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造花の魔王〜復讐令嬢はやがて魔王に至る〜  作者: 黒しろんぬ
一章 氷の城 -悪役令嬢とお喋りな竜-
19/26

18.怖いスープ

 目が覚めたときには、もう朝だった。

 まぶたを重く持ち上げると、天蓋の布地が視界に入る。

 身体を起こすとまだ熱の名残が重く、思わず目を閉じる。

 

 ――誰か、いる。

 

 昨夜とは違う、もっと不器用で、まっすぐで、火照った肌に心地よい気配。

 恐る恐る目を開けると、ベッドのそばに置かれた椅子に、彼がいた。

 腕を組み、背中を丸めたまま眠っているようだ。

 

 私は重い身体をゆっくりと起こす。

 

「……カグツチ?」

 

 囁くと、彼はビクリと肩を揺らし、ぱっと顔を上げた。

 

「ん……おはようルシア。……大丈夫? まだ熱ある?」

「……少しだけ身体が重いです。ずっとそこで寝ていたのですか?」

 

 その椅子は、夜のあいだずっとここに寄せられていたのだろう。

 袖には乾いた土がつき、襟元からは草の匂い。

 目の下にはうっすらと青い影――それでも、瞳だけはまっすぐだった。


 彼は椅子から立ち上がろうとして、慌てた拍子に一歩踏み出した。

 その瞬間、袖口がシーツに触れる。

 さらり、と白の上に薄茶色の粉が落ちた。


「あっ」


 カグツチは固まった。

 次いで、目に見えて肩を落とす。


「……やっちゃった」

「……?」


 視線を辿って、私はそれに気づいた。

 真っ白なシーツに、指でなぞれば消えそうな土埃の跡。


「……せめて服だけでも干しておけばよかった」


 言いかけて、彼は口をつぐむ。

 そして、困ったように後頭部を掻いた。


「ノエルに怒られる……」

 

 しゅん、と音がしそうなほど、分かりやすく項垂れる。

 あまりにも素直な落ち込み方に、思わず息が漏れた。


「……ふふ」

「え?」


 カグツチが顔を上げる。

 叱責を待つ子どものような目だった。


「大丈夫です。少し汚れただけでしょう?」

 

「でもなぁ」

 

「土埃など払ってしまえばなんの問題もありません」


 言いながら、パッと粉を振り払った。

 

「あーーーーッ!!」


 唐突な悲鳴に、思わず肩を跳ねる。


「繊維に入り込んだ土埃って取れないんだよルシア!?」


 表面の粉は払われているのに、布地の奥――糸と糸の間に、薄茶色がまだ残っている。

 汚れは付いているのではなく、編まれた白の内部に絡み取られ、染み込むように沈んでいた。


「そ、そうなのですか……申し訳ありません、知りませんでした」

 

 本気で謝る私に、カグツチははっとして言葉を止める。

 次いで、ばつが悪そうに視線を逸らした。


「あー……ルシアは、自分で洗濯とかしないもんね」


 カグツチの言葉がグサッと胸に突き刺さる。

 正真正銘、事実だ。


「……」

 

 カグツチは慌てて両手を振った。


「いや、責めてるとかじゃなくて! その、貴族だし、今まで必要なかったじゃんね!」

「えぇそうです、貴族の看板を外したら貴族なんてみんなこんなものですよ……ふふ」


 視線が、汚れたままのシーツに落ちる。

 白の上の薄茶色は、妙に主張が強かった。

 考えれば考えるほど、腹立たしい色だった。


「ほら、シーツはオレが洗ってくるから気にしないで」


 炎を操る竜が、洗濯を宣言している。

 その真剣な横顔に、思わず目を瞬かせた。


「ですが……」


「大丈夫。川も場所も知ってるし。時間もある。こっそり行って戻ってくればすぐだよ。あ、ついでに水浴びもしてこよう」


「水浴びって、まさか外でですか?」


 窓の外は晴れているとは言え、一面雪景色だ。


「え、うん。そうだけど」


「あぁ……そうでしたね、竜種は寒さを感じないと歴史書に……本当に感じないのですか?」


「いや、めちゃくちゃ寒いよ?」


「無理に外で水浴びする必要は、どこにもないのでは……?」

 

 言いかけて、私は一瞬言葉を選び直す。


「風邪でも引いたら……あ、いえ……引かないのですよね。……引かないのですか?」


「引いたことないね」


 即答だった。

 迷いも誇張もなく、ただの経験談として。


 ――やはり。


 胸の内で、私はため息をついた。

 竜についての歴史書に書かれていることは、こういうところで簡単に裏切られる。

 痛みを知らない。寒さを感じない。

 どれもこれも、目の前の竜が噛み合わない。

 少なくとも、歴史書がすべて正しいとは、もう思えなかった。


「オレ、火竜だからさ」


 カグツチは、さも当然のように続けた。


「地面に穴開けて、そこに川の水をちょっと逃がしてきて、温めれば――ほら、一瞬で温泉の出来上がり」


「……温泉」


 思わず、その単語をなぞる。

 湯気。温もり。凍えた体を芯からほどくもの。


「……それは、とても羨ましいですね」


「今度、ルシア専用の温泉作ってあげるね」


 カグツチの表情は、どこか嬉しそうだった。

 彼はシーツの端をそっと持ち上げ、これ以上汚れないよう慎重に畳み始めた。

 その動きは、相変わらず不器用で、でもやけに丁寧だ。


「おなか空いてる? なにか食べられそう?」

 

