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02.控室にて

 貴賓席の一角が動いた。

 拍手の波と逆に、黒い手袋が揃って立ち上がる。王族近衛――その配置だけで分かる。


 祝意じゃない。値踏みだ。勝利じゃなく価値を見る――価値あるものに、あの王家は当然の顔で手を伸ばす。


 ――彼らが降りてくる前に。


 私は観客席から身を翻し、控室へ走った。

 アグレストの名を告げるより早く、衛兵は私の顔を見るなり扉を開けた。


 扉を閉め、内鍵を掛けた。外の衛兵へ命じる。――私の許可なく、この扉を開けるな。


 石造りの冷えた室内。

 木の椅子に腰を下ろしても、耳の奥で鐘の余韻が冷たく響いている。

 今夜の勝敗は終わった。けれど、評判はこれから始まる。


 机の上に置かれた紙袋の封が乱れていた。カグツチの大好物のマシュマロだった。

 アルトが用意したのだろう。王位継承にまつわる不穏な噂のせいで、市井では嗜好品の買い占めが起きていると聞く。

 この一袋を手に入れるのにも、ずいぶんと苦労したはずだ。

 中を開けると、明らかに減っている。


 ――決闘の前に、つまみ食いをしたのだ。


 これからアグレスト家の存亡が懸かった血生臭い決闘の場に向かう直前に。

 彼はなんの重圧もなく、無邪気に甘い菓子を口に放り込んでから出陣したというのか。

 カグツチらしいと言えばそれまで――だけど、それはアグレストと言う守られた檻の中だけの話だ。

 ずっと傍にいた幼馴染のような存在の、人間とは決定的に違う竜の生態を突きつけられた気がして、背筋に冷たいものが走った。


 ノックが二度。合図は、聞き慣れた声だった。私は鍵を外す。

 鉄製の扉が音を立てて開き、アルトが姿を見せた瞬間、用意してきた叱責の言葉が、順番にほどけていく。

 アルトは扉を閉め、カグツチはその後ろで壁にもたれていた。


「ルシア、久しぶり――三ヶ月で、すこし大人びたね」


 真っ直ぐに私を見て、まるで今日の惨劇などなかったかのように微笑んだ。

 扉の隙間から冷気が遅れて流れ込み、私は反射的に肩をすくめた。

 するとアルトは、言葉より先に自分の外套を外して私の肩へかけた。

 まるでそうすることが当たり前のように。


「今日はとくに冷えるなぁ……」

 

 その重みが落ちた瞬間、叱るはずだった自分が、崩れる。

 

「髪も随分と伸びたね。……冬の星みたいな色だ」


 穏やかな声と迷いのない手つき。昔から、彼はこうして私の感情を追い越していった。

 ――呼吸が、浅くなる。


 とはいえ、今日という今日は水に流すわけにはいかない。


「こほん――アルト。ご説明、願えますか」


「ごめん。銀貨を返したら、決闘になるなんて思わなくてさ」


 アルトの笑みは、口元にだけ浮かんだ。


「思わなかった、では困ります。私は参加させるために教えたのではありません」


 自分でも驚くほど声が硬い。アルトは姿勢を改めた。


 アルトは何も返さない。

 自然と、私の語気が尖った。


「アグレストは、カグツチを戦わせないはずでしたよね。それをあなたが破ってどうするのですか」


 すると、口を開いたのはカグツチだった。


「――竜種は翼を持ってる。いずれ飛ぶことを誰にも止められやしない。その日が今日だった、ってだけの話だよ」


「そうそう。たまに竜体に戻らないと、戻り方忘れちゃうし」


 カグツチが軽く言い、椅子を引いてアルトの隣に腰を下ろした。


「それにね、銀貨返したのオレだから。オレのせい」


 カグツチは悪びれる様子もなく、むしろ不思議そうに首を傾げた。


「肉屋のハム見てたら足元に落ちてきてさ、親切のつもりで拾っただけなんだけど……」


 ――ハム。


 その、あまりにも平穏で、日常にありふれた単語に、私は息を呑んだ。


 たったそれだけ。そんな路地裏の些細な出来事が。

 アグレスト家が三百年守り抜いてきた隠遁も、私が守りたかった二人の未来も、すべてを焼き尽くす引き金になったというのか。


 運命のあまりの軽薄さに目眩がした。

 銀貨を拾うこと。まさかそれが決闘の合図になると言うことを――アルトは知らなかったわけじゃない。

 カグツチの無知を、アルトがその身で庇ったのだ。


 二人は、いつだってこうだ。

 息の合った庇い合い。

 その様子に、黙っていた理由が嫌でも見えてくる。

 自分を守るためではなく、竜を庇うため――いつもの彼だ。


 まるで、私一人だけが、来ないはずの嵐に怯えて震えているような錯覚に陥る。


「勝ったからいいじゃん。オレ、ちゃんとアルトに勝ちを届けられただろ?」


 空気を変えようとしたのか、カグツチが無邪気に笑う。

 つられて、アルトも笑った。

 その優しさが、いつか取り返しのつかないものを呼び寄せてしまいそうで、怖かった。


「あぁ。よく頑張った、カグツチ。……でも、あの白竜――人間なら即死の傷だったろう」


 アルトの声音が、わずかに揺れた。


「アルト。竜は痛みを感じません」


 その言葉に、なぜかアルトは目を伏せた。

 

