24.つがい
焚き火が、静かに音を立てて崩れた。
燃え落ちた枝が内側へと沈み、橙の光が一段、低くなる。
その変化に合わせたように、カグツチがようやく顔を上げた。
振り向きはしない。ただ、視線だけがわずかにこちらへ寄る。
「……話、終わった?」
低い声だった。
「ええ。ひとまずは」
センスが応じる。
軽い口調のまま、だが視線は火から離さない。
「ご不快でしたら謝ります。少々、説明が過ぎましたね」
「いや」
カグツチは短く言って、再び火へ目を戻した。
その横顔は、いつもと変わらない。
穏やかで、静かで、何かを抱え込んでいるようには見えない。
――それが、余計に胸に引っかかった。
私は焚き火を挟んだまま、彼を見つめる。
問いかけたい言葉は、山ほどあった。
けれど、今この場においてどんな言葉が適切なのか、分からなかった。
代わりに、センスの方が先に口を開いた。
「……だからこそ、僕は不思議に思っていたんです。そんな仕組みの中で、なぜ君はそんなにも怒りに近い振る舞いを見せるのか、と」
穏やかな声だったが、その内には確かな探究心が滲んでいた。
カグツチの耳がぴくりと動いた。
「怒りという欠落が僕たちを道具にしたのだとすれば……君は例外です。君には怒りに近い反応がある。――ただ、生来の怒りとは違う。向きが偏っている。後天性の怒りに見えますね」
センスは小枝を手のひらで転がしながら、独白のように続けた。
「……竜種の行動としては、かなり極端です。通常の繁殖相手であれば、ここまでの敵意も、執着も示しません」
静かに枝を回しながら、彼は続ける。私は小さく息を呑んだ。
それを、センスは見ていないふりをして言葉を重ねる。
「守る、囲い込む、距離を詰める。――全てが過剰になる」
センスの視線が、もう一度私に戻る。
「――だから、僕は番を疑いました」
その言葉に、私は息を詰めた。
言葉の意味が胸に落ちてこない。
「……ふふ、そういうことですのね」
ノエルはくすりと笑い、どこか納得したように頷いた。
「前から思っていましたけれど……カグツチ、ルシアさんのことになると、距離感が完全におかしいんですもの」
バケツに張った水で紙を湿らせながら、ノエルがじゃがいもを丁寧に包んでいく。
「きっと、カグツチにとってルシアさんがその番という存在だから――特別に見えてしまうんですわね。まるで仲睦まじく寄り添う鳥のように」
火に視線を落としたまま、カグツチは何も言わない。
「惜しいですね、お嬢様。ほぼ不正解です。見た目は似ています。ですが、同じではありません」
「不正解なら惜しいって言わないでくださいましっ!」
センスの穏やかな声が、焚き火越しに届く。
「番とは、人間のような恋愛感情ではありません。竜種にとっては――構造上の欠落を補う、機能的な存在です」
その言葉に、私は思わず眉をひそめた。
「……欠落?」
「ええ。先程も話した通り、竜種は生まれつき欠けている存在なんです。番を持つことで初めて、ひとつの存在として完成する」
「……まあ。味気ないことをおっしゃいますのね」
ノエルは手を止め、首をかしげた。
「だって、見ていれば分かりますわ。カグツチがルシアさんを見る目は、とても構造だなんて呼べるようなものじゃない。優しさと愛しさと、尊敬すら滲んでいた気がしますけど?」
「それは、番だからです。欠けた構造を補おうとするのは、本能です」
誰も、すぐには続く言葉を見つけられなかった。
私は、無意識に手を握りしめていた。
その言葉は、ひどく冷たく、正しくて――人間と竜種のあいだにある、決定的な壁を見せられた気がした。
センスは、まるで空腹時に食事を求めるような、当たり前の事実としてそれを述べた。
「……欲しいものを手に入れようとする。それ以上の意味が、どこにあるというのでしょう?」
「番だからあの態度に? 恋とか愛とかじゃなく?」
「恋愛という概念自体、竜種には……ないとは言いませんが、稀です。それは人間だけに備わった種の保存のための機能です」
ふうん、とノエルがわずかに唇を尖らせる。
「なんだか……話が噛み合いませんわね」
言い切ると、センスは小枝を止め、こちらをじっと見つめた。
言葉ではなく、その瞳が、静かに問いかけてくる。
