19.センス
今日もカグツチはノエルの手伝いをしていた。
なにをしているのか詳しいところはわからないけど、どうやら農作業を手伝っているらしい。
カグツチに農作業の経験があるとは思えなかったが、意外とハマってしまったのか、強制連行された翌日からはノエルに命じられれば素直に従っているようだ。
部屋には私とセンスの二人きりだった。
「ところで、この城には他に従者の方はいらっしゃらないのですか?」
ベッドの上で上体を起こして座る私は、ソファの上で悠々自適にくつろいで寝転がっているセンスに訪ねた。
「他に……と言うか、この城に従者はおりませんよ。スコット家は実質解体になりましたからね」
「竜を失っても、貴族の名と領地が維持される例は珍しくないはずです。何がそこまでの事態を――」
ノエルは言っていた。この雪原に広がる別荘群は全てスコット家の負債だ、と。
かと言ってそれだけが領地を取り上げる理由にはならないはずだ。
スコット領がどこにあったか定かではないが――他の領に吸収されたと言う話も……いや、あったかも知れない。曖昧だけれど。
「原因は僕です」
あまりにも静かな声だった。
思わず聞き流しそうになって慌てて聞き返す。
「……どういう事です?」
「ノエルお嬢様のご両親はクソ……いえ、失礼しました。大変クソみたいな性格でした」
「言い換えの意味はあったのでしょうか」
私の言葉を返すことなく、センスはそのまま続けた。
「自分より格下の貴族や、竜を失った家を踏み台にして――えぇ、歴史の浅い貴族にありがちな、典型的な振る舞いです」
そういう貴族をよく知っている。
嫌と言うほど見てきた。
「竜種の態度に関しては、他の家より酷いものでしたね。僕、王様から下賜されているはずなんですなんですがねぇ」
そこで一拍置き、角に指を添える。
そして皮肉っぽく笑い、続ける。
「ふふ……道具だった頃が懐かしいですね。貴族はとにかく注文が多い。着飾ることも、長い髪も“美”として評価される――品評会みたいなものです。……もっとも、切りましたが。もう、不要なので」
それが、この城に来て初めてセンスを見た時に感じた違和感のもう一つの正体だった。
一度、口元だけ笑うようにして、彼は続ける。
「いくら飾られても、心のほうは摩耗していくんです。夜ごとの軽口、面と向かっては言われない侮蔑――回りくどく、陰湿に。言葉で、じわじわと削られていきます」
センスは肩をすくめ、苦虫を噛み潰すような嘆きを口にした。
それ以上、言葉は続かなかった。
「ひびの件――カグツチは知らないようでしたが、ルシアさんは知っておられましたよね」
「……えぇ」
うちのドラグマキナは角にひびが入っていて――そんな言い回しは、目上の相手にへりくだるための常套句として、貴族の間ではよく使われる。
「僕の角にひびが入った日――ちょうど、お嬢様の竜継の儀のその日に、お嬢様の両親は忽然と姿を消されました。逃げたんですね」
淡々と語るセンスの声音は、皮肉とも憤りともつかない、奇妙な静けさを纏っていた。
その言葉に怒気は含まれていない。発火しないまま沈殿する違和感が静かに残る。
「いずれにせよ、あのお二人は――お嬢様に僕を押し付けて逃げたのです」
センスはそこで言葉を切り、ソファに投げ出していた足を組み替えた。
信じられない言葉に耳を疑った。
「……信じられません。竜とは、その家の名そのもの。そんな扱いが……許されていいはずがありません」
母の話によれば、スピカはその生命が燃え尽きる寸前まで、言葉を紡ぎ続けていたという。
つまり、センスのように捨て置くなどという無惨な扱いは――決して、ありえなかった。
「いえ。壊れかけの道具のことなど、もとよりどうでもよいのです。僕の中で折り合いがつかないのは――それでも僕を捨てず、この辺境の地まで連れてきてくださったノエルお嬢様のことまで、あの二人が、見限ったという事実なのです」
「ノエルさんにそんな過去があったのですね……さぞ、肩身の狭い思いをされてきたのでは」
センスは意味ありげに笑った。
それは私の言葉に対する否定だった。
「――僕の角にひびが入るまでは、彼女は僕に対しても本当に、典型的ないやみったらしい悪役令嬢でしたよ」
「……え?」
意外すぎる返答に思わず間の抜けた声が漏れる。
だがセンスは頷き、続けた。
「本当です。スコット領にいた頃の彼女は、領民にさえ疎まれ、嫌われる貴族の娘そのものでした」
センスの声がわずかに沈んだ。
「角にひびが入る前日です。当時の僕には、あれをどう扱っていたのか――よく分かりません。ただ、持っていた。それだけの理由で、その私物は一度は捨てられました」
