第三話 滑稽な春花
私の目から見て、彼女は異常だと思う。
だけどそれを本人に言ったことは一度もない。言ったところでどうにもならないし、言う隙も与えてくれない。それが、私から見る三浦芽衣の人物像だった。
メイは絵に描いたような優等生だった。いつも冷静だし、感情的にならない。授業は真面目に聞いているし、ノートもしっかり取っている。先生に当てられてもちゃんと答えるし、道端で困っているおばあちゃんがいれば必ず助ける。
だからこそ、たまにズレているのがとても怖い。
この前、定期テスト対策として図書館でメイと一緒に勉強をした。私は数学が苦手だからメイにわからない部分を聞いたら、メイは機械のように正確な説明をしてくれた。メイは何でもできるから、わざわざ私と勉強する必要なんてない。メイは「教えるのも勉強になるから」といってくれているけど、迷惑をかけている気がして申し訳なかった。でも時々、メイは変なことを口走る。
それこそ、この前の勉強会で数学を教えてくれた時。「これはね、この公式を使えばいいんだよ」と教えてくれた後、類題を使って公式の使い方までも教えてくれた。それ自体はとてもわかりやすくて、私が「おぉ、そういうことだったんだ。ありがとう」といったら、彼女は
「でもさ、こんなルールなんかに縛られている人間って”滑稽”だと思わない?」
と思いもよらない言葉を返してきた。
私はあまりにも衝撃的で、メイのこの言葉に何も返せなかった。
メイの顔を見ることもできず、私の視線は下へ行った。そこには、ノートを開き、紙の上でペンを走らすメイの姿が映った。ペンを握るメイの手は、産毛の一本すらも見えない白い肌。爪は切り揃えられており、ネイルなんかも全くしていない。だからこそ、その違和感がとてつもなく異常だった。
爪のすき間に見える、赤黒い汚れが。
それが何なのか、わからなかった。いや、わかっていたけど、知らないふりをしていたかった。
友達がそんなことする人だと”まだ”思いたくなかった。友達なのに。唯一の私の友達なのに、
――メイの言葉に返事をしなくて良かった。
と、心の底から思った。
*****
高校入学当初、私はいじめられていた。理由はわからない。もしかしたら、いじめに理由なんていらないのかもしれない。
最初は、ものを隠されたり、机に小さな落書きがされる程度のものだった。このくらいだったらあまり害はないし、当時は「私に関心をもってくれているんだ」と楽観視していた。しかし、いじめはどんどんエスカレートしていき、怪我をすることも出てきた。上履きの中に画鋲を入れたり、トイレの水をかけたりといった昭和のようなものから、階段から落とすなどといった犯罪ちっくなものまであった。
担任の先生に相談しても「きっと、お前と仲良くなりたいんだよ」と役に立たない。
親には相談できずにいた。心配をかけたくないから。
「あれ、まだ生きてたんだ?てっきり死んだと思って机捨てちゃったよ」
ある朝、学校に行くと、いじめのリーダー格にそういわれた。
教室を見ると、その言葉の通り私の席だけ机がなくなっており、代わりに花が供えられていた。名前はわからないけど、お世辞にも綺麗とは言えない花だった。
「どうして……」
そう、小さくこぼれてしまった。その言葉は勿論リーダーの耳にも届いており、嘲笑の顔からは笑みが消え、怒りが侵食していた。
「お前のさ、態度が気に食わねぇんだよ。ちょーっと顔が良いからってさ、愛想振りまいたりして。」
その言葉が刃物のように、私の胸に突き刺さった。そんなつもりはなかったのに、周りにはそう見えていたらしい。影で私を励ましてくれていたあの子も、筆箱がなくなったときにペンを貸してくれたあの子も、みんなみんな、私をそんな風に思っていたんだ。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。言葉の刃に貫かれた胸から、いろんなものが噴き出した。勢いが衰え出してからも、胸の痛みはなくならなかった。なんなら、今だってその痛みは残っている。
