第二話 猫春
今日もママとは会えなかった。
私は小学4年生、10才にもなったので、1人で留守番を任されるようになった。ママは私が学校から帰ってくる前に家を出て、私が学校に行ったあとに帰ってくる。なかなか会えなくて少しさみしい気持ちもありつつ、そんな仕事をがんばっているママを応援してあげたい。
今日も2人分の朝ごはんを作る。もう半年くらいの間作り続けている。なかなか料理のうでも上がってきていて、今となってはママの料理よりもおいしい自信がある。こんなことを言ったら怒られちゃうけど。
自分の分を食べたあとは皿を洗って片付ける。余分に作ったママの分にラップをして冷ぞう庫に入れておく。
冷ぞう庫を開けると、昨日一昨日の分の朝ごはんが手をつけられずに残っていた。またママは食べてくれなかったらしい。
ママは仕事でお酒をたくさん飲んでいて、いつも体調が悪いらしい。朝ごはんを食べられないのも仕方がない。
でも、今日こそは食べてくれると嬉しいな、と思う。
水とうに麦茶を入れて、時間割の確認をしていれば、いつの間にか家を出る時間になる。私の学校は集団登校で、近所の一年生の子の家にみんなで集まる。
くつをはき、ドアを開けたら、忘れずにかぎをしめる。ガチャリ、という音がしたあと、ドアの取っ手に手をかけてしまったことをたしかめる。ガタガタ、という音がしたのでしっかりとしまっている。道路の方にふりかえり、集合場所に向かって歩き出す。
でも、少し歩いたところで、本当にしまっているか心配になってきた。たしかにドアはしまっていたはずだが、あまりにも心配で、心がザワザワしてきたため、一度、家に帰ることにした。
もう一度、取っ手に手をかけ、しっかりとしまっているのをたしかめた。そして、集合場所に向かう。
私は何をしているんだろう、そう思った。
季節は秋で、まだまだ暑さの残る時期。私の家から集合場所の家まではそんなに遠いわけではないけど、この暑さのせいで集合場所に着くころには汗をだらだらとかいていた。服が肌にくっついていて、それをはがすのにペリペリ、と音が鳴る。その感覚が少しだけこそばゆい。
汗をかいたせいでのどがかわいていた。でも、ここで麦茶を飲んでしまっては学校で飲む分がなくなってしまうので、ここでは飲むのを我慢する。
「おはようございます!」
遠くから女の子の大きな声が聞こえた。じめじめとした夏の残り物を全てふきとばしてしまうような、そんな無邪気な声でその女の子は来る人来る人に挨拶をしていた。
「おはよう、こはるちゃん」
私はその女の子に近づき、そうあいさつをした。
こはるちゃんは今年の春から小学校に入学した女の子。小さな肩が少し見える、花柄のフリルがついたトップスを着ていて、頭にはカチューシャをつけている。とても元気な女の子で、私によくなついてくれている。
一年生に道を歩かせるのは少し危ないので、こはるちゃんの家をみんなの集合場所として使わせてもらっている。
「あ、おはようございます!メイさん!」
私に気がついたこはるちゃんは、私に向かって大きく手をふって、そうあいさつをした。車道に飛び出して私の方に向かってこようとしたので、「危ないよ」と注意した。こはるちゃんは「ごめんなさい」と言ってしょんぼりしていたけど、最後の一人が集合場所に来たのを見て、「早く行きましょうメイさん!」と元気を取り戻したようだった。
私はまだ小学4年生だけど、班長として周りの子たちを引き連れて学校まで行っている。去年までは私のお姉ちゃんが班長をしていた。でも、お姉ちゃんは小学校を卒業して中学生になった。ここらへんに私より上の学年の人がいなかったので、私が班長をすることになった。責任を負うのはちょっといやだけど、先ぱいとしてしたわれることに悪い気はしなかった。
