5話 ねえ、彼女たち……なんで死ななくちゃいけなかったのかな?
「ねえ、彼女たち……なんで死ななくちゃいけなかったのかな?」
ふと、呟くようにメティスが言った。
何気ない口調だった。問いというより、独り言のような、あるいは、呼び水のような。
けれど。
けれども、それが普通の言葉に聞こえなかったのは、きっとこの世界で僕ただ一人だけだ。
『真為君、私、何で死ななくちゃいけなかったのかな?』
胸の奥に、棘のような記憶が疼いた。
それは誰かの声――知っているはずのあなたの声。
引っかかり。
メティスの問いかけは、それを思い起こさせるには十分すぎた。
「……そんなこと、誰が言い出した」
喉の奥に引っかかったのは、警戒とも恐れともつかない感情だった。
僕の動揺を愉悦のにじんだ顔で見つめていたメティスは、何でもないことのように言った。
「遺書よ。死んじゃった、あの卒業生以外の2人――彼女たち、どちらも最後に同じ言葉で締めくくっていたの。『私たちは死ななくちゃいけません』って」
静かに、それでいて確信を持ってメティスは告げる。
「おかしいでしょう?それまで散々、恨み言やら死にたい理由やらを書き連ねていたのに。詩織ちゃんに至っては、震える文字で何度も何度も、前の文章をかき消すみたいにその言葉を書き殴ってたのよ」
――死ななければいけない。
本当に、そんなことを彼女たちは書き残していたのか?
理解が追いつかないまま、違和感だけが胸に積もっていく。
いや、それよりもだ。
「何でお前が遺書の内容を知ってる。警察か、遺族しか知らないはずだ」
遺書は通常、部外者に知らされることはない。
今井詩織がいじめが原因で亡くなったというのも、あくまで噂や伝聞の域を出ていない。
だがメティスは、まるでその目で直接読んだかのように、細部に至るまで語ったのだ。
僕がそう問いただすと、彼女はくすりと笑って、小首をかしげた。
「それは……内緒?」
挑発するような笑みを浮かべながら、彼女は僕の動揺を愉しむかのように言う。
「まあ、そんなこと、今はどうでもいいじゃない」
そう言って肩をすくめるその仕草に、悪びれる様子は微塵もなかった。
弁解の素振りすら見せず、あっさりと話題を切り捨てる。
まるで、すべてを知ったうえで遊んでいるかのように。
――知っている。
メティスは、何かを確実に知っている。
「それより不思議な言葉よね、『死ななければならない』なんて」
「どういう意味だ?」
問いかけると、メティスはにこりと笑った。
その笑みはいつも通り無垢で、無邪気で、しかしどこか芯の読めないものだった。
「だって自殺をしたっていうことは死に対する報酬が最大化されたってことでしょう?生のあらゆる楽しみ、苦しみよりも死を選ぶ方がその瞬間においては価値が高かった」
陰鬱な話題を語っているというのにどこまでも口調は軽やかだ。
高く弾むようなソプラノが夕焼けに染まった教室を跳ね回っていく。
「自殺って逃避行動なんでしょ?生きるのが辛くて、けど生きることに立ち向かえなかった弱い人間だから自ら率先して死を選ぶ。社会にとって不都合な自分勝手な行為。」
それはあくまでも無垢な問いを投げかけているようでいて、奥底にどこか意地の悪さを滲ませていた。
先ほどまで肘をついていた細くしなやかな指がメティスの形のいい唇をゆっくりとなぞる。
柔らかく、吸いつくような、唇の輪郭を意識させる妖しい手つき。
「人生に追い込まれて、精神が限界を迎えたから、どうしようもなくなって生命維持の原則を超えてしまう…ねえ、知性って残酷ね?」
微笑みはあまりにも無邪気で、屈託がない。さっきまでと同じ笑顔。
けれど僕はそこに、まるで別のものを見る。
ただ無垢なだけじゃない。
ただ無知なだけでもない。
魔性、いや、魔的な何か。
見る者の理性を狂わせるような、精神をざわつかせる、名状しがたいもの。
「何が言いたい」
晴れやかなメティスの笑みとは対照的に、自分の眉間のしわが寄っているのがわかる。
いつもより一段低い声でメティスに責めるように問いかけた。
「疑問なの、教えてくれる?」
そんな僕の問いを受けてか、メティスは姿勢を取り直した。
「『私』が死ぬ責任を他人に被せるのは分かる。自殺した理由で他人を責めるのも分かる。けど、『死ななければならない』なんて、逃避を選んだのは自分なのに――まるで死をもって状況が救われる、そう言わんばかりじゃない?」
「変だわ、そんなの」そう言ってメティスは続ける。
「詩織ちゃん、死んじゃったのはいじめられたからなんでしょ?それを自分で背負い込んだふりなんかして、本当にいじめた人たちのことを思ったなら、そもそも遺書なんて書く必要なんてないじゃない。どうして死ななければならないなんて書き残す必要があったのかしら」
誰が聞いても思わず眉をひそめたくなる、あまりに無神経で偏見に満ちた物言いだった。
けれど、その中心にある問いは僕にとっては、否定しきれない、至極真っ当なものであるかに思えた。
メティスの言い分が真実であるのなら、この状況の混乱は彼女たちが心から望んだものだったのだろうか。
あるいは、それを受け入れることでしか、彼女は前に進めなかったのか。
「……人間は……そんなに、単純な生き物じゃない……」
絞り出すように、苦し紛れの言葉が喉の奥から漏れる。
それでも、言わずにはいられなかった。
自分にそんなことを語る資格がないのはわかっていた。
けれど、こいつに何かを言い返してやらないと気が済まなかった。
「誰かのせいにしたくなるし、自分を正当化したくもなる。だからって、『死ななければいけない』理由なんて、あるわけない」
「そうね、シンが言うのならそうなんでしょう」
そんな僕の思いとは裏腹にすんなりとメティスは納得した様子を見せた。
その素直さがかえって皮肉のようにも見える。
「ねえ、彼女もそう言っていたの?」
ああ、やっぱりさっきの寝言は聞かれてしまっていたらしい。
「……ああ、言ってたよ、どうして自分は…死ななければいけなかったのかって」
まだ新しい昨夜の記憶が脳裏に鮮明に映し出される。
真紅の炎に巻かれて消えていく彼女、最後に僕を振り返って微笑んだ彼女。
どうしてあなたはあんなに満足そうに――
「…ごめんなさい」
「…なんだいきなり?」
「そんな顔をしたシン、初めて見たから、私言い過ぎちゃったみたい」
「余計な気遣いだ、ほっとけ」
こいつがデリカシーも配慮も微塵も皆無なんてことは知っていることだ。
結局のところ、子供なのだ。
ただ疑問に思ったことを足りないボキャブラリーでぶつけてくる。
それを僕一人が受け止める分には何の問題もない。
むしろ問題はメティスに気遣われるような顔をしていた僕の方だ。
気を引き締めないと。
「私ばかりでフェアじゃないわね。代わりにそんなナーバスなシンがちょっと興味を持つようなことを教えてあげる」
一瞬で申し訳なさそうな表情をすぐに引っ込めて、またいつもの笑顔が戻ってくる。
いつものように見通すことのできない、翡翠色の瞳に光を宿す。
「これ呪い(のろい)なんだって」
赤い糸の蝶が止まった小指をかざし、羽を持ち上げるような仕草をする。
その姿はまるで秘密を打ち明ける妖精のようで、今度は慈しむように優しく微笑んだ。
次回更新は5月13日の18時になります。