12.君の剣
カグツチは当然のように臆せずリビングへ進んでいく。
私はと言えば、まるで他人の家に招かれたような気分のまま玄関に取り残され、足が動かなかった。
「お、暖炉はっけーん。薪もあるけど……すごいパリパリ。何年放置されてたんだろ――まあ、燃えればなんでもいいか」
巻かれた紐をほどき、薪を束ごと暖炉へ放り込む。
その堂々とした背中を見ていると、いつまでも突っ立っている自分が馬鹿らしく思えてくる。
ようやく玄関を後にし、リビングへ踏み出したそのとき、彼の手のひらがふっと火を纏った。
音もなく薪に触れただけで、炎があっという間に暖炉を満たす。
「ルシア、こっちにソファあるから座ってて。オレは他に燃やせるものないか探してくる」
「いえ、そういうわけには。私も一緒に――」
「いいから、座ってて」
肩にそっと手を添え、そのままソファまで歩かせるように促す。自然で、優しさすらある動作だった。
けれど、私はそこでほんの一瞬、気持ちが立ち止まりかける。
「……わかりました。お願いします」
強制ではない。押しつけでも力づくでもない。
純粋な親切心――そう理解できる。
ただ、今の私には、その余白が少し怖かった。
カグツチがリビングを出ると、部屋には薪のはぜる音だけが残った。
ほんのわずかに灯っていた温もりは泡のように弾けて消えた。
血の香りが鼻をかすめた――気がした。
たった一滴の黒い思考が、ひび割れた心に染み込み静かに侵食していく。
広場の光景だけが、まだ血の匂いを残している。
赤い外套。銀の百合。その中央にいたはずの彼の顔だけが、どうしても掴めない。
思い出そうとすると、輪郭は血の色に呑まれて消えていった。
吸い込んだ空気は冷たく重く、喉で止まり、息が続かない。
暖炉の炎は確かに身体を温めている。
しかし心だけは麻痺したように温度を感じられない。
「ルシア、これ使えそうかな?」
その声は私の意識を現実に呼び戻す。
水の中からようやく顔を出せたみたいに、肺に呼吸が戻って来る。
カグツチがリビングへ戻ってきた。
両手いっぱいの毛布、その指先には金属の輪が揺れている。
「毛布の箱にこれも入ってた。毛布と一緒に使うやつ?」
差し出された輪っかを受け取り、私は形を確かめた。
「それは香環ですね。簡易魔道具で布を清潔に保つだけのものなので、そこのテーブルにでも置いておいてください」
カグツチは香環をその辺りに放ったので、私は表情が固まる。
なんて、雑……。
私の呆れた顔をよそにカグツチは毛布を抱き上げ、顔をうずめ、そのまま思いきり息を吸い込んだ。
「……うん、変な匂いもしないし、大丈夫そう」
「そんな嗅ぎ方をしなくても、成分的には問題ありませんよ」
「だって、ルシアが使うものなのに、へんなにおいしたら嫌じゃん?」
「この非常事態で気にしませんよ」
「――オレが気にするの」
その言い方が、妙にやわらかい。
言葉に出来ないほどの僅かなズレ。
ボタンを掛け違えたような違和感を言葉にするより先に、カグツチの大きな手が肩に触れる。
「ほら、ソファに座って。外、寒かったでしょ」
促されるまま腰を下ろすと、気づけば肩に一枚、膝に一枚――彼の手によって毛布がそっと掛けられていた。
「……カグツチ?」
ほんのかすかにズレた感覚は、消えないまま残った。
「ん?」
問い返しながら、彼は迷いなく私の隣に腰を下ろした。
見上げれば、そこに彼がいる。
その赤銀の長髪が頬に触れそうなほどの近い距離に、私は困惑していた。
カグツチと、こんな距離で言葉を交わすのは――初めてだった。
いつも真ん中にはアルトがいたから、こんな距離で話す事なんてまずなかった。
「……いえ。なんでもありません」
一拍の間を置いてから、私は正しい微笑みを浮かべる。
「……今後のことをお話します」
「そっか。――ルシアは、もう決めてるんだね」
カグツチの言葉に私は頷いた。
「私は――必ずゼファレスを殺します」
一言ずつ、自分に言い聞かせるように紡ぐ。
「……仇討ちです。何も残りません。誇りある貴族が、ヴァレット家の人間が――やるべき行いでは、ないんです」
辿り着いた先に何も残らないことなど、いちばんよくわかっている。
ヴァレットの名を背負う者として、間違いを犯すなと教えられ、そう生きてきた。
それでも――これだけは、間違いだと思えなかった。
彼は……アルトは、きっと喜ばない。
『そんなことしないで』と困ったように笑い、私の手を取る姿が容易に想像できて――目の奥が熱くなる。
でもその手はもう、この世界のどこにも存在しない。
他の誰でもない、奪われたのだ、あの男に。
だからこれは、アルトのための復讐ではない。
私自身のための復讐だ。
「……その復讐に、あなたが付き合う必要はありません」