坂を上り、坂を下る。今となってはすたれてしまい、営業しているところを最近見ないお弁当屋さんの前を通り信号を渡る。そのまま真っ直ぐ行こうか、もう1個信号を渡って別の道を行くかというところで、「メイさん、今日はこっちから行きましょう!」とこはるちゃんに言われた。私は首をたてにふり、信号を渡って別の道を行くことにした。
こはるちゃんはいつもとちがう道によろこんでいるのか、すぎていく景色一つ一つに大きく反応していた。「こんなところにだがし屋さんがあったんですね!今度いってみたいです!」とか、「メイさん、クローバーがいっぱいですよ!四葉のクローバーとかありますかね!」とか。とても楽しそうだった。
そんなこはるちゃんの反応を楽しんでいると、私の目は定食屋さんの方に目がいった。定食屋さんの方からいい匂いがしたとか、行列ができていたとかそういったことではなく、そこにはねこがいたのだ。小さな定食屋さん。その外にある室外機の上でねこがねむっていた。
雪のふる季節であれば、いることに気がつけないほどの真っ白でふわふわな毛を生やしている。周りを全く気にせずねむるその姿は、自分のことを神様とでも思っているかのようだった。
日の光がほどよくさすひなたになっており、ねこがねむるにはちょうどいい場所だなと思った。こはるちゃんはまだ気がついていないようだった。
少しあそんでいきたい気持ちもあったけど、こはるちゃんの反応に合わせてゆっくり歩いていたから、あまり時間がない。こはるちゃんに話せば見に行ってしまうだろうと思い、あえて話さなかった。学校の帰りにでも私一人で遊びに行こう。
その定食屋さんを抜ければ、学校はもう目の前。十字路に交通安全のために立っているおじいさんの警察、佐藤さんが「はい行ってらっしゃい」と横断歩道を渡る小学生たちにあいさつをしていた。こはるちゃんはそれが全て自分に向けられたものかとでも思ったのか、「おはようございます!」「おはようございます!」と何度も何度も、佐藤さんにあいさつをしていた。
「おぉ、こはるちゃん。今日も元気がいいなぁ」
「はい!私はいつも元気ですよ!」
「あぁそうかい。それは良かった。じゃあ、いってらっしゃい」
「はい!いってきます!」
毎朝見るこのやり取り。あきもせず、こはるちゃんのわんぱくさに付き合ってくれる佐藤さんには感謝しかない。いつもありがとうございます。私はこはるちゃんの声のかげに小さく「いってきます」という。
学校に着いたら、こはるちゃんを教室まで送り届ける。1年生の教室に行くまでに知っている先生、知らない先生、他の1年生、色んな人がいた。ここでもこはるちゃんは1人1人にあいさつをしていて、そんなこはるちゃんの雰囲気に私は飲まれてしまいそうだった。
「メイさん!ここまでありがとうございます!今日も一日頑張りましょう!」
教室の目の前まで来ると、こはるちゃんはそういって教室に走り込んで行った。扉をガラガラ、と開いてその中でも大きな声であいさつをしているのが聞こえる。本当に明るくて良い子だ。
「うん。じゃあね」
とだけ言って、まだまだ聞こえるこはるちゃんの大きな声を背に、四年生の教室に向かう。それほど遠くもない教室に向かう途中、あの白いねこのことを思い出した。今もあの定食屋さんの、室外機の上でねむっているのだろうか。あのふわふわな白い毛を......なんて想像すると頭の中がほわほわしてきて、とても心地の良い気分になる。何をして遊ぼうか。まずはあのふわふわな体をなでて、次にだっこしてあげよう。その後はエサをあげて、最後に......。なんてことを考えていると、早くあのねこと遊びたくなってきて、まだ一時間目も始まっていないのにそわそわしてきた。
水とうの麦茶を一口だけ飲んで心を落ち着かせよう。やっぱもう一口。なんだか納得がいかないのでもう一口。
