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造花の魔王〜復讐令嬢はやがて魔王に至る〜  作者: 黒しろんぬ
一章 氷の城 -悪役令嬢とお喋りな竜-
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13.悪夢

 それは、灰色の空の下だった。

 よりによって、あの日の風までそっくりに再現されるなんて。夢はいつも残酷だ。

 どうせ夢を見るのなら、せめて寒さくらいは嘘であってほしかった。


「ルシア・スピカ・ヴァレットさん――いえ、竜を失った家にこの竜名はもう不要でしたわね?」


 寮の木のぬくもりから石造りの廊下に踏み出した瞬間、背後から砂糖を焦がしたような声が降ってきた。

 振り返らずとも、クラウゼン家の令嬢――ベアトリスだとわかった。

 

「ごきげんよう、ベアトリスさん」

 

 胸元に触れた指先に、母の形見である銀の葡萄のブローチの冷たさが返る。


 ――スピカの名は奪われたわけではない。

 名を失ったのは、ただ竜がいなくなったから。

 それでも、彼女の言葉は鼓膜にねっとりとこびり付いて、私の心を揺らす。

 表情に出さない事は、社交と言う戦いにおいて大前提だった。


「近日、我が家で茶会を開きますの。近衛に嫁いだ方々や、竜持ちのご令嬢もいらして……あなたもいかが?」

 

 令嬢の名に恥じない完璧な所作が指先にまで滲み出ている。

 けれど、その奥にある悪意だけは隠しきれない。

 茶会を断るのが無礼なのは、格下が格上に対しての時だけ。

 四百年の新興貴族であるクラウゼン家が、ヴァレット家より上に立つ理由はどこにもない。

 

「ありがたく存じますけれど、静かに過ごす時間をいただいておりますの」

「まぁ、相変わらず忙しいのね?」

「ええ。静かな時間というのは、案外忙しいものでして」

 

 社交は家を背負った殺し合いだ。

 これは本番を前提にした模擬戦にすぎない。

 しかし、爪と牙を上手に扱えるものはこの女学院には多くない。ベアトリスもその一人だった。

 

「あら、どうしましたの?」

 

 フェリスが割り込んだ。

 彼女は貴族ですらない、ベアトリスの腰巾着だ。

 声の軽さとは裏腹に、噛みつく準備だけは万端の猛獣だ。


「ルシアさん、ベアトリス様のお誘いを断るなんて……どういうおつもり?」

「多忙ですの。皆さまでお楽しみくださいね」

「この、竜なしが……!」

 

 あぁ、やはり噛みついた。

 ルールブックを持たぬ獣は、いつだって真っ直ぐに毒を吐く。

 素直に鞄持ちに徹していればいいものを。


「フェリス、下がりなさい」

 

 ベアトリスは笑みを崩さず制した。どうやら地雷を踏んだ自覚はあるらしい。


「次こそはぜひ」

「ええ、暇があれば」


 背を向ける二人を見送りながら、胸の奥に張りつめていた糸がほどけていく。

 勝敗はどうでもいい。ただ――小さな針を一本、返しておくだけ。


「ところでフェリスさん。ベアトリスさんのカバン……重そうですわね」


 去り際に、そっと言葉を置く。


「そんなことありません。ベアトリス様はいつもお綺麗で、持ち物が多いだけです。――ねえ、ベアトリス様?」


 フェリスは胸を張った。

 きっと、ベアトリスに褒め言葉を返したつもりなのだろう。

 ベアトリスの指先がわずかに震えている。


「……フェリス、下がりなさい。行きますよ」


 フェリスは意味に気づかず、ベアトリスだけが恥を噛みしめていた。


 たとえこれが社交の模擬戦であろうとも――ヴァレットの人間として小動物と猛獣に、勝ちを譲るつもりはない。

 言葉が刃物なら、皮肉は毒を仕込んだ針。

 それと気づけぬ者は、ただ爛れ、崩れていく。


 そして数時間後、裂かれていたのは彼女たちの言葉ではなく――私の胸元の誇りだった。

 確かに机の上に置いたはずの、母の形見の銀の葡萄のブローチ。

 刃物で抉られ、踏み潰され、花弁は折れ――もはや原形を失っていた。

 それは、ただの鉄くずになっていた。


 この場所は嫌いだ。


 ◆ ◆ ◆


 目を覚ましたとき、胸元にもうブローチはなかった。

 銀の百合も、銀の葡萄も――伸ばした手に触れたものは何もなかった。

 頭が焼け付くような熱。

 喉が乾いた砂を噛むように痛む。

 額の濡れた布が乗っていた。

 どうやら私は――いつの間にか、高熱に(うな)されていたようだ。


 身体が泥のそこに引っ張られたみたいに動かない。意識もぼんやりとしていて、思考がうまく回らない。

 その奥に、かすかに――声があった。

 自分に向けられたものかどうかさえ曖昧なのに、耳だけは拾う。

 

「森も……ねぇな……全部、雪……川はあった。……水はなんとかなる…………問題は食いもんだ――ひとつだけ、使えそうなのが見えた」

 

 独り言のようだった。

 声が、遠い水底から響いてくるみたいに揺れていた。


「……ルシア、少し移動することになるけど大丈夫?」

 

 誰の声かは言うまでもない。

 言葉の意味を考えることすらできず、答えることは出来なかった。

 ただ――何かを探し、何かを見つけたのだという感触だけが、熱の底にひとつだけ残る。


 足音が聞こえた。

 雪を踏む、規則的な音。

 そこでようやく気づく。

 私は――揺られている。

 身体が上下に、小さく、確かに揺れた。

 頬が布に擦れ、ひやりとした空気が肌をかすめる。

 本来なら凍えるはずなのに、その冷たさがすぐに消えた。

 腕の中にこもる熱が、外気を押し返すみたいに広がっていく。

 炎より近く、それでも離れがたい熱。

 その温度が、外側からじんわり入り込み、凍った何かをゆっくり溶かしていく。

 

 ああ、これは――彼の体温だ。

 

 私はカグツチに抱き上げられていたのだと、ようやく気付いた。

 片手は背を支え、もう片方は膝裏を抱えている。

 頬は胸に預けられ、まるで――お姫様みたいだなんて、可笑しい。

 息は荒く、足音は重い。

 それでも歩みは止まらない。

 その一定のリズムだけが、確かだった。

 声を出したかった。しかし唇は動かず、まぶたは重い。

 かすれた息が喉の奥で漏れるだけ。

 風が吹いた。

 耳の奥に刺さるほど冷たい風。

 それでも、抱きしめる腕は微塵も緩まない。

 ほんの少し前まで、別荘のソファで毛布に包まれていたはずだ。それでもあんなに寒かったのに――今は寒さをほとんど感じない。

 これが火竜の力なのだろうか。


 別荘の気配が遠ざかる。代わりに、風の向こうで微かな匂いが混じった。木の香り……違う。これは――煙だ。


 その一瞬だけ、視界がわずかに開いた。

 雪原の向こう。真っ白な丘の上。

 氷の城の塔から立ちのぼる煙が、ゆらゆらと空を撫でていた。

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