「生まれつき欠けた生き物だと、歴史書にも書いてあります」


 当然のはずだった。

 けれど――カグツチが、首を傾げる。

 おかしい。この空気――まるで、私が間違っていると言いたげだ。


「え? 感じるけど?」


 その言葉に、音が止まった。

 アルトの目が私を見た。

 

「………………え?」


「痛いの、ちゃんとあるよ。さっき相手の爪が掠った時、結構いたかったし」


 そう言って、カグツチは手の甲の擦り傷を見せた。


 思考が、一瞬止まる。

 足元から世界の前提がわずかに揺れた。


 竜に痛覚があるなんて話は、本にはない。

 私の中にも、ない。


「……アルト。あなたは、知っていたのですか」


 アルトは答えなかった。

 ただ、袋に残っていたマシュマロを、カグツチの口へ放り込む。

 甘いものが痛みを散らすと信じているみたいに。

 そしてそのまま、アルトはカグツチではなく――私を見た。

 「ごめんな」という唇の動きだけが、私には見えた。


 ――知っていた、ということだ。

 おそらく、ずっと前から。

 けれど、誰にも言わなかった。私にも。


 アルトがふっと笑い、カグツチの頭を撫でる。

 迷いのない手つきに、カグツチは子どものように目を細めた。

 それは、幼い頃から何度も見てきた光景だ。

 アルトは、状況が悪い時ほど穏やかだ。


 今回の勝利は、決して手放しでは喜べない。

 たった一夜で、明日の視線が変わる。そういう勝ち方だった。


「分かっていますか、アルト」


 アルトを見据えた。


「今夜から――好奇の目は、全部あなたの家に向きます」


「――うん、分かってるよ」


 竜を失い、没落した私の家では、もう盾にはなれない。


 アルトの表情は、風が薙いだように静かだった。

 どれだけ怒っても、

 どれだけ好奇の目に晒されても、

 「大丈夫だ」と本気で思っている顔だ。


 根拠はない。

 けれど無責任な楽観とも違う。

 何も言わないのに、どこか先回りしている目が、いつも私の胸の奥を冷やしていく。


 だからこそ――私が前に出るしかない。

 矛先がアルトに触れる前に、ヴァレットの名で立つ。

 そうしなければ、危うい方へ転びそうな気がした。


 ――次の瞬間、扉の向こうで革靴が止まった。


「王家がお呼びだ。開けろ」


 扉の外から声がした。

 アルトが息を止め、カグツチの笑みが消える。


「恐れながら――ヴァレット家令嬢、ルシア様の控室。ご許可なく開扉できませぬ」


 沈黙。声が一段、乾く。


「……ヴァレット、か。承知した」


 踵が鳴り、靴音が離れていく。

 外で、衛兵がようやく息を吐いた。――守り切った、という吐息だ。

 それでも私の視線は、鍵から目を逸らせなかった。


 重たい空気の中、アルトを見やる。彼は扉を見たまま、息をひとつだけ吸った。

 その仕草が、やけに慎重だった。アルトの喉が小さく鳴った。

 胸の奥に、ひやりとしたものが落ちる。


 けれど次の瞬間、口角がほんの少しだけ上がる。いつもの整った表情に戻し、彼は軽く肩をすくめた。


「大丈夫だよ、ルシア」


 言い切って、アルトは扉から視線を外した。

 カグツチの肩をぽん、と叩く。

 

 彼はこの状況を恐れていないのではない。

 恐れるものを、こちらに見せないだけだ。

 まるで、私とカグツチを置いて――一人だけ、どこか遠くへ行ってしまいそうで怖かった。


「ほら、今のうちに帰ろう。ここで顔に出すと、相手のごちそうになる」


 冗談めかした調子。けれど瞳の奥は揺るがない。

 私は喉の奥で息を噛み、頷くしかなかった。

 アルトが扉を開ける。

 外の通路には、まだ決闘の熱気が渦巻いていた。

 しかし、その熱気の中に、異質な冷たさが混じっている。

 階段の下。人波が割れたその先に、見覚えのある白銀の影が揺れた気がした。

 ……まさか。

 嫌な予感が、胸の奥で警鐘を鳴らす。

 このまま無事に帰れるとは、最初から思ってはいなかったけれど。

 私は覚悟を決め、二人と共に一歩を踏み出した。

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