*****
今日の授業はつまらなかった。いつもが楽しいわけではないけど。
先生の声は聞こえているようで聞こえず、開いたノートには何も書かれていなかった。
頭の中にはずっとあのねこがいて、定食屋さんの室外機の上で眠っていた。日当たりが変わってしまって、あの場所はもう日かげかもしれない。あんなにも神様のようで暖かかったねこが、私の頭の中で冷たくなっていく。早く私が行かなければ、そう思った。
下校時間になっても話続けている先生に少しイライラしつつ、話が終わるのと同時に騒がしくなり始めた教室を一目散に抜け出す。
誰よりも早く下駄箱についたはずなのに、後から教室を出た男子たちに抜かれた。急ぎ過ぎて片方の足がくつに入らず、もたついた。
やっとのことではいたくつで地面をけり、急いで向かうは定食屋さん。タイミングよく信号が青に変わってくれたので、止まることなく、私は定食屋さんにたどり着けた。
この季節のお昼過ぎはまだまだ暑くて、そんなに走ったわけでもないのに全身汗びっしょりだった。
朝とはちがった料理のにおいがする定食屋さん。その正面入り口の隣には室外機があり、その上にはまだねこがいた。思った通り、日かげになっていて朝のような神々しさはない。でも、そのねこがそこにいるだけで私は満足だった。
まるで私を待っていてくれていたかのように、私が室外機に目を向けた瞬間にそのねこは眠りから覚めた。「おかえり」そういってくれた気がしたので、「ただいま」と小さく返した。
目を覚ましたねこはその小さな体を起こし、室外機から飛び降りる。かれいな着地を決めて、私の方に来る、なんてことはなくお店のうらの方へ向かった。「こっちに来い」とでも言っているかのようだった。私はねこにみちびかれるがまま、お店のうらへ行く。
お店のうらは日の当たらない場所になっていて、とてもすずしかった。ねこはときどきこちらをふりかえりながら、私が着いてきているのを確認しながら歩いていた。
お店のうらにはねこのお皿や、おもちゃなんかがあった。ちらっと見える店内には他にねこが数ひきいて、キャットタワーもおかれていた。どうやらこのねこは定食屋さんで飼われているみたいだった。
お皿の前で、ねこはあおむけになって寝ころんだ。私は思わず笑ってしまった。初めて会った人を自分の場所にまねき入れておきながら、けいかいなんて一切していない。しかもこのねこは自分がかわいいってことをちゃんとわかっている。だからこそ、こんなあざといことも平気でしちゃうんだ。
あおむけに寝ているねこはしっぽをふりふりして気に入られようとしていた。そんなあからさまなたいどに私はつられてしまい、気づけばねことたわむれていた。白い毛をもふもふした後に、頭をなでる。
まったく嫌がったりしなかったので、抱っこしてみた。
ねこを抱くなんて初めての経験で、いまいち抱き方がわからなかった。なんとなくでねこを持ち上げてみると、体がふにゃっとして苦しそうな姿勢になってしまった。
心の中で「ごめんね」とあやまりつつ、ひざの上にねこをのせ、抱え込むような形でねこをだっこした。
やわらかな、スライムのような体を抱くと、ねこの体温を直接感じ取ることができた。日が当たらず、少し肌寒いこの場所。ねこの温かな体はまるでカイロのようだった。
ねこは私のひざの上でじっと私を見つめていた。のどがゴロゴロと鳴っていて、お腹をさわると、内ぞうが動いている感じがした。ねこがのどをゴロゴロと鳴らすのはリラックスしているときだってどこかで聞いたことがある。
「あなた、喜んでいるの?」
その問いかけにねこは「みゃあ」と小さく、短く返した。私の言葉をわかっているわけなんてないけれど、それは肯定の返事なんだと、私はそう思う。だって嫌だったら逃げればいいのに、この子はそうしないし、怒っているような鳴き声でもない。
