8話 僕が彼女たちを殺した
「彼女たち、どうして自殺なんてしたのかな」
ぽつりと呟いた僕の言葉に、何かを伝えようとしていた立羽さんの動きがピタリと止まる。
戸惑いが表情に滲み、彼女は眉を寄せて視線を泳がせた。
まわりに誰もいないことを確かめ、僕の視線が旧校舎に向いていることに気づいてから、そっと声を抑えるように言った。
「牡丹くん…大丈夫?やっぱり、どこか悪いの?」
「え…?」
その一言で、ふと意識が現実に引き戻された。
「あ…」
手に持つ荷物の重みを感じて、今までの記憶がよみがえる。
駐車場まで歩いてきた時間、立羽さんが何かを伝えようとしていたこと。
あのときの目には、決意が宿っていたのに。
それを僕は踏みにじってしまったのだ。
「ごめん、変なこと言った……」
「ううん、気にしないで。私は平気……でも、牡丹くんは?」
彼女はまっすぐ僕を見つめていた。
その瞳には、明らかに僕を信じきれていない色が浮かんでいて、それ以上に心配が滲んでいた。
あまりにも真っ直ぐな視線から、僕は思わず目を逸らす。
何も言えずに俯いていると、彼女の声がまた落ちてくる。
「牡丹くん、退院してからここ最近ちょっと変だよね」
どこか躊躇いがちな、けれど核心に触れようとする声音だった。
「そんな変だったかな……」
クラスに馴染むのは確かに難しかった。
でも授業には出ていたし、真面目に学生をしていたつもりだった。
何も変わっていないふりを、ちゃんとしていたはずだった。
「授業中ずっとぼーっとしてたし、声かけても反応ない時あったし……それに、こうやって話してる間も、目、見てくれないでしょ?」
「……!」
「私、この一週間、牡丹くんと目を見て話した記憶がないや」
気づかれてしまっていた。
ちゃんと隠していたつもりだったのに。
変わらない毎日を演じるようにしていた「日常」は、彼女にはとっくに見抜かれていた。
立羽さん。
彼女は僕の言葉を、じっと待っていた。
「言えない」
短く、明確な拒絶だった。
それは答えであると同時に、僕と立羽さんを分ける線引きでもあった。
その拒絶に、立羽さんはゆっくりと目を伏せた。
悲しさを飲み込むようなその仕草は、責めるためではなく、受け止めようとする動きに見えた。
「そっか。目を見れないのも、きっと理由があるんだよね。話したくないことなら、無理に聞いたりしないよ。……でも、もし困ってることなら――私、手伝いたい」
彼女はそう言って、そっと胸に手を置いた。
すべてを静かに受け入れるような表情で。
「それは……」
何も言えない僕を、彼女はなおも信じようとしていた。
何をしようとしているのかも知らずに。
ただ、その気持ちだけで、もう十分だった。
でもね、巻き込めない。巻き込みたくない。
君だけは。
――愛乃さん。
「ありがとう、立羽さん。けど、大丈夫だよ。言ったでしょ、一睡もしてなかったって。ちょっと疲れてるだけだから」
「……」
立羽さんは、納得していないようだった。
その沈黙が、僕の嘘をあっさり見抜いていることを物語っていた。
だから、ほんの少しだけ本音を打ち明けることにした。
「今井さんが自殺した理由…立羽さんは、知ってる?」
声を潜める。風が僕たちの声を運ばないように。
「学校じゃ、いじめが理由だって言われてるけど……本当に、そうだったのかな」
「いじめだよ」
立羽さんは、きっぱりと言った。
少しの迷いもなく、その目は僕を真正面から見ていた。
僕が「どうして?」と視線で問いかけると、彼女はあっさり答えた。
「詩織ちゃん、友達だったから」
その理由は、あまりにも簡潔で、強いものだった。
「……ごめん、知らなくて」
「別クラスだったし、部活も違った。同じ中学だったって知ってた人の方が少ないよ」
立羽さんはそれが決められた反応のように無感情に言った。
「だから、気にしないで」とは言わずに。
それと反対に、謝る僕の声は申し訳なさそうに震えていた。
けれど、内心では、全く別の感情が渦巻いていた。
――知っているよ。
心の中で、誰にも聞こえないように呟いた。
謝る心と正反対に、心の奥で僕は、自分自身を冷笑していた。