カグツチは黙っていた。
私はカグツチから視線を逸らし、暖炉の炎を見つめていた。
「あなたは――アグレストの気高き紅い竜。その翼を、私の手で汚したくありません」
幼い頃から私はアルトと生きてきた。
そして同じ時間を、彼のそばにいたカグツチとも過ごしてきた。
その日々は、私にとってかけがえのない宝物だった。
誇りよりなにより、その宝物のような時間を血で塗りつぶす真似だけは――どうしても、したくなかった。
「――じゃあ、聞くけど」
カグツチの声が、低く落ちた。
「具体的に、どうやってゼファレスを殺すつもり?」
その問いに、私は目を見開きカグツチを見た。
いつもの飄々とした様子からは想像もできない言葉だった。
それでも――いずれ口にする覚悟は決めていた。ただ、それが今だったというだけ。
「そうですね。ヴァレット家の繋がりを利用してゼファレスに近づきます。許しを乞えば、あの男はきっと許すでしょう。彼が欲しいのはヴァレットの名と歴史と血筋。そう簡単に命は奪わないはずです。私はあの男の手元に置かれることになるでしょうね」
「そう。……それで?」
「……そのあとは機会を待って、寝首を掻けばいい」
言い終えた瞬間、カグツチの顔が曇った。
あからさまに不機嫌だ。
そんな表情は今まで見たこともなかった。
その表情に含まれる意図を理解できなかった。
「うん、それは却下で」
「……はい?」
場違いな言葉に、選びもしない音が思わず漏れた。
意味は分かるのに、その意味だけが私の中へ落ちてこない。
カグツチは真っ直ぐこちらを見据えたまま続ける。
声の調子は変わらない。
だがその奥には――どうにもいつものカグツチと違う何かがいるように思えてならない。
「まず、許されるって前提が甘い。生かすなら道具としてだ。手元に置いた人形を可愛がるタイプじゃないよ、あれは」
目線は一瞬たりとも逸れない。
「それに――隙がない。 あの男に闇討ちは通じない」
私は何も言えなかった。
「――少し話した時に感じたけど、アイツ、なんにも信じてない」
この竜は――ただ不機嫌になっているのではない。
私の計画を完全に解析し、真っ向から否定しに来ている。
「万が一、上手く懐に入り込めて、アイツがルシアの前で無防備になったとして――」
言いかけた瞬間、カグツチの手が伸びた。
その手が私の肩に触れた瞬間、あっけなくソファへ押し倒された。
腕を固定され、逃げ場はない。
至近距離にある彼の顔は――私の知るどの表情とも違っていた。
口元は私を安心させるよう笑っているのに、その瞳には揺るがない意思が宿っていた。
ただの不機嫌ではなく、確信のある冷静さ。
「この体勢から、どう殺すのか――説明してもらってもいい?」
もしゼファレスがヴァレットの血も名前にも興味がなかったとしたら――私は、このまま首を折られて終わるのだろうか。
ゼファレスがどこまで考える男なのか、判断しきれない。
あまりにもあの男について知らない事が多すぎる。
カグツチの手がほどかれ、背中を支えられて起こされる。
そこにはもう、いつものイタズラ好きな青年の顔があった。
「ごめんね」
苦笑とともに肩の埃を払う仕草まで添えて。
さっき感じた腕の重さも、目の冷たさも、その温度に触れた途端、跡形もなく消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「……そうですね。冷静じゃなかったです。どうかしていましたね」
「ねぇ、ルシア」
その声にはもう冷たさはなかった。
まるで全部を水に流すように、優しく、軽やかだった。
いつものカグツチだった。
「これはルシアの復讐で……触ってほしくないって言うのも、ちゃんとわかったよ」
悪戯を仕掛ける少年のような口ぶりで続ける。
「だからさ――こうしよう」
言葉のリズムがわずかに変わる。
冗談のようで、冗談ではない声音。短い沈黙のあと、彼は言った。
「オレは、ルシアの手をゼファレスの首まで持っていく。ルシアの意志でオレを振るっていい。――オレが、君の剣になる」
どうして彼は、いつも私の無音の闇に音を届けようとするのだろう。
望んだわけじゃない。頼んでもいない。
それでも――胸の奥が揺らぐ。
「……あなたを巻き込みたくはありません」
深い溜息が漏れた。
この紅の竜の牙を私欲に使うこと――それが、こんなにも怖い。
「ですが、私ひとりでどうにかなるとも思いません」
降参に似た言葉に、カグツチは口角を上げた。
「本当に何も残りませんよ。後戻りのできない地獄への一本道を……それでも付いてくるのですね」
「地獄だっていい。振ってくれるなら、どこへでもいくよ」
冗談めかして笑うその顔が優しいほど、私たちが向かおうとしている場所の深さだけが、静かに胸へ沈んでいった。