「――センス。それ以上は言わないでくれ」
カグツチの声が、低く、静かに割り込んだ。
その声音には、普段の陽気さとは異なる――どこか、切実なものが滲んでいた。
「人の言葉で伝えられるものだと思ってないから、これ以上はルシアに何も言わないで」
焚き火の炎が揺れ、カグツチの横顔に赤い影を落とす。
それは、どこか自嘲にも似た表情だった。
しばらく、焔の音だけが響いていた。
なにか言うべきか、少し悩んで――なんの言葉も持っていない自分自身に気付いた。
それでもセンスは微笑みを崩さなかった。
「……なるほど。でも、僕には言わなければならない理由があるんです」
その声は、優しく、けれどどこか他人事のような――どこまでも淡々とした響きを持っていた。
「竜種と人間の番なんて、神話の中の物語のはずでした。けれど……いま、それが目の前にある」
センスは持っていた枝を焚べ、ふっと笑った。
「僕には、もう時間がありません。だから、見られるものは見ておきたいんです。知りたいことは、聞いておきたい」
その声音には、年長の竜種としての穏やかな諦観と、死を前にした者ならではの、どこか飄々とした切実さがあった。
「教えてもらってもいいですか、カグツチ。番を見つけた時の感想を」
センスのそれはただの好奇心だ。
相手の懐に堂々と歩み寄り、狙ってもいないのに的確な部分を刺してくる。
こんな相手、人間では見たことがない。
カグツチは目を伏せ、口を開こうとしない。
その姿を放っておくことは出来なかった。
「センス、その辺りになさいな。あなたの容赦ない好奇心にカグツチが嫌がっていますわ」
私より先にノエルが飽きれたように言葉を挟む。
その声に、焚き火の熱がわずかに揺らいだ。
センスは困ったように笑ったが、その視線だけは、少しも引いていなかった。
その好奇心を宿した金色の瞳をこちらへ向けた。
それは標的が私に切り替わった合図のようだった。
「ではルシアさんにお聞きします。彼に違和感を持ったのはいつですか?」
うまく整理がついていないところに飛んできた質問に、思考がうまく働かない。
思い返せば――彼は、王都を離れてから、ずっと近すぎた。
紙に包まれたじゃがいもが、火の中へと転がされる。
くすぶる煙が立ち上り、焚き火の熱がじんわりと頬を撫でていった。
カグツチは何も言わないまま、焚き火の中で跳ねる火の粉を眺めている。
その沈黙が、答えなのか、逃げなのかは分からなかった。
「センス、おやめなさい。これ以上は本当に無礼ですわよ」
「お嬢様が僕を咎めるなんて、珍しいこともあるものですね」
「あなたがあんまりにもあんまりだからです」
センスは目線を上げ、焚き火越しにこちらを見た。
しかしそれ以上は何も言わず、口元に笑みを湛えたまま閉ざした。
必要だから、求められる。
ノエルの温度は救いの形をしていた。
だから、明確に拒まなければと思えた。
救われれば私は止まる。あの日の私を裏切る。だから優しさを受け取る自分を迷わず殺した。
じゃあ、カグツチはどうなのか。
彼に与えられた優しさは――共犯や救いではなく、構造。
それが構造だと言われた瞬間、私は初めて、拒否する理由すら奪われた気がした。
どこにも置けない感情だけが、沈殿していく。
だから私は、答えを出さずに考え続けている。
焚き火のはぜる音だけが、涼やかな昼の風に溶けていく。
ガラス張りの天井から差し込む陽射しが金色に踊り、地面の影をじわじわと伸ばしていた。
その中で、紙に包んだじゃがいもが香ばしい匂いを立てはじめる。
「……できましたね。よく火が通っています」
その一言で、張り詰めていた空気が、ようやく緩んだ。
センスが枝で芋をつつき、ノエルが手際よく皮をむきはじめる。
薄く焦げた皮の中から、ほくほくと湯気を立てる中身が顔を覗かせた。
「塩、持ってきてますわよ。……はい、どうぞ、ルシアさん」
「……ありがとうございます」
渡された芋に塩を振り、ひとくち齧る。
甘みと塩気がじんわりと口の中に広がり、昼の光の温度すら優しく感じた。
「……美味しいです」
——なのに、胸の底だけが冷たいままだった。
拒む理由すら奪われた、という言葉が、喉の奥に刺さったままだ。




