3話 僕の名が“シン”になった日
牡丹真為。このどこか女の子のような印象を受ける名前が僕の本名だ。
生まれも育ちも北海道の片田舎。高校を機に上京し、ここ壱玲高校に入学、現在は二年生。
学業は特に優秀でもなければ、劣っているというわけでもない、極めて平均的な成績だ。
部活やクラブには所属していない。最近まで一人暮らしをしていたこともあって、生活費を工面するために週六日ほど裏路地の喫茶店兼バーでバイトをしているくらいだ。
平凡と言い切るには少し歪で、特別と言うには決定打に欠けるそんな日々。
朝起きて、時計を気にしながら登校し、同じ教室で同じ顔を見ながら授業を受け、放課後はひとりで帰り道を歩く。
その平凡で静かな日常こそ、僕は本当に望んでいたものだったのだ。
その日常がどれだけありがたいことか知っていたからこそ。
その日常の安らぎこそ、何よりも慈しむべきものだと、深く分かっていたからこそ。
だから、そんな平穏無事な日々が、まさかこんな急に壊れてしまうなんて想像もしていなかった。
……少なくとも、あの日までは。
そう、あの日。
僕の名前が“シン”になった日。
すべては、あの少女と再び出会った瞬間から始まった。
――
メティスと出会ったのは一週間前、その日は僕にとっては3週間近く遅れた2年生の初登校日だった。
学校に行けてなかったのは何もサボっていたとか、そんなわけではない。
3月1日のこの学校の卒業式の日、僕はどうやら事故に遭って、4月1日まで昏睡状態にあったらしい。
それから何が何やら分からないまま目覚めて、およそ三週間ほど、医者に引き留められる形でリハビリやら検査やらでずっと入院していたというのがオチだ。
そんなわけで僕にとっては久しぶりの学校だった。
一年の時の時よりも一つ余計な階段に体力の衰えを感じながらたどり着いた初めての二年生教室の前にそいつはいた。
その時のことは衝撃的で忘れようがない。
神々しさすら漂う美貌を、混じり気のない満面の笑みなんかで歪めて。
まるでその日、その瞬間に来ることを知っていたかのように、教室の前で待ち構えていたそいつは、僕の姿を認めるなりこう言い放った。
「初めまして、私の名前はメティスっていうの。あなたの名前は呼びにくいから呼びやすいようにシンって呼ぶわね。
私たち色々あったけど、こうしてまた会えた以上、『過去』のことはチャラってことで。
これからはどうぞよろしくね、シン」
そして――。
「約束通り、私があなたの――になってあげる」
あまりの衝撃に後半の言葉は全く聞き取れなかった。
ただ、その手が差し出されたのを僕は茫然と眺めていた。
彼女の名前がメティスであること、そして彼女が海外からの留学生であると知ったのはそれからすぐのことだった。
それ以来、この一週間、朝の登校から授業、放課後に至るまで何かにつけてはメティスに付きまとわれることになった。
まるで僕の行動の全てが筒抜けであるかのように、僕が行きたい場所、行こうとした場所に先回りしているのか、どこにでも現れる。
それが何度も続くので、耐えかねて、こう尋ねてみた。
「お前ってストーカーなのか?」
すると彼女は平然と笑って、
「ほら“何々は偏在する”って言うでしょ、ユビキタスよユビキタス。」
なんてはぐらかされた。
挙句の果てには
「私ゲームセンターってところに行ってみたいわ。
クレーンゲームでぬいぐるみ?を取ってみたいの。
え、難しい?それなら問題ないわ、シンに取ってもらうもの。
あ、もちろんお代はシンが払ってね?だってほら遊ぶのはシンなんだから、当然でしょ?
私お金なんて持ってないし。
それに――借りは返すのが日本人なんでしょ?」
なんて宣ってくる始末だ。
理不尽で、横暴で、どうかしてる。
出会った時に開口一番、チャラと言ったのはメティスの方だろうに。
「そんなものクラスの女子と一緒に行け」と言ってやりたかったが、どうやら僕が来るまでの二週間、メティスは人とあまり関わってはいなかったらしい。
やはりというか、その容姿のせいで入学当初は随分と人目を引いていたそうだ。
好奇心、親切心、色恋——様々な動機で、あらゆる人間がメティスとコミュニケーションを取ろうと試みた。
が、その当のメティスはというと基本は無視、うんともすんとも言わず、人と話すことすら稀で、笑顔を見せることすらなかったらしい。
当然、クラスでは扱いに困られていた。
中には「日本語が話せないのでは?」なんて的外れなことを言っていた奴もいたほどだ。
どれだけ人に関心がなかったのやら。
一部ではその人間離れした無機物的な容姿と血の通っていないその対応を喩えて、「人工の女神様」なんてあだ名で呼ばれていたらしい。
本人はそのあだ名のことすら知らなかったようだけど。
それが僕が学校に来た途端だ。
今まで鋼鉄のようだった表情はまるでスライムかのようにぐにゃりと軟化し、周囲に対する冷え切った態度までもが一変した。
他人と良く喋るようになるばかりか、今ではむしろ自ら人の輪に飛び込むほどの積極性すら見せている。
中身を別人に挿げ替えたのではないかと疑われるほどだった。
一体、何をしたんだと、担任から昼休みに呼び出されたこともあった。
何をしたかだって、知るわけがない。メティスが何を考えているのか、なんてさっぱり分からない、分かってたまるものか。
そんなものだから一年の時からのクラスメイトで友人の指宿輪人からは怪訝な顔でこういわれた。
「お前って宇宙人か、超能力者か、それとも未来人だったのか?」
まったくもって心外だが、実際、僕のことを知らなかった人間からはそんな風に見えていたのだろう。
だから僕たちの関係を誤解した連中が、この天真爛漫を履き違えたような、姫のように横暴で、昆虫のように何を考えているのか分からないやつのお世話係を押し付けてきたのには三日もかからなかった。
「それじゃシン、これから一年間お願いね?」
その声に、僕は返事をする気も起きなかった。
自分の意志とは関係なく“シン”と呼ばれ、
自分の意志とは関係なく“世話係”に任命され、
自分の意志とは関係なく、世界がわずかに軋みを上げた気がした。
こうして、一週間も経たずして——僕とメティスの、とびきり厄介な関係は幕を開けたのだった。