リーダーの言葉に意見する者は誰もいなかった。あまりにも静かな教室。今教室にいる全員に聞こえているはずなのに、誰も助けてくれなかった。
「誰もお前のことなんか好きじゃないんだよ。それを知らないのはお前だけ」
そう言って、リーダーは私の肩を強く押し、教室をあとにした。外からは彼女の笑い声が聞こえた。
誰もがこちらを向いているが、駆け寄ってきてくれる人は誰もいない。
”好きじゃない”って、そんなこと私が一番わかってんだよ。
毎日が辛かった。
毎日が地獄だった。
死にたいと思わない日はなかった。
今日学校にいったら死んでしまおう。
そんなときに出会ったのがメイだった。
*****
「その上履き、血付いてるけど……?」
下駄箱で靴を履き替えていると、その女の子は私の上履きを見てそう言った。
彼女の顔はかなりの困惑を見せており、せっかくの美人が台無しだった。
「知ってますけど」
私はそうぶっきらぼうに答えてしまった。私に話しかける人なんてそうそういないものだから、返し方がわからなかった。
私に話しかけるなんてどれほど怖いもの知らずなのだろうか。私を庇うといじめのターゲットになるかもしれないのに。
目を合わせるのが怖くて視線を彼女の足元に向けていた。
「ふーん。そっか」
私がぶっきらぼうに答えたせいか、彼女の返事も冷たかった。
それだけ言って、彼女は階段を昇って行った。
なんなんだこの人は。そう思った。怖いもの知らずに私に話しかけてきたと思いきや、何事もなかったかのように去っていく。それならば、大衆のように話しかけないでほしかった。
けれど、なぜだか彼女の言葉が頭にこびりついて離れない。
それはきっと、私に”普通”の人として話しかけてくれたからだ。
今まで私に話しかけてきた人は、私を”被害者”として見ていた。しかし、彼女はいじめなんて全く知らない風だった。私がいじめられているのなんて知らず、からかうわけでもなく、純粋な疑問で話しかけてきているような気がした。
それがなんだか不思議だった。
喜びとも悲しみともとれないおかしな感情を抱きながら階段を上り、彼女の背中を追った。
長い廊下の少し先に彼女の背中が見え、私は走りだした。彼女のことが気になった。話してみたかった。なんで私に話しかけたのか、理由を知りたかった。
「あ、あの!」
彼女の背中が目と鼻の先になったとき、私はそう叫んだ。
顔を直接見るのが怖くて、またしても俯いてしまった。
「あ、おはよう」
耳元でそう聞こえた。それはさっき聞いた彼女の声ではなかった。
一瞬の困惑の後、体が一気に冷えるのを感じた。比喩表現なんかではない。本当に冷えたのだ。
恐る恐る目を開けると、そこにはリーダーがいた。リーダーはトイレ掃除用のバケツをもっていた。しかし、その中身は空だった。あ、そうか。この寒さは水を被ったからなんだ。
制服の前面がぐっしょりと濡れ、体に重く張り付く。髪の毛から滴る水が目に入り、水中から出たばかりのように視界がぼやけた。夢心地で現実感がなく、状況を把握するのに時間がかかった。
リーダーは空のバケツを振り回して、不敵な笑みを浮かべていた。
「朝から元気だね?もしかして、友達でもできたのかな?」
明らかな蔑みが感じられる目だった。私はそんなリーダーを目の前にして何もできなかった。何か話せば殴られる。何か行動をすれば蹴られる。何もしないのが、この場での正解なんだと思った。
しかし、何もしなかったことで私は殴られた。「なんとかいえよ」と、空のバケツで頭を何度も何度も、殴られた。
笑い声が色んな方向から聞こえてくる。スマホのカメラで動画を撮り始めるものもいた。悲しかった。わかっていたことだけど、私に味方なんて誰もいないんだって。悔しかった。何もできない自分が。拳を強く握るが、その手が他の誰かに届くことはない。握った拳で自分の腿を殴り、悔しさに身を震わせた。
「ねぇ、なにしてんの……それ?」
不意に聞こえたその声に、私は聞き覚えがあった。
まさか介入してくる人間がいるとは思わなかったのか、リーダーは驚いたような顔で声の方に振り返った。
