31.紙片
仮住まいの部屋に戻り、私はソファに腰を下ろした。
「はい、これ」
カグツチは、先ほどアシュレイから受け取った紙片を私に差し出した。
握りつぶしたのだろう。紙片は石のように硬い。
……竜の握力の強さに絶句する。
苦労して紙片を広げたのは、それから数分後だった。
「……油まみれですね」
走り書きのメモは油でにじんでいて、思わず言葉を失った。
「あのカリカリ芋、油べっとりだったからね」
悪びれた様子もないカグツチ。
それでも、読めないほどではなかった。
『手を組みたい。辺境のさらに奥にある、黒鉄の城まで来い』
ゼファレスを討つ――あれが本心かどうか、まだ計りかねる。
カグツチが私の隣に腰を下ろした。
静まり返った部屋に、薪の爆ぜる音だけが響いていた。
やがて彼はぽつりと口を開いた。
「オレは反対」
その低い声に、私はカグツチを見上げる。
「えぇ……罠の可能性のほうが高いと思います」
アシュレイの書き置き――くしゃくしゃでほんのり揚げた芋の香りが残る紙を、私は何度も読み返した。
その文面からは、誠実さのかけらもありはしなかった。
場所だけ示して、条件も保証もない。
代わりに、計算と誘導の意図ばかりが透けている。
それでも――止まれなかった。
「でも……ゼファレスを討てる可能性がわずかでもあるのなら、進まない理由がありません」
私がそう言うと、カグツチは少しだけ目を細めた。
困ったみたいに、口の端だけが持ち上がる。
「ルシアがそうしたいなら、そうするよ」
反対だと言った口で、迷いなく言った。
途端に、罪悪感が喉の奥まで満ちて、視線が落ちる。
その言葉はやさしいのに、拒む余地がない。
以前なら支えになった言葉が、いまはこんなにも胸を締め付ける。
「……ごめんなさい、カグツチ。最善ばかりを追って、周りが見えなくなるのは私の悪い癖ですね……」
彼はため息もつかず、ただ穏やかな声音で返してくれた。
「いいんだよ。ルシアが頼ってくれて、オレ、すごく嬉しい」
その言葉があまりに真っ直ぐで、喉が詰まった。
彼は微笑みを崩さなかった。
「約束しただろ、ルシアの手を――必ずゼファレスの首まで届けるって」
その誓いは、冗談でも軽口でもない。
この世界で、私だけを正しいと信じてしまう剣の言葉だった。
「――ありがとうございます」
私はそっと紙片に目を落とした。
「……アシュレイは、信じるに値する人間ではないと思います。彼はゼファレスの兄。いつだって私たちをゼファレスの前に差し出せる。でも……」
目を閉じ、あの肖像画を思い出す。陽だまりの中で笑っていた、ノエルの姿。
「あれだけは……ノエルの写真だけは、嘘ではなかったはずです」
私の言葉に、カグツチは暖炉へ目をやった。ぱち、と火の粉が弾ける。
「仮に罠でも――全部、燃やし尽くせばいいじゃん?」
笑って言えるところが、いちばん危うい。
彼が本気で火を放てば、燃えるのは敵だけじゃない。
私は小さく頷き、胸の奥にその選択肢を封じた。
――そうなる前に。なんとしてでも、手を打たなければならない。
こうして私たちは、ひとときの安息と、すべての涙の痕跡を氷の城に置いて――再び、地獄の入り口へと足を踏み出した。
◆ ◆ ◆
翌朝。
玄関前で外套の紐を結び直し、出立の挨拶をすると――ノエルは一瞬目を見開いた。
けれど、すぐにいつもの調子で肩をすくめる。
ノエルは何も聞かなかった。
この旅の意味も、行く末も、これからどこへ行くのかさえ。
――きっと、興味がないわけじゃない。
私が答えられないことを察してくれている。
それら全てが彼女の優しさだった。
氷の城に住んでいたのは、なによりもあたたかい心を持つ人だった。
ノエルは笑ったまま、視線をほんの少しだけ落とした。
「……いつでも立ち寄ってくださっていいのよ、なんて貴族らしい言い回しはしないわ。また……来てくださいね」
その言葉に思わず微笑んだ。
ああ、この人はきっと、最後までこうなのだろう。
だからこそ、あの温室のじゃがいも達は強くたくましく育っているのだろう――ふと、そんなことを思う。
城を出ると、空は灰色に煙っていた。
けれど、風は穏やかだった。
私たちは並んで歩き出す。
目指すのは、アシュレイの待つ黒鉄の城――ゼファレスの喉元に、刃を届かせるための道。