 額に手を当てるカグツチの動きに、自然と視線が吸い寄せられる。

 ただ熱を確かめているだけのはずなのに――胸の奥に、妙な棘が残った。


 どうしても気になってしまう。

 なぜ彼は、あんな顔で私を見るのだろう。

 戸惑いと、安心と、それでも何かを隠したような影を帯びた瞳。

 あの日からずっと――彼は、ああいう表情ばかりだ。

 

 視線を逸らし、まつ毛を伏せたその時――

 

「ルシアさん、開けますわよー!」

 

 控えめなノックとは裏腹に元気な声が弾む。ノエルだった。

 センスが扉を開くと、配膳車を押しながら彼女が滑り込んでくる。

 

「昨日はよく眠れたようで何よりですわ。……とはいえ、あなた、まともに食べていらっしゃらないでしょう? これでは治るものも治りません。多少無理してでも、食べていただきますわ……よ?」


 ノエルは言い終えるより先に、カグツチの腕の中に丸められたシーツに視線をやった。


「カグツチ、それはなんです?」

 

「あー……うん、えっと。ごめん。ちょっと汚れちゃって」


 ノエルは一瞬だけ瞬きをした。

 それから、ふいと視線を逸らし、咳払いをひとつ。


「……あ、あら」


 頬に、ほんのりと赤みが差す。

 ――なぜ、今ここで?

 理解が追いつかず、私はただ瞬きを返した。


「で、では……その……」

 

 言葉を選ぶように、ノエルは口元に手を添えた。


「お食事が終わりましたら、洗濯場で洗ってらっしゃい。ええ。そうなさってくださいな」


「うん。わかった」


 即答だった。

 まるで何の含みも理解していない声音に、ノエルの赤みが一段階深くなる。


「……ええ、その……念のため、しっかりと。ええ、しっかりと、ですわ」


 その言い方に、ますます意味が分からなくなった。

 洗濯に、念のためも何もないはずなのに。

 彼女は、何を想像したのだろう。


 言いながら、ノエルは配膳車の上の皿を手早く並べ始める。

 銀の器が静かに触れ合い、最後に置かれたスープから、ふわりと湯気が立ちのぼった。


 ――瞬間、空気が変わる。


 まるで、何かをずっと煮詰め続けた結果、「匂い」だけが抽出されてしまったような――重さと熱を伴った気配。


 鼻で吸っているはずなのに、喉の奥や、胸の内側を直接撫でられているような錯覚があった。


 思い出そうとして、思い当たらない。

 こんな匂いを、私は今まで嗅いだことがない。


 頭が理解するより先に身体が反応していた。

 胃のあたりが、きゅっと縮む。

 嫌ではない。たぶん。

 けれど、受け止めきれない。


 ――これは、食べ物なのだろうか。


 そんな、根本的な疑問が浮かんでしまうほどだった。

 

「お嬢様特製の芋スープです。毎回味付けが変わるんですよ、愉快でしょう」

 

 ノエルの隣でセンスが笑う。

 

「なんですの、その棘のある言い方はっ! ルシアさんご安心くださいませ、今回はちゃんと食べられる味ですわ」

 

 その笑顔とわざわざの強調が、嫌な予感しか呼ばなかった。

 

 ――お嬢様特製ということは、つまり。

 

 レシピが存在しない。

 素材も調理法も、その場の気分任せ。

 私も彼女も、料理など最も遠いところで育てられてきたのだ。

 

「……これは、ノエルさんが?」

「はい。今朝、畑で採れたての芋をふかして――そこからは私のオリジナルですのよ。レシピ本などこの城にはありませんので」

 

 胸を張るその仕草が、逆に不安を煽る。

 

「数種類の芋をなんとなく良さそうな順で煮込みまして、風味づけに林檎と蜂蜜を加えてみましたの。名付けてノエルの気まぐれスープ~そよ風を添えて~ですわ!」

 

 ――怖い。

 

「それは……スープ、なのでしょうか。それとも……薬膳、のような……」

 

 ひどく静かな声になっていた。

 ノエルは一瞬ぽかんとしたあと、眩しいほどの笑みを咲かせる。

 

「もちろんスープですわ!」

 

 ――恐怖でしかない。

 添えられたそよ風だけで十分な気さえしてきた。


「甘そうだからオレは好きだけどな。昨日のより……マシそうだし……」

 

 カグツチが苦笑する。

 フォローのつもりなのはわかる。でも、少しもフォローになっていない。

 

「昨日はどんな味だったのですか?」

「……土を煮て、腐った果物を足した感じ」

 

 言いながら彼の顔色が引いていく。

 本気で吐きそうになっている。

 

 ――このスープ、命を落とす可能性があるのでは?

 思わず、器を持つ手が震えた。

 その時、カグツチの大きな手が、私の両手ごと器を包み込むように取り上げた。

 熱に浮かされてはいても、彼の手のひらが私よりも少し冷たいことだけはわかった。


「待って、ルシア。オレが先に味見する。ノエルの料理は――本当に命懸けなんだ」


 その表情はとても真剣で、昨日何があったのかを如実に表していた。


「まぁ……失礼な竜ですわね。人と竜とでは味覚が違うのだから仕方ないでしょう。昨日のスープも普通に食べられましたわよ」


 センスは驚いたように目を見開いた。


「お嬢様……まさかご自分の舌が正常であると?」

「少なくとも竜のバカ舌に比べたらマシに決まってますわッ!!」


 カグツチが意を決してスープを一口。

 しばしの間を置いて、にっこり。


「よくわかんないけと甘いから大丈夫だと思う!」


 竜の舌は人間ほど繊細ではないと知った朝だった。

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