツチが、暗がりへ消えた白竜たちの背中を、じっと見つめていたからだ。
「……なんで、あんなにボロボロなのに、ついていくのかな」
ぽつりとこぼれたその呟きには、怒りも悲しみもなく、ただ純粋な疑問だけが浮かんでいた。
その横顔を見て、私の胸にひやりとしたものが落ちる。
――なぜ、竜は人間に従うのか。
どれほど虐げられ、傷つけられようと、あのように絶対の服従を強いる何かが、彼ら竜種には組み込まれているのだろうか。
歴史書には竜種は貴族の証としか記されていない。
しかし、感情を剥落させて歩くシロクマの姿は、まるで目に見えない呪わしい鎖に縛られているかのようだった。
ふと、アルトを見る。
彼は何も言わず、ただカグツチの背中にそっと触れていた。鎖としてではなく、ただの温もりとして。
血を流して無言で従う白竜と、彼ら二人の関係性。
それがこの狂った貴族社会の常識からすれば、どれほど脆く、異端なことか。
「……行きましょう。王族近衛兵がまだこの近くにいるかもしれません。これ以上、カグツチの姿を晒すわけにはいかない」
私の静かな声に、アルトとカグツチが振り返る。
私たちは逃げるように、夜の闇に待つ馬車へと乗り込んだ。




