20.やさしい温度
薄いレースのカーテン越しに、朝の光がうっすらと瞼に落ちる。
身体を起こすと、昨日までのだるさが嘘のように消えていた。
「……自分の部屋で寝なさいと、あれだけ言ったのに」
その寝顔に、そっと声をかける。
私のベッドに上半身を預けたまま、カグツチは床で眠っていた。
この一週間で、彼の寝床はすっかりここになった。
氷の城に滞在を許されてから、一週間。
王都からの追手が現れる気配はない。
外を見回ってくれたカグツチの話では、この辺境には雪が静かに降り積もるばかりで、足跡ひとつ見つからなかったという。
「ルシアさん、朝食をお持ちしましたわ」
控えめなノックとともに、穏やかな声が響く。
私はカグツチを起こさぬようにそっとベッドを抜け、扉を開ける。
ノエルは少し驚いたように目を見開き、すぐに嬉しそうに笑った。
その笑顔につられて、私の口元にも自然と笑みがこぼれる。
「まぁ……随分と回復なさったのですね!」
明るい声に、心からの安堵がにじんでいた。
彼女は看病の間じゅう、ずっと笑顔を崩さなかった。
「えぇ。ノエルさんのおかげです」
私は小さく頷き、礼を込めて応える。
「……ところで、そこの愚竜は、主を差し置いてまだ眠っていらっしゃいますの?」
呆れたように肩をすくめ、すやすや眠るカグツチへ目を向ける。
その声には、どこか優しい棘があった。
「不思議ですわね。ドラグマキナでいらっしゃるのに、まるでご自分の意思で寄り添っているように見えますわ」
ノエルは、珍しい植物でも見るような目で彼を見つめていた。
「……カグツチは私の竜ではありません」
私の言葉にノエルは、納得したように相槌を打った。
「やっぱり。ヴァレット家のドラグマキナはスピカ。二機同時の所持なんて聞いたことありませんもの。ですがカグツチのお名前、社交界では一度も聞いた事がありませんけれども……彼はどちらの家の竜なのですか?」
ノエルが答えを催促するようにこちらを見ていたが、私は何も答えられなかった。
彼の姿が脳裏をかすめる。
――そっと、心に蓋をした。
今はまだ、そこに触れてはいけない。
触れたらきっと――その優しさの温度を思い出してしまう。
「そういえば――一つ、ずっと気になっていた事がありますの」
「……なんでしょうか」
ノエルは敢えて話を逸らした。
気を使ってくれたのだと分かる。
「ルシアさんは、なぜこのような辺境の地にお越しになったのですか?」
ノエルは今日の天気でも尋ねるように、屈託のない笑みを私へ向けた。
何か答えなければ――言葉を紡ごうとして、喉の奥が鳴る。
彼女に隠し事はしたくない。
それでも、巻き込むことはもっとしたくなかった。
今まで磨き上げた社交術も、交渉術も、なんの意味も持たない。
何を返したら良いのか、私は完全に言葉を失っていた。
ノエルは黙って持っていたトレイをテーブルに置き、私のもとへ歩み寄る。
「……失礼」
そのまま、母のように私を抱きしめた。
「今だけは、家の格差には目を瞑って頂けると嬉しいですわ」
優しさは、復讐で固めた心をあまりにも容易く剥がそうとする。
だから私は、優しい人が、いまいちばん怖い。
ノエルのドレスからはほんのりと土の香りがした。
その優しさの温度に身を委ねたまま、ここで暮らすことが出来たら――それを人はきっと、幸せと呼ぶのだろう。
アルトは間違いなくそれを望むだろう。
それでもいま、涙を流せなかった私に、その選択肢はなかった。
私に寄り添うのは優しさであってはならない。
その復讐の炎を絶やしてはならない。
あの日、あの広場に――ルシア・ヴァレットはすべてを置いてきたのだから。
「……ありがとうございます、ノエルさん」
私は彼女から一歩引いて、見上げたまま笑顔を浮かべた。
彼女から受け取った優しさはそのままに、
私はその場で救われるはずだった自分を一人、殺した。
「――まずは朝食にいたしましょうか」
テーブルに置かれたままの湯気の立つスープを差し、ノエルはふわりと笑った。
部屋の中央に据えられたテーブルへと歩み寄り、彼女は手際よく「どうぞ」と椅子を引いてくれる。
その控えめな音に反応して、ベッドに凭れていたカグツチが目を覚ました。
