13.悪夢
それは、灰色の空の下だった。
よりによって、あの日の風までそっくりに再現されるなんて。夢はいつも残酷だ。
どうせ夢を見るのなら、せめて寒さくらいは嘘であってほしかった。
「ルシア・スピカ・ヴァレットさん――いえ、竜を失った家にこの竜名はもう不要でしたわね?」
寮の木のぬくもりから石造りの廊下に踏み出した瞬間、背後から砂糖を焦がしたような声が降ってきた。
振り返らずとも、クラウゼン家の令嬢――ベアトリスだとわかった。
「ごきげんよう、ベアトリスさん」
胸元に触れた指先に、母の形見である銀の葡萄のブローチの冷たさが返る。
――スピカの名は奪われたわけではない。
名を失ったのは、ただ竜がいなくなったから。
それでも、彼女の言葉は鼓膜にねっとりとこびり付いて、私の心を揺らす。
表情に出さない事は、社交と言う戦いにおいて大前提だった。
「近日、我が家で茶会を開きますの。近衛に嫁いだ方々や、竜持ちのご令嬢もいらして……あなたもいかが?」
令嬢の名に恥じない完璧な所作が指先にまで滲み出ている。
けれど、その奥にある悪意だけは隠しきれない。
茶会を断るのが無礼なのは、格下が格上に対しての時だけ。
四百年の新興貴族であるクラウゼン家が、ヴァレット家より上に立つ理由はどこにもない。
「ありがたく存じますけれど、静かに過ごす時間をいただいておりますの」
「まぁ、相変わらず忙しいのね?」
「ええ。静かな時間というのは、案外忙しいものでして」
社交は家を背負った殺し合いだ。
これは本番を前提にした模擬戦にすぎない。
しかし、爪と牙を上手に扱えるものはこの女学院には多くない。ベアトリスもその一人だった。
「あら、どうしましたの?」
フェリスが割り込んだ。
彼女は貴族ですらない、ベアトリスの腰巾着だ。
声の軽さとは裏腹に、噛みつく準備だけは万端の猛獣だ。
「ルシアさん、ベアトリス様のお誘いを断るなんて……どういうおつもり?」
「多忙ですの。皆さまでお楽しみくださいね」
「この、竜なしが……!」
あぁ、やはり噛みついた。
ルールブックを持たぬ獣は、いつだって真っ直ぐに毒を吐く。
素直に鞄持ちに徹していればいいものを。
「フェリス、下がりなさい」
ベアトリスは笑みを崩さず制した。どうやら地雷を踏んだ自覚はあるらしい。
「次こそはぜひ」
「ええ、暇があれば」
背を向ける二人を見送りながら、胸の奥に張りつめていた糸がほどけていく。
勝敗はどうでもいい。ただ――小さな針を一本、返しておくだけ。
「ところでフェリスさん。ベアトリスさんのカバン……重そうですわね」
去り際に、そっと言葉を置く。
「そんなことありません。ベアトリス様はいつもお綺麗で、持ち物が多いだけです。――ねえ、ベアトリス様?」
フェリスは胸を張った。
きっと、ベアトリスに褒め言葉を返したつもりなのだろう。
ベアトリスの指先がわずかに震えている。
「……フェリス、下がりなさい。行きますよ」
フェリスは意味に気づかず、ベアトリスだけが恥を噛みしめていた。
たとえこれが社交の模擬戦であろうとも――ヴァレットの人間として小動物と猛獣に、勝ちを譲るつもりはない。
言葉が刃物なら、皮肉は毒を仕込んだ針。
それと気づけぬ者は、ただ爛れ、崩れていく。
そして数時間後、裂かれていたのは彼女たちの言葉ではなく――私の胸元の誇りだった。
確かに机の上に置いたはずの、母の形見の銀の葡萄のブローチ。
刃物で抉られ、踏み潰され、花弁は折れ――もはや原形を失っていた。
それは、ただの鉄くずになっていた。
この場所は嫌いだ。
◆ ◆ ◆
目を覚ましたとき、胸元にもうブローチはなかった。
銀の百合も、銀の葡萄も――伸ばした手に触れたものは何もなかった。
頭が焼け付くような熱。
喉が乾いた砂を噛むように痛む。
額の濡れた布が乗っていた。
どうやら私は――いつの間にか、高熱に魘されていたようだ。
身体が泥のそこに引っ張られたみたいに動かない。意識もぼんやりとしていて、思考がうまく回らない。
その奥に、かすかに――声があった。
自分に向けられたものかどうかさえ曖昧なのに、耳だけは拾う。
「森も……ねぇな……全部、雪……川はあった。……水はなんとかなる…………問題は食いもんだ――ひとつだけ、使えそうなのが見えた」
独り言のようだった。
声が、遠い水底から響いてくるみたいに揺れていた。
「……ルシア、少し移動することになるけど大丈夫?」
誰の声かは言うまでもない。
言葉の意味を考えることすらできず、答えることは出来なかった。
ただ――何かを探し、何かを見つけたのだという感触だけが、熱の底にひとつだけ残る。
足音が聞こえた。
雪を踏む、規則的な音。
そこでようやく気づく。
私は――揺られている。
身体が上下に、小さく、確かに揺れた。
頬が布に擦れ、ひやりとした空気が肌をかすめる。
本来なら凍えるはずなのに、その冷たさがすぐに消えた。
腕の中にこもる熱が、外気を押し返すみたいに広がっていく。
炎より近く、それでも離れがたい熱。
その温度が、外側からじんわり入り込み、凍った何かをゆっくり溶かしていく。
ああ、これは――彼の体温だ。
私はカグツチに抱き上げられていたのだと、ようやく気付いた。
片手は背を支え、もう片方は膝裏を抱えている。
頬は胸に預けられ、まるで――お姫様みたいだなんて、可笑しい。
息は荒く、足音は重い。
それでも歩みは止まらない。
その一定のリズムだけが、確かだった。
声を出したかった。しかし唇は動かず、まぶたは重い。
かすれた息が喉の奥で漏れるだけ。
風が吹いた。
耳の奥に刺さるほど冷たい風。
それでも、抱きしめる腕は微塵も緩まない。
ほんの少し前まで、別荘のソファで毛布に包まれていたはずだ。それでもあんなに寒かったのに――今は寒さをほとんど感じない。
これが火竜の力なのだろうか。
別荘の気配が遠ざかる。代わりに、風の向こうで微かな匂いが混じった。木の香り……違う。これは――煙だ。
その一瞬だけ、視界がわずかに開いた。
雪原の向こう。真っ白な丘の上。
氷の城の塔から立ちのぼる煙が、ゆらゆらと空を撫でていた。