その言葉の持ち主は、さっき下駄箱であった彼女だった。
彼女のその言葉は、怒りや悲しみから出たものではなく、先ほどと同じく、純粋な疑問からのようだった。
「なにって、みたらわかるだろ」
「うん。でもこれ、やる意味ある?」
リーダーは何か言いたげに眉をピクリと動かして一歩前に踏み出す。
しかし、その間に女の子が、私の元まで歩み寄る。
濡れた髪、重くなった制服など、今の私の全身を一通り見た後、私の顔に滴る水を指でなぞり、そのまま口元へ運び、躊躇いもなく舐めた。そしてすぐ、その口を私の耳元に寄せ、私にだけ聞こえる声で囁いた。
――……かわいい。
その言葉の真意はわからなかった。
からかっているのか、同情しているのか、将又もっと別の何かなのか。それを知っているのはこの世で彼女だけなのではないか。
言葉こそ聞こえていないものの、女の子の行動は周りの空気を一変させた。笑い声も蔑みも、今この空間には存在しない。スマホを掲げていた人たちは皆手を下ろし、女の子の方を向いて硬直していた。それはリーダーも例外ではなく、空のバケツを持ったまま、女の子に目を奪われていた。
「別に私はいじめが悪いことだとは思っていない」
女の子はゆっくりとそういった。
その声に、感情はまるで乗っていなかった。一行目から魅せる小説の冒頭文かのよう。女の子の言葉にはえも言われぬ魅力があった。誰もが女の子の言葉に耳を傾けていた。
「ただ、あなたはとてもつまらない」
リーダーは何も言い返さなかった。言い返せなかった。
「水をかけたからって何になる?殴ったからって何になる?ただ無意味に自分の価値を下げているだけじゃない?」
そこだけを切り取れば誰の目から見ても明らかな正論だった。
女の子は至って冷静で、その言葉には怒りも軽蔑もなかった。自分と自分の認めたもの以外は全て等しく無価値とでも思っているかのようだった。
女の子は、「いこうか」といって、私の手を引いた。私は引かれるがままに着いていったが、それを止める者は誰もいなかった。
私と女の子が去った場所からは、声が色んな人の聞こえ始めた。まるで私たちが周りの時間を止めていたかのようだった。
歩きながら、聞きたかったことを聞いてみた。
「あのさ、なんで私を助けてくれたの?」
そう聞くと女の子は言葉を詰まらせた。その顔は無表情で、言葉を選んでいるようにも見えたし、そうでないようにも見えた。しばらく間を置いてから、女の子はこう答えた。
「助けたつもりなんてないよ」
その言葉にも感情は乗っておらず、ただただ、それが事実であるかのように。当たり前であるかのように話していた。
それは全く優しい言葉ではなかった。しかし、私の心のわだかまりを解くのにふさわしい言葉だった。
「ただ、あなたみたいなかわいい人が、あんなつまらない人に傷つけられているのを見ていられなかっただけ」
女の子は話し続ける。しかし、今度は薄らと感情が見えた気がした。冷静沈着で感情を表に出さないクールビューティーのように見えた女の子の目が少しだけキラキラして見えた。
少し変わった正義感の強い女の子。もっと、彼女のことを知りたくなった。彼女と友達になって、もっと話したいと思った。だからこそ、死ぬのはまた今度。ずっと後にしよう。と私は思った。
「あのさ、私、サクラっていうんだ。私と、友達にならない?」
その言葉に、彼女は首を縦に振った。
そんな彼女は、先ほどよりも目をキラキラとさせて、笑みを浮かべていた。
こうして、私とメイは友達になった。
*****
メイは本性を隠して、私に近づいてきていたんだ。
もっと早く気づけることだった。気づける場所はいくらでもあった。それこそ、初めてメイと出会ったあの日。メイは、いじめを「悪いと思わない」ってきっぱりと言った。今思えば、あの時のメイは”加害者”の目をしていた。人やものを傷つけることを厭わない、そんな人間の目だった。
いや、厭わないどころか、あれはきっと経験者だ。極めつけはあの手。爪のすき間に入り込んだ赤い汚れ。あれは間違いなく血液だった。動物のものなのか、将又別の”何か”なのか。それはわからないけれど。
