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38.応接室にて⑥ 聞きたくない名前

 金属が乾いた音を立てて転がった。

 床に落ちたのは、黒鉄の拘束具だった。

 内側を見て初めて気付く。ずっと黒革のマスクだと思っていたそれは、口元から鼻先までを覆う――猛獣用のマズルだった。革に見えた外側の下には、重たい鉄の芯が仕込まれている。

 ロボウノイシが腰にぶら下げていたそれが、歩いた拍子に外れたらしい。落ちた瞬間、ひやりとした圧が部屋に走った。

 誰も拾おうとはしない。そのまま足を上げ――ぐしゃり、とひと思いに踏み潰した。


「うるせぇって? じゃあ二度と声が届かねぇ場所で吠えててやるよ。あばよ、ご主人様」


 歪む金属を見つめながら、私は息を呑んだ。

 抑えきれない怒りと――壊れた何かが、輪郭を持って滲み出していた。

 ロボウノイシは砕けたマズルを見下ろし、鼻を鳴らしてから、角の根元へゆっくり指を添える。


「……ロボ、マズルを壊したことをゼファレスに咎められると思うがいいのか。私は庇ってやれないぞ」


「は? 知ったこっちゃねぇよ。同盟組んだんだろ? いよいよゼファレスを殺せるんだろ? ならもういいじゃねぇか」


 喉の奥から搾り出すように、黒竜は笑った。


「アシュレイ様、彼はゼファレスの竜と先ほどお伺いしましたが……」


 禍々しい見た目とは裏腹に――口汚くアシュレイを罵りながらも、尻尾の先で彼の肩をつつく。

 どう見ても、妙に距離が近い。


「ゼファレス? あんなのは飼い主じゃねェよ。っぺ」


 黒竜は床に向かって唾を吐き捨てる素振りを見せたが、実際に唾は飛んでいなかった。……几帳面だ。

 

「……こいつは形式上、ゼファレスのドラグマキナだ。だが本人は、ゼファレスを主として一切認めていない」


 ――敵ではない。少なくとも今、この場で私たちを殺しに来たわけではない。

 だが、首輪の先はゼファレスだ。広場で彼は、命令の影みたいに王の背後に立っていた。

 それでも黒竜は裏切り者の隣に座る。立場だけが、妙に潔い。


 向かいのソファにアシュレイと黒竜。こちらに私とカグツチ。

 カグツチの視線はずっと、黒竜に刺さっていた。


「ったりめェだろ。アイツは俺の大事なモンを二つも奪いやがった」


「……二つ?」


「……ある男の遺志と、ダチの名だ。だから俺はあいつをぶっ殺してェんだよ」


 その言葉には、憎悪と絶望——そして、拭いきれない喪失が滲んでいた。


 ――だが。


「お前もアシュレイと同じで急に語りだすタイプ?」


 長い講義が続いたせいだろう。カグツチは飽きていた。その上、不機嫌を一切隠そうとしない。

 相手が敵意を見せた瞬間、それを薙ぎ払えるだけの圧は隠さないまま、大きなあくびをひとつ落とす。

 

「……あァ?」


 黒竜が、露骨に不機嫌を滲ませてカグツチを睨みつける。

 ――まずい。ここで竜同士が点火したら、話どころではなくなる。

 

「こらカグツチ、人の話は最後まで聞くべきです」

 

「人じゃなくて竜だけど」


「……」


 カグツチの空気を読まない――いや、たぶん敢えて空気を壊した言葉に、ロボウノイシは角から手を離す。

 その指先には、目に見えない痛みが残っているようだった。

 なぜ、名を与えた者に背を向ける。

 なぜ、それでも誰かに従う。

 答えは怒りの瞳の底で沈み、こちらを見返してくるだけだった。


「……では、私から聞いてもいいでしょうか」


「答える気になったらな」


「名を奪われた貴方が――見返りもなくその一族であるアシュレイ様に肩入れする理由は?」


「あァ? 決まってんだろ」


 肩をすくめ、笑いながら――鋭い瞳だけを、私に向けた。


命定改名(ミューテ・ノメン)はヴォルシュタインの血からしか発現しねぇ。だから――アシュレイに恩を売って、いつかその血を継ぐ子孫に、俺の名前を元に戻してもらう。なァ、アシュレイ?」


