22.従順
ノエルは小さく手を打ち鳴らした。
「そうですわ、今日はお昼に焼き芋をいただきましょう! ねぇルシアさん、焚き火をしませんこと? この温室、風もないから安全ですし」
すぐさま、センスが制止するように口を挟む。
「煙がこもります。ここ、天井は密閉されていますから」
「なら、開ければよろしいだけの話ですわ」
ノエルが指を天井へ向ける。
「カグツチ、点検用のはしごはまだ使えましたわよね?」
「ほんっと竜使いが粗い女だな……」
石畳を蹴った瞬間、朱の火がふくらみ、彼の輪郭を一気に塗り替えた。
カグツチは一瞬で竜になって天井へ舞い上がる。
梁に尾を絡めて身を返し、人の姿へ戻る。点検用のはしごを片手で掴んでいた。
古びたレバーを軽く引くと、ぎぃ、と音が鳴る。
天井が開いて冷えた風が入り込んだ。
ひんやりとした空気とは裏腹に、場の空気だけが和らいだ。
「開いた!」
そう叫んだ直後、彼はそのまま地上へ降りてきた。
重さを感じさせない落下で、膝を折り、音ひとつ立てずに着地する。
「ふぅ、着地成功っと」
こちらへ向き直ったカグツチは、胸を張っていた。
自信に満ちたどや顔がまぶしいほどに誇らしげで、なにか大仕事をやり遂げた戦士のようだ。
カグツチのその誇り方と、してみせた行動の落差に、私の視線がそっと止まる。
……とても褒めて欲しそうにしている。
「見事な着地ですよ、カグツチ」
そう言うとカグツチはますます胸を張った。
あたたかな空気が温室に満ちる。
「センス、カグツチの素直なところだけは見習った方が良いですわよ」
ノエルが皮肉まじりに呟くと、センスが肩をすくめて返す。
「僕はとても素直で従順ですよ? 長いこと豚貴族に付き従っていたのですから。知りうる限りの語彙で盛大に褒めてほしいものです」
芝居がかった口調でぺこりと頭を下げるセンスに、私は苦笑する。
しかし――その仕草からは、いつもの軽薄さがやや薄れているように思えた。
角のひびは昨日よりも確かに深くなっていた。
なのに彼は、触れさせまいとするように冗談で覆い隠す。
相変わらずのセンスの自由っぷりにノエルは深いため息をつく。
しかし、どこか嬉しそうにも見えた。
僅かな間を置いて、やがてノエルは視線を落とした。
「なぜ……竜種は従順なのか――ルシアさんは、不思議に思ったことはありませんか?」
ノエルはマッチを擦った。
小さな火花が弾け、乾いた音を残して地に落ちる。
それを見届けたように、ノエルの視線が――センスの角のひびに吸い寄せられた。
どうぞ、と焚き火を囲むように並べられた麻の袋をシートの代わりに、それぞれが腰を下ろした。
「この城に来てから、ずっと考えていたのです。彼らは人間より圧倒的に強い。それなのになぜ、人間の道具に成り下がるのか……」
その声音には、静かな疑問と、ほんの少しの痛みが滲んでいた。
私はノエルの横顔を見つめながら、言葉を返せずにいた。
従順。たしかに、そうだ。
人の姿であっても、彼らは大の男を容易く制する力を持っている。
それでも――彼らは、それを使わない。
強さと従順。
そのどちらもが、与えられた形のように刻まれている。
それが意志なのかどうか――私は、まだ考えきれていなかった。
「センスの……スコット家での扱いは、今にして思えば、ひどいものでしたわ」
火を育てながら、ノエルはぽつりと漏らした。
「当時の私は、それが普通だと思っていたんです。貴族にとって、ドラグマキナを道具として扱うのは当たり前のことで……疑問にすら思わなかった」
かすかに眉を下げて、苦笑する。
「角にひびが入って、私がセンス共々不要なものとして捨てられるまで……彼が傷ついていることにすら、ちゃんと気づけなかったのです」
センスが火に向かって手を振りかざすと、穏やかな風が火を撫でた。
それからことさら楽しげに笑ってみせる。
「僕たちが本当に道具であれば、何も問題はなかったのですがね」
軽く笑ってみせながら、彼の目は遠くを見ていた。
小さく、鼻をすする音がした。
隣を見ると、ノエルが手の甲でそっと目元を拭っていた。
「……火が強すぎて、灰が入ってしまいましたわ。センス、あなたの風は火を育てすぎる」
微笑もうとした唇が、わずかに震えている。
センスはそれを見て、ほんの少し首を傾げた。
「……ふふ、申し訳ありません」
茶目っ気を込めた口調は、どこか優しかった。
ゆっくりと息を吸い、私は手を膝の上で組む。
「……その価値観は、きっと、私もノエルさんと同じです」
口にした瞬間、胸が少しだけ痛んだ。
「竜は従順で当然。忠実で当然。……道具であることが、彼らの在り方だと――疑いもしませんでした」
当然という言葉が、自分の口から出たことに、後悔が滲む。
けれどそれが、この国で育った貴族の本音だった。
民は貴族という生き物を、ひとつに括る。
その目を、私はひどく冷たいものだと思っていた。
しかし――その目を責められるほど、私は正しく生きてきただろうか。
竜を。道具を。私自身もまた、同じひとつの生き物として扱ってきたのに。
なのに今では、その当然という言葉すら――自分を裁く刃のように思えてしまう。
焚き火の炎はまるで、人間社会の醜い部分を照らすようだった。