きっと、彼女のやっていることはいじめなんかと比にならないくらいの恐ろしいことだ。そんなものよりもずっと暗く、恐ろしいもの。
私の考えすぎなのだろうか。そう思って自分を何度も説得しようとした。しかし、日を追う事に、彼女のことを考えるほどに、三浦芽依=異常、の方程式が輪郭を持ち始めた。
それと同時に、彼女に対する”友達”という意識が薄れ始めるのを感じた。
今はただ、メイが怖かった。
あのとき、いじめから私を救ったのも、なにか別の目的があるんじゃないか、と思う。
”救われた”という認識自体がそもそもの間違いなのかもしれない。
きっと、メイとは距離を置いた方が良いんだと思う。何を考えているのかわからないし、恐ろしいことをしているかもしれないから。
しかし、離れられなかった。私の近くにメイがいなければ、私はまたいじめられることでしょう。”救った”というのがまやかしだったとしても、メイが私へのいじめの抑止力になってくれているのは間違いなかった。隣にメイがいるだけで、とても生きやすかった。それに、まだメイを信じていてあげたい。全部私の勘違い、早とちりで、メイはただの少し不思議な優等生。手は怪我をしてしまっただけ。そう思っていてあげたかった。まだまだ知らないことが沢山ある。もっと遊んで、もっと笑って、もっといろんなところへ行きたい。
そんなとき、私のスマホに一件の通知が来た。
その通知は、メッセージアプリの、クラスのグループトークのものだった。
『https://x.com/0522_mei』
『これ、隣のクラスの三浦芽依じゃね笑 怖ぇー笑』
送られてきたURLを踏むと、そこに表示されたのは、メイと思わしき人物のSNSアカウントだった。数えられるほどしか投稿をしていなかったけれど、このアカウントが間違いなくメイのものであると私は確信した。
だって、そこには私に向けられた投稿があったのだから。
向こうは私のことを友達だとは思っていなかったらしい。私に見せてくれた優しさも、笑顔も、全ては普通の人間に擬態するためだったのだろう。「こうしておけば、安心される」って。
”異常”っていうのは、私の中の”普通”が崩れた時に覚える感覚なんだと思う。きっと、メイにとって、その行動の数々は”普通”なんだと思う。
人それぞれで、”普通”の感覚は違う。それを貶したり、罵ったりするのはお門違い。
でも、アレを”異常”と呼ばずになんと呼ぶんですか。
母親を殺すことができる人物。
人を殺しておいて、当然のようにSNSに投稿をすることができる人物。
次は私を殺すという殺害予告。
これは、”普通”なんですか?
私の頭の中で、メイの姿がぐにゃりと曲がる。それは私の方を向いて笑っていた。
私は、メイのことを信じようとしていたのに。メイは私を裏切った。
それがどうしようもなく悲しく、悔しかった。
メイは嘘をつかない。その生真面目さが、この投稿の信憑性を物語っていた。
母親を殺して、私を殺したあとは?誰かまた、次の人を殺すだろうか。
また、私のように騙して、殺すのだろうか。
そんなこと、私は許せない。
私のあとに殺されるかもしれない誰かのために怒っている訳じゃない。
これ以上、メイが壊さないように。私が最後になる必要がある。
メイは愛に飢えていた。どうしてここまで愛を欲しているのか、そこまでは書いていなかった。
愛するものに側にいてほしい。自分だけを愛していてほしい。その気持ちは理解できないこともなかった。だからって壊して、手元に置いておこうだなんて考えは”異常”と呼ぶ他ない。
だからさ、私が愛してあげるよ。メイ。
どこまで行っても裏切られた傷は癒えないし、メイに対する恐怖心は消えない。
かといって、メイを嫌いになったわけではない。
私はどうしようもないくらいメイのことが好きでたまらない。
私はメイの世界に足を踏み入れてしまった人間で、自分の存在意義はメイにあった。幸福か不幸かなんてどうでもよかった。
あなたを殺して、私も死ぬ。
そうしたら、あなたの私への愛は永遠になるでしょう?