「約束した覚えはないが」


 アシュレイは素っ気なく返す。


「そんな冷てぇこと言うなよ。俺は尽くすぜ? ……なんせ、竜種だからな。ぎゃはは!」


 笑いながら、ロボウノイシはアシュレイの乱れた襟元を二本の指で直した。

 乱暴なのに、手つきだけが妙に慣れている。……本当に、几帳面だ。


 ――この竜は、従順じゃない。従順の形だけを知っている。


「それからもうひとつ、確認したいことがあります」


 気づけば、問いが口をついていた。


「……どうも私には、あなたに怒りがあるように思えてならないのです」


 竜種には本来ならばありえないはずの感情――その異質さが、どうしても気になった。

 ロボウノイシがギョロリとこちらを見た。


「褒めてんのかバカにしてんのかどっちだよ」


 黒竜はぼそりと呟き、肩をすくめた。


「……俺は生まれた時からこうだ。他のオスみてぇにヘコヘコ頭下げるなんざ俺はごめんだ」


「では、なぜゼファレスに従っているのですか?」


 ロボウノイシの怒りが一瞬にして吹き上がるのがわかった。

 しかし――次の瞬間、まるで自分でその炎を押し込めるように、すっと温度が落ちる。


「――色々あンだよ。色々な」


 色々――その言葉と同時に、ロボウノイシの視線が私から滑って、逃げた。

 まるで自分に言い聞かせるような呟きは、どこか痛みを孕んだような声色をしていた。

 私は一度だけ息を呑み、口を閉じる。――ここは、これ以上触れない方がいい。


 その沈黙を、カグツチが嗅ぎ取った。


「ひょっとしてセンスが言ってた絶望的にモテない竜ってコイツの事だったりして」


 隣を見やれば、カグツチは笑顔だった。

 文字通り竜の逆鱗に触れに行くカグツチに、私は言葉を失った。


「……絶望的とは言っていなかったはずですよ」


 私は視線だけで黒竜を窺った。

 ……なぜ私がフォローするのでしょうか。

 

 ――瞬間。空気が変わった。いや、濁ったと言うべきか。

 ロボウノイシの全身から、目に見えない怒気が爆発的に噴き出した。

 その殺気は、冗談が通じるものではなかった。


「ああぁぁぁあ!!?? よりによって聞きたくねぇ名前ナンバー2が出てくンだよゴラァッ!!」


 怒りを噴き上げるロボウノイシに、カグツチは肩を揺らして笑いを堪えていた。

 これは――完全に相手をおちょくって楽しんでいる。


「やっぱお前じゃん、怒り持ちの異常個体」


「おいぶっ殺すぞクソガキが!!!」

 

 怒声と同時に、ロボウノイシがソファから立ち上がる。巨躯がローテーブルを挟んだまま、長い脚が無駄のない軌道でまっすぐカグツチへ蹴りを叩き込んだ。

 鈍い衝突音が響いた。

 しかしカグツチはソファに座ったまま避けようともせず、正面からその蹴りを受け止め、足首を強く握って静止させていた。

 まるで風でも受け止めるように軽やかに。それだけで空気が震えた。

 

「ルシア、危ないからソファの後ろに隠れてて」


 そう言うとカグツチは私をソファから立ち上がるよう促した。慌てて立ち上がり、ソファの背もたれの後ろに避難する。アシュレイもため息を付きながら私に続いた。

 いくら広めの応接室とは言え、竜種二人が暴れても大丈夫な設計になっているわけがない。


「……ッチ、離せガキッッ!!」


「そのまま暴れられたらルシアが巻き添えになる」

 

 カグツチは私が移動したのを見届けると、握っていた足首を離してロボウノイシを解放した。

 ロボウノイシが再び蹴りを叩き込もうとした瞬間――紅の尾がローテーブルを薙いだ。跳ね上がった天板が手前に返り、黒竜の脛を打ち、枯れ枝みたいに痩せた巨躯がわずかに泳ぐ。