その言い方は、あまりにも淡々としていた。
捨てられたものが何だったのか――
それを失ったことが、どんな意味を持つのか。
センス自身ですら、まだ言葉を持っていないように思えた。
「ただ、今も手元にあると言う事は、大切なものなのかもしれませんね」
私は、それ以上を問わなかった。
「けれど……違ったのです。あれは素ではなかった」
まるで遠い出来事を思い返すかのように、センスは窓の外の雪景色を眺めていた。
私が言葉を挟むのは無粋な気がして、ただセンスの言葉に耳を傾けた。
「僕が家ごと破棄されたあの日。お嬢様は、荷運び用のソリに僕を乗せて、ここまで運んでくださったんです。……途中、馬が転んで逃げるわ、ソリは横転するわで。ええ、本当に大変でしたよ」
私は国境からここまで、カグツチの背に乗ってきた。
だから、自分の移動については苦労と呼ぶほどのものはない。
だが、ノエルは違う。
途中で馬を失い、荷運び用のソリが横転し、しかも人の生存圏の外側で――それでも引き返さなかった。
私なら、その状況で同じ判断が出来ただろうか。
そう考えただけで、背筋が静かに冷えた。
「それから……どうしたのですか?」
「止せばいいのに、僕を乗せたソリをずるずると引いてましたね。髪は雪で、顔は涙でぐしゃぐしゃ。手のひらは血が滲んでぼろぼろ。あまりにも可哀想なので途中から歩きましたが」
そう語るセンスの表情はどこか嬉しそうだった。
「彼女の本質は、生真面目で、誠実で――誰よりも善良な人でした。……えぇ、頑張る方向が残念なだけで」
――それなら、なぜあんな振る舞いをしていたのだろう。
「与えられた『スコット家の娘』という役割を、誰よりも忠実に、完璧にこなしていただけなのです」
「……そんな生き方が、できるのですね」
否定ではなく、驚きと敬意を含んだ問いだった。
センスは微かに笑みを浮かべる。
「あなたもそうでしょう?」
即答できなかった。
「この城で最初にお嬢様の前で見せた貴族の振る舞い――あれは、一朝一夕で身につくものではない。所作に滲む重みが違います。背負ってきたものの違いは、どうしたって隠せないものですから」
ふと、胸の奥に引っかかるものがあった。
この城へ来てから、ノエルとセンスの関係は明らかに常識を逸脱している。
それはもう、私の知っている貴族と竜の関係性ではない。
センスは自由に振る舞い、ノエルに至っては――まるでセンスに対して、どこか罪悪感を追っているような。
ずっと、そんな風に思えて仕方がなかった。
「……僕が、あの仕打ちをひどいとか、嫌だとか、そんなふうに思えるようになったのは――」
センスの視線はどこか遠いところにあった。
「この城に来てからのことなんですよ」
彼の言葉は続く。
「僕は、ここに来て初めて、人として扱われると言う事を知りました。だから――嫌だと思えたのですよ」
私は言葉を継ぐ事が出来なかったが、その沈黙は重苦しいものではない。
ただ、深く胸に落ちるものがそこにはあった。
――人として、扱われること。そんな当たり前のことが、彼らにとっては「比べなければ気づけない」ほどに、奪われてきたのだ。
「……センスはノエルさんを大切に思われているのですね」
問いかけると、センスは一瞬だけ目を伏せた。
「いいえ。そういうものではありません」
柔らかな笑みの裏に、説明のつかない影が揺れた。
「……理由、という言葉は少し違うかもしれません。僕が彼女のそばにいるのは――言うなれば因果、ですね」
静かに語るセンスの瞳には、過去の記憶をたどるような、遠い光が宿っていた。
昔の彼女のことは知らない。
しかし今のノエルからは、貴族らしい嫌味や嘲笑など微塵も感じられない。
気品がありながらも、優しさに満ち、そして時折、儚さを纏っている。
「……時々、昔のことを思い出しては情緒不安定になるのです。そんなお嬢様を見ているのが、僕の楽しみでもあります」
その言葉は、ひどく静かだった。
そう語るセンスの口元に、どこか誇らしげな微笑みが浮かぶ。
決して恨みや憎しみとは違う――しかし愛情とも取れないその言動に、私は少し混乱していた。
しかし――
「僕は――もうすぐ、この世界を去る身です」
深々と降る、雪のような静かな声だった。
そのとき、彼は一度だけひび割れた角を指先でなぞった。
「お嬢様が、僕にいまという時間を与えてくださったように……僕も、彼女に何かを残したい。えぇ、例えば――気のおける、友人など。……どなたか、適任がいればいいのですが」