「……んん、おはよう」
「仮にもドラグマキナであるというのに、主より遅く目覚めるとは何事ですの! 全く、どういう教育を受けてこられたのかしら!」
「オレ、教育なんて受けてねーよー……ふぁあ」
カグツチはのんびりと欠伸を漏らしながら、ゆっくりと身を起こした。
背を反らしながら大きく伸びをし、くるりと尻尾を振ると、その風圧で私とノエルの髪がふわりと揺れた。
「あれ、センスは?」
「……まだ寝ておりますわ」
一瞬、ノエルの表情に翳りが見えた気がした。
しかしそれも一瞬のこと。
「えぇ、そりゃもう、すやすやと! 起こそうとしたら、尻尾でビターンですわ」
ノエルは肩をすくめ、呆れ顔で眉を下げる。
「寝ているはずなのに、反射的に尻尾を振ってくるんですもの……まったく」
「どういう教育、受けてこられたんだろうねぇ?」
カグツチは笑いながら、自分で椅子を引いて席についた。
ドカッ、と音を立てて座れば、椅子が軋む。
「センスが本来は自由奔放すぎる竜だと知ったのは、つい最近のことですのよ」
そう言って、ノエルも椅子を引いて私の向かいに腰を下ろす。
テーブルの上には、湯気を立てる陶器のスープ皿。今日も、じゃがいものスープだ。
ただ、添えられた具は日によって違う。今朝は薄切りのじゃがいもが浮かんでいた。
ノエルが作る料理は、味の予測がつかない。
今日こそ、美味しくありますように。
スプーンを握る手に、じんわり汗が滲む。
「ルシア、センスってこの城に来る前はちゃんとドラグマキナらしかったらしいよ。昨日ノエルから聞いた」
その言葉に、私はスプーンを持つ手を一瞬止めた。
それは昨日、センス本人から直接聞いた話だった。
でも、ノエルがカグツチに話していたとは知らなかった。
「スコット家もご多分に漏れず、センスをドラグマキナとして扱っておりましたわ。私も、それが当たり前のことだと思っていたのですけれど……」
ノエルは小さく笑う。
「でも、あの竜はそれが――どうやら、心底嫌だったようですの。今ではその反動でしょうか、まるで貴族のように、のんびりと過ごしておりますわ。……まったく、どっちが貴族なんだか分かりませんわね」
「え、角のひびの影響じゃないの?」
カグツチが思わず問いかけると、ノエルはほんの少し驚いたように瞬きをした。
当然だ。まさか――竜本人が竜のことを知らないとは、ノエルも思わなかったのだろう。
「竜の身体は人間よりも遥かに丈夫ですし、機能が停止する直前まで普段通りに動けますの。……ご存じなかったのですか?」
「前にルシアが言ってたっけ」
「カグツチは講義めいた話になると寝てしまうのです」
「まぁ……本当にあなた貴族の竜なのかしら?」
世間一般の常識から外れたカグツチの逸話に、ノエルは呆れた顔をしていた。
「でもさ、あいつ角のひびが~って、いつも言ってるじゃん」
「あれは、動きたくないための方便ですわ」
今度はカグツチが呆れた顔をしていた。
「オレが言うのもなんだけど……それでいいの? センスのこと、全部ノエルがやってんだよな?」
喉が渇けば紅茶を出し、しかも砂糖の数まで細かく指定――そんなやり取りを、私はこの一週間で何度も見てきた。明らかに主従が逆転している。
「いいんじゃありませんこと? スコット家はもうありませんし、いまさら誰に責められる筋合いもありませんわ」
ノエルは悪戯っぽく笑った。
「ふふっ、そうですわ! まだ爵位だけは残ってますし、社交の場にセンスを放牧してぶち壊してやろうかしら! ふたりでケーキを端から全種類お皿に乗せて、紅茶にはお砂糖を好きなだけ入れて!」
はしゃぐ子どものように言ったあと、彼女は少しだけ身を正した。
「……なんて。私は貴族の器ではありませんわ。氷の城で静かに暮らす方が、性に合っていますのよ」
そしてふと思いついたように、笑みを浮かべる。
「――そうだ、ルシアさん。軽く散歩がてら、この城をご案内しても? あなたに、見ていただきたいものがあるのです」
そう言ったノエルの表情は、とても誇らしげだった。
宝物を見せてくれるような、そんなときめきに満ちた表情に――思わず頬が緩んだ。