 黒竜は眉間にしわを寄せ、ローテーブルを部屋の隅へと立て掛けた。倒れないよう、角度まで揃えて。なぜそこだけは丁寧なのか。

 ――次の瞬間、紅の尾が叩きつけられた。ロボウノイシは壁まで吹っ飛んだ。


 私とアシュレイは無言で、ソファの陰から喧嘩の成り行きを観戦する。


「ごめんって。煽りすぎた。どっちに怒ったの? 怒り持ちの異常個体? それともセンス?」


 叩きつけられた黒竜が、壁を蹴って距離を詰め、拳でカグツチ目掛けて突っ込んだ。


「どっちもだよクソッ!! 言っていいことと悪いことの区別くらいねェのかテメェはッ!」


「区別した上で。だってオレ、おまえのこと嫌いだし。センスの知り合いなんだ?」


 笑っているはずなのに、声がほんの少しだけ乾いていた。

 自分でも理由が分からないまま、喉の奥にざらついたものが引っかかる。


 ――白い袖が揺れた光景が、目の端にちらついた気がした。


「はぁ!? 知るかあんな奴ッ!! あんな何も喋んねぇ竜のことなんか俺は知らねェ!」


「いやそれ、関わってるやつの言い方じゃん」


 カグツチが笑う。腕を交差させて、ロボの繰り出す拳を一撃足りとも零さず受け止めながら、尻尾で反撃を入れる。

 その上、戦闘の衝撃で散らばったマシュマロを拾い上げて口に運ぶ余裕まである。

 まるで犬と戯れる御主人様だ。素人目から見ても戦力差は圧倒的にカグツチが上だった。


「あ、ルシアに当たったらお前を城外に飛ばすからな」

 

「遊びじゃねぇンだよふざけんなぁぁぁぁッ!!!」


 殴りかかりながら、ロボウノイシが絶叫する。

 部屋の中で数秒だけ、本気の喧嘩が繰り広げられた。――そろそろ止めるべきだろう。

 カグツチは紅の長い尾でロボウノイシの足を払った。

 黒竜はあっけなく床に崩れ落ち、そのまま動かない。

 どう足掻こうと勝てないという絶対的な力の差に、ひれ伏したようにさえ見えた。

 ……が、黒竜は舌打ちひとつで起き上がった。折れた枝みたいに細いくせにしぶとい。


 応接室はすっかり乱れていた。


 そして――


「「片付けなさい」」


 私とアシュレイの言葉が重なる。

 さっきまで火花を散らしていた二人が、今は無言で家具の位置を直している。

 この城に来てから、ここまで妙な空気を感じたのは初めてだった。


 片付けはものの数分で終わり、元通り揃えられたソファの上にロボウノイシは顔から倒れ込むように重力を預けた。

 ソファの位置が大きくズレた。クッションに顔を埋めたまま、恨めしそうに呟く。しおれた尻尾が虚しく揺れていた。


「……その名前は聞きたくねェ。とくに今は」


 ロボウノイシは一度だけ黒い角の根元を、指で強く押さえた。その表情はクッションに沈んでいて伺えない。

 ……カグツチと同じ。あの時も、()()()と言って角に触れた。


 ――きっとこの竜も、知っている。


「……センスの最期はとても穏やかなものでしたよ」


 言葉を外せば、この竜はまた燃える。

 それでもなんとなく、伝えなければと思った。

 ロボウノイシは顔を上げ、ソファに座り直す。一瞬眉間に皺を寄せたが、怒りは飲み込んでくれたようだ。


「……知らねェよ。弱ぇし、クソみてぇな貴族の言いなりのまま俺の誘いも無視。挙句勝手に死にやがった道具のことなんて、俺は知らねぇ」


 視線だけが、私ではなく床の一点に落ちたまま。ソファに背中を預け、気だるげに足を組んだ。

 ロボウノイシの言葉にカグツチはわずかに不機嫌を滲ませていた。

 

「あの城ではセンスは道具じゃなかった。――お前はセンスのことを何も知らない」


「あァ……? やンのか?」


「次は遊びで済ます気ないけど平気?」


 カグツチの声色が低くなる。

 再び、導火線の周りで火花が飛び散る。


「ロボ、挑発をするな」


「カグツチも、なぜ敢えて煽るのですか。いけませんよ」


 アシュレイが制止するが、ロボウノイシは不機嫌を隠さない。黒竜は舌打ちし、カグツチから視線を逸らした。

 それはセンスのことを知らない者の行動には見えなかった。

 

 やがて、アシュレイがロボウノイシに視線を向けた。

 

「……ところでロボ、火急の用事とはなんだ」


 それまで騒いでいた竜は、急に表情を変える。まるで仮面を付け替えるように。

 面倒くさそうに、深いため息をついた。


「――ついに始まるぞ、ゼファレスの時代が」


 その一言で、空気が一変した。

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