その小さな優しい返事は私の心を大きく満たした。とても満たされた空間。とても静かなその空間にあるのは、私の体温より少し高めの温度と、ゴロゴロとした小さな雷だけだった。
私の心の中にある暗くてとげとげしたものは、この幸せな気持ちに包まれて痛まなくなっていた。
「ねぇ、あなた、私のところに来ない?」
今度はなんにも返してくれなかったけど、変わらず喜んでくれている様子だった。
私はもうこの子のとりこになっていた。もっとこの子といっしょにいたい。そう思うといてもたってもいられなくなった。
「あなたも、大切にしてくれる人の方がいいでしょう?」
またしても何も返してくれない。
「あなたのこと、もっと知りたいの」
これにも何も返してくれない。
この子はただ私のひざの上で目を閉じ、うれしそうな顔をするだけだった。
何も返してくれない。だけどそれでいい。この子が側にいてくれているだけで私はうれしかった。
「ねぇ、いいよね?」
私はそっと、ねこのお腹に手をそえた。この子が生きているのをもう一度確認した。骨、内ぞう、血の流れ。その全てがこの子の生きている証になっていた。
トクントクン、小さな心ぞうの音がとても心地いい。その音は、私を許してくれている気がした。
私は、地面においていたランドセルから、さいほうセットを取り出す。その中には、先のとがったたちバサミが入っている。今日は、家庭科の授業でエプロンを作るために布を切ったから、刃の先には糸くずがついていた。
「大丈夫。こわくないよ。やさしくするから」
この子にはきっとなんにも伝わっていない。私の言葉も、気持ちも。だけど、この子は私の全てを受け入れてくれる。私の愛情を、受け止めてくれる。
私はたちバサミの刃の先についた糸くずを取り払って、冷たい刃に触れる。胸のあたりに刃の先を当てると、刃がこの子の温度を吸い取ってしまうような気がした。
「ありがとう」
そう一言つぶやいて、刃を胸の毛のすき間にそっと沈める。この子はあばれなかった。ただ静かに、私の中で温度を失っていった。のどを鳴らす音も、お腹の動きも、だんだんと感じられなくなっていった。それが、少しだけ悲しかった。
胸の中で刃を開き、体に切り込みを入れていく。最初こそ血がふき出したけど、その勢いもどんどん失われていく。今朝見たあの白い毛も、いまとなっては半分以上赤くなっていた。
奥へ奥へ、刃を進めるほどにこの子のことをもっと知れるような気がした。
少し、気持ち悪い感触ではあるが、私はこの子の全てを愛したかった。
――良かった。これで誰にも、うばわれない。
「はぁ。つかれた」
一通りこの子と遊んだらなんだか気分が下がった。あんなに大好きだったねこも、元の形を忘れてしまうほどの姿になってしまっていた。こんなの別に、好きじゃないや。
さっさと帰ってしまおうと、地面においていたランドセルをせおい、お店のうらから出ようとふりかえると、そこにはこはるちゃんがいた。
「あれ?こはるちゃん?こんな暗いところに来たら危ないよ?」
「メイさん……なにやってるんですか……」
おびえた様子でこちらを見るこはるちゃんはいつもよりもかわいらしく見えた。
「別になにもしてないよ。ただ、ねこと遊んでいただけ」
「だって……それ……」
そういってこはるちゃんは私の足元の、ねこだったものを指さしていた。
こはるちゃんは逃げることもせず、ただその場で立っていた。
「あぁ、かわいいねこを見つけちゃったからさ。こんなにかわいいと他の誰かに取られちゃうと思ったんだよ」
私の言っていることが理解できていないようだけど、もう私には関係ないこと。そのねこだったものと遊びたいのなら好きにしたらいいと思う。
「さぁ、帰ろっかこはるちゃん」
私はそう言って、こはるちゃんの手を引いて通学路へともどる。
こんなにかわいらしい子、他に誰にもわたしたくない。