ブルターニュの丘で
菜央はそっと声をかけた。
「こんにちは……」
声はかすかに震えたが、それでも勇気を振り絞った。
青年は、外国人の訪問者に思わず目を見開いた。
「……こんにちは。どちら様ですか?」と、驚きと戸惑いを隠せない声で問いかけた。
「実は…」菜央は春子とリュカの文通の経緯を説明した。
すると驚くことに、この青年はリュカのお姉さんの娘の息子、大甥だったのだ。
「私はルイといいます。わざわざ日本からお越しいただきありがとうございます。」
ルイの家に案内され、お茶菓子を出してもらいながら、菜央はルイの口からリュカの人生を聞いた。
「リュカ爺ちゃんは、よく遊んでくれたんだ。春子さんとの文通の話もしてくれたよ。」
「嵐が原因で家族は他の地方へ避難したけど、爺ちゃんだけはこの地に戻ったんだって。
なぜなら、春子さんからの手紙が届くかもしれないと信じていたから。」
「でも……」
ルイは少し息をつき、穏やかな笑みを浮かべた。
「結局、手紙は届かなかったんだ。仕方ない、と自分に言い聞かせていたみたい。」
菜央の胸に、切なさと同時に温かさが広がった。
手紙は届かなかったけれど、おばあちゃんへの想いは確かにそこにあったのだ。
「爺ちゃんはその後、この家で小説家として生涯を過ごした。
周りは見合いを進めたけれど、結婚は考えなかったみたいだよ。」
するとルイは数枚の写真を見せてくれた。
そこには日本の風景、春の光に包まれた小湊鉄道の線路沿いの菜の花が写っていた。
「これは……?」菜央の声が思わず震える。
ルイは微笑んで言った。
「爺ちゃんが一度だけ日本に行ったときの写真だよ。
春子さんが教えてくれた、この景色をどうしても見に行きたかったみたい。
春子さんが育った町を見たくて、何十時間もかけてね。」
菜央の胸は熱くなった。
あの黄色い菜の花と小湊鉄道――リュカは確かに、おばあちゃんのそばまで来てくれていたのだ。
「そうだったんですね……」菜央の目には涙が光った。
「二人が会えていたら、どんな未来が待っていたんだろう……」
写真を見つめながら、静かにつぶやいた。
ルイは菜央にハンカチを渡し、優しく頷いた。
「こうして君がここに来てくれたことが、爺ちゃんもきっと喜んでいると思う。」
菜央は庭の菜の花を見つめ、風に揺れる花々をそっと手で触れた。
遠い昔、二人の心を結んだ青い封筒の想いが、
今こうして現実に優しく響いているーそんな気がした。
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翌日、ルイは菜央に町を案内してくれた。
古い石畳の道、塗り直された家々、どこか懐かしい香りの漂う小さな街並み。
「ここが、爺ちゃんが子どもの頃に遊んだ広場だよ」
ルイが指さす先には、小さな公園があった。
菜央は目を細め、リュカが手紙に描いた風景と重ね合わせる。
「爺ちゃんは、この広場で友達とよく走り回っていたんだって」
ルイの声には、リュカへの愛情と誇りが込められていた。
二人は町の図書館や古いカフェにも足を運んだ。
目に映る風景のひとつひとつが、春子とリュカの手紙に描かれた情景と重なり、まるで二人がこの町でそっと出会うのを待っていたかのようだった。
そして午後、小高い丘の上に立つと、眼下に黄色の花畑が広がっていた。
春子が大好きな黄色の花…
「ここは爺ちゃんのお気に入りの場所なんだ。
きっと、春子さんにこの景色を見せたかったんだろうな。」
ルイは静かに言った。
菜央はそっと笑う。
「そうですね。きっとおばあちゃんが見たら、感動して泣いちゃうと思う。」
菜央は深く息を吸い込み、静かに目を閉じた。
春子とリュカを結んだ青い封筒の物語――遠い日の手紙は届かなかった。
けれど、その結末は、ここで穏やかに、そして確かに実を結んだのだった。