平然と「知らなかった」と言ってのけるこの口は、どこまで腐っているんだ。
なにが「ごめん」だ、なにが「知らなかった」だ。心の底では、全部知っていたくせに。
そうだ、知っていて、聞いた。
こう言えば立羽さんは、きっとその反応をすると分かっていた。
だから、本当は――聞きたくなんて、なかったのに。
嘘をついて、君を突き放したこと。
知っていて、君をそんな気持ちにさせてしまうこと。
二重の罪悪感が、胸に重くのしかかる。
僕の表情には気づかないまま、立羽さんは遠くを見つめるような目で続けた。
「それに、私も……思わなかったわけじゃないから」
かすかに笑った。僕と同じ、自嘲気味な、どこか壊れかけた笑み。
「私も、同じ。詩織ちゃんのこと、何も知らなかった」
その声は、小さく震えていた。
表情は変わらなくても、語尾に滲むかすかな揺れが、彼女の中にある痛みを代弁していた。
「通夜に行った帰りにね、彼女、部活でいじめられてたそうななんですが、心当たりはありませんかって、警察の人から聞かれたの」
言葉を選ぶように、ゆっくりと吐き出していく。
まるで心の奥底から引きずり出すように、声の一つひとつが重たかった。
「でも、私……彼女がそんなものを抱えていたなんて、知らなかった」
その表情は、過去に手を伸ばそうとして、何も掴めなかった人間の寂しさに満ちていた。
「私の知ってる詩織ちゃんは、明るくて、いっつも冗談ばかり言ってて、流行ものに敏感で……タイプは違ったかもしれないけど、でも、大切な友達だった」
声が少しだけ鼻に詰まる。
思い出に触れるたび、立羽さんの目はわずかに潤んでいく。
「いじめられてたなんて……私、本当に、知らなかった」
それは言い訳じゃない。
ただ、どうしようもなく湧き上がってくる後悔だった。
「通夜のときにね。詩織ちゃんのお母さんとお父さんが、私のことを見たの。……私の知らない、重たい目で。『あなたが気づいていれば』って、そんなふうに見えた気がした」
うつむいた彼女の瞳は、その視線を今も心に焼きつけているのだろう。
「私なら、気づいてあげられたんじゃないかって……私なら、止められたんじゃないかって……!」
限界だった。
ずっと抱えていたものを、吐き出すように言葉があふれる。
嗚咽が言葉に混じる。
決して泣かないと唇を噛み締めていた彼女の肩が、今にも崩れそうに震えていた。刑罰を受ける罪人のような、その真っ赤な顔が痛々しかった。
傷つけたのは僕だ。
こうなると知って聞いたんだ。
拳を震わせ、慟哭する立羽さんを僕は目に焼き付けている。
「……いじめの存在も知らなかったんだ。仕方ない面もあるよ」
せめてもの、罪悪感。
慰めのつもりで口にしたその言葉は、どこまでも空虚だった。
「……それでも、思わなかったことはないよ」
誰にともない呟き。
それを最後に立羽さんは顔を上げて、僕の顔を見据える。
「牡丹くんは……もし、すごく親しい人が……」
一度、言葉を切る。
「――知らないところで、亡くなってたら。どうする?」
静かな問いかけ。
彼女の瞳が僕をまっすぐに見据える。
今度はその瞳から逃げず、僕はすぐに答えた。
「……償うよ」
迷いはなかった。
誰に向けるでもない、自分自身に言い聞かせる。
指先にわずかに力が入るのを感じながら、静かに続ける。
「それが、自分の行動の結果なら……償うしかない」
立羽さんはしばし僕の瞳を見つめていた。
その揺れる瞳にはやはり僕への心配と、信じようとする色があった。
「……牡丹くんは、強いね」
やがて、立羽さんがぽつりと呟き、小さく笑った。
その笑みは弱くて、すぐにでも崩れてしまいそうだったけれど、確かに彼女自身の力で浮かべたものだった。
「心配してたのは、私の方だったのに。いつの間にか……励まされちゃった」
「気にしないで。……もともと、僕が悪いんだから」
そう、僕が悪いのだから。
心の中で、何度も繰り返してきた言葉。
全部、僕が悪いんだ。
だから、愛乃さん、お願いだからそんな顔をしないで。
誰も、君も、彼女たちを殺してなんかいない。
彼女たちを殺したのは――僕なんだから。
次回更新は5月16日18時になります。