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01.貴族遊戯

 ――決着に間に合わない。


 石段を駆け上がりながら、私は何度もそう思っていた。

 冷たい外気が胸を刺し、息がうまく吸えない。足が縺れそうになるたび、心臓が嫌な音を立てる。


 段差を踏み外した瞬間、舌を噛んで口の奥が鉄の味で満ちていく。

 立ち上がり、駆け上がる。

 ここで遅れたら、アグレストの評判は一夜で決まる。私の手の届かないところに置かれる。


 ――アルトが決闘を受けた。

 その知らせを聞いた瞬間から、鼓動は速まったまま戻らない。


「なぜ、よりによって今なのですか……!」


 答えが返らないのは分かっている。

 それでも声に出さなければ、足が止まりそうだった。


 私はアルトの婚約者で、ヴァレット家の最後の娘だ。この国の貴族たちの視線がどう人を殺すかを知っている。


 社交の場に顔を出さないアグレスト家が、人前に引きずり出される。

 竜を持つ家にとって、それがどれほど危険な意味を持つか――

 社交界の目が集まるということを、アルトだけがまだ知らない。


 石畳を叩く足音が、胸の奥の不安を煽る。

 それでも、走るしかなかった。


「……間に合って。お願いだから」


 最後の段を踏み切り、扉を押し開けた。


 ――鐘が、もう鳴っていた。

 遅かった。


 火竜の咆哮が、夜空を裂いた。

 熱を帯びた風圧が頬を打ち、髪を揺らす。

 一瞬の静寂のあと、ざわめきと歓声が観客席から押し寄せた。


 勝利を告げる鐘の余韻は喧騒に沈んでいた。

 それでも、勝敗は見て取れた。


 石畳の中央に立つアルトは、無傷だった。

 当然だ。戦うのは主ではない――貴族の道具(ドラグマキナ)、なのだから。


 胸の奥で、いったん息が戻る。


 けれど、その安堵は長く続かなかった。


 勝利の実感を持たない、朝焼けの色をした瞳。

 その視線の先に立つ存在を認識した瞬間、息が詰まる。


 アルト・アグレストの火竜――カグツチ。


 竜炎がほどけ、人の姿へと収束していく。

 赤銀の髪を風に揺らし、砕けた石畳に影を落としながら、カグツチはアルトの隣に立った。


 ――勝ってしまった。

 遅れて見届けた勝利ほど、残酷なものはない。


 倒れた白竜は、人型に戻っても動かない。

 礼装が血に汚れても、その表情は変わらない。


 アルトは、その白竜を見つめていた。

 まるで、自分が傷ついたかのような目で。


 彼は、いつだってそうだ。

 自分よりも、他者が痛むほうを痛がる。


 歓声の中で、ただひとつ異質な存在があった。

 カグツチだけが、倒れた竜でも観客でもなく、アルトだけを真っ直ぐに見つめている。


 猫が獲物を主人に差し出すような、その視線。

 見慣れているはずなのに、どこか異形だった。


 無傷のままの、赤と金の礼装。

 それが、私の胸を締め付ける。


「……カグツチ」


 私の知る彼は、ただアルトの傍で笑っている竜だった。

 けれど今、石畳に立つその存在は違う。


 人の姿をしているだけで、その本質は――灼けた空そのもの。


 誰もが息を呑み、遅れてざわめきが広がる。

 そして、はっきりと分かった。


 彼らの視線が向けられているのは、火竜ではない。

 ――その所有者、アグレスト家だ。


 そのとき。

 貴賓席の一角だけが、拍手をしていなかった。

 ただ静かに、こちらを見ている。


 ――王家の視線が、勝者を数えていた。

 最悪の形で、注目を浴びてしまった。


 王家が竜を召し上げた前例など、私は知らない。

 けれど、カグツチは異常だ。

 あれほどの火は、いつか掟を焼く。

 喉の奥に、氷みたいな予感が貼りついた。


 私が望んでいた優しさは、二人の笑い声の形をしていた。

 きっと今日で終わる。

 その冷たさだけが、胸に残った。


 この勝利がもたらす未来を――

 アルトだけが、まだ知らなかった。

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