冗談めかした笑みの奥に、静かな願いがにじんでいた。
自分がいなくなったあとも、あの人が独りきりで泣かないように。誰かに笑ってもらえるように。
それが、ひび割れた角を抱えながらも、最後まで気高くあろうとする彼なりの祈りだった。
「ふふ、ノエルさんがそう思っていただけるなら……私としては、もう十分嬉しいのですけれど」
「――では、ノエルさんのご友人に一つお願いをしてもよろしいでしょうか?」
センスは笑みを浮かべたまま言った。
その視線はどこか鋭い。
「どうか、あなたが歩もうとしている茨の道の行く先は――お嬢様には伏せてほしいのです」
やがてその視線は、私ではなく、窓の外の雪原に向けられていた。
彼はスコット家の竜ではないと語っていた。
しかし、その身の振り方はどう見ても主を敬う竜の姿そのものだった。
「えぇ、センスに言われなくてもそうするつもりでした。――あの方に、血の色は似合わない」
――その瞬間、控えめなノックの音が響き、部屋の扉がきぃ、と小さく開いた。
入ってきたのは、背中をぐったり丸めたカグツチだった。
「つ、つかれた……」
その気配が近づいてくる前から、空気の重さが少しだけ変わった。
ふらふらと千鳥足でこちらへ歩み寄り――そのまま膝をつき、上半身だけをベッドにぐでんと投げ出してきた。
「ノエルは竜使いが粗いんだよ……センスも大変だな、今までよくあんな破天荒令嬢の面倒見てたね?」
文句を垂れながらも、顔には疲れよりも呑気さが漂っていた。
まるで最初からそこにいたかのような自然さで、カグツチは一度だけ私を見上げ、ついでのようにセンスへと視線を向けた。
……けれど、カグツチの言葉に、私はほんの少し、心の中で首を横に振る。
さっきまでセンスが語っていた過去を思えば、彼がノエルお嬢様の面倒を見ていたとはとても思えない。
むしろこの城に来るまで、センスはノエルのことを――わがままで傲慢な、悪役令嬢だと誤解していたのだから。
そんな彼を見て、センスは肩を揺らすように、小さく笑った。
「ふふ……僕は、お嬢様の面倒など、見たことがありませんよ」
その言葉には、どこか誇らしげな響きがあった。
愛情も、信頼も、敬意も――そのすべてが、そこには確かにあった。
「カグツチ、扉を開けてくださいませ!」
「えぇ~……オレ、もう一歩も動けない。センス、頼んだー」
「角が折れてもよろしければ」
ソファに優雅に身を預けたまま、センスは涼やかに微笑んだ。
「ルシアさんのお薬を持っていて、両手が塞がっているんですのよ!」
その一言で、カグツチの態度が変わった。
「……そういうのは最初に言えって!」
先ほどまでぐったりしていたのが嘘のように、ばっと立ち上がると、勢いよく扉を開ける。
開いた扉のその先には――頬に泥をつけたままのノエルが、いつものように涼しい顔で立っていた。
カグツチは、ノエルから薬の入った皿を受け取ると、迷いなく私の隣に腰を下ろす。そしてスプーンで緑の液体をすくい、そのまま、ためらいもなく私の口元へと運んできた。
――毎回、こうなのである。
自分で出来ますと何度伝えても無駄だった。「オレがやりたいから!」の一点張りで、まるで子供のように強情なのだ。結局こちらが根負けし、折れるしかない。
だから私も、今日もまた――半ば諦めのような気持ちで、口を開ける。
ごくん、と薬を飲み干すと、カグツチはいつものように、満足げに目を細めた。
それから私はノエルの方へ向き直る。
「ノエルさん、少しこちらに」
不思議そうに首を傾げながら、ノエルは私の方へ寄ってきた。
「せっかくのきれいなお顔が汚れています」
そっと指先で、彼女の頬についた泥を拭い取る。
「……っな、なな、な――」
ノエルは目を丸くしたかと思うと、瞬く間に顔を真っ赤に染めた。
その様子が可愛らしくて、思わず微笑がこぼれる。
「……な、はぁっ……ぜぇ、は、はぁっ、ぜぇ……っ!!」
隣で突然、荒い呼吸音が響く。
「大変です、お嬢様が純度の高い優しさを浴びて過呼吸を起こしています。カグツチ、なんとかしてあげてください」
「なんとかって?」
「人間の構造は分かりません。みぞおちに一発食らわせたら止まるのでは?」
「オレがやったらたぶんノエルの内蔵破裂するけど?」
「困りました……過呼吸を取るか、内蔵破裂を取るか……悩ましいですね」
「悩ましくもなんともありませんわこの愚竜ッ!!」
私がようやく熱を下げて起き上がれるようになった頃には、カグツチも私もすっかりこの氷の城での生活に馴染んでいた。
雪の降る静かな城で、ささやかな日々を重ねるうちに、一週間が過ぎていた。




