2話 眠れない僕と、笑う人形
「シン……シン……」
夢の表面をそっとなぞるような、僕を呼ぶ声。
その声に誘われるように、意識がゆっくりと浮上していく。
夢だと気づいていたせいか、まぶたは驚くほど軽く開いた。
視界が明るさを取り戻すと、そこには死体も恐怖もなく、ごくありふれた日本の高校の教室が広がっていた。
僕はその中、机に突っ伏して眠っていたらしい。
そして、机越しに座る少女が、じっとこちらを見つめていた。
「おはよう、大丈夫?随分とうなされていたようだけど」
「…メティス…か…」
そこにいたのはまるで人形のような少女だった。
ウェーブがかった金糸のような細い髪。大理石のような輝く白に包み込まれた肌。
水晶のようにどこまでも澄んだ――いや、わずかに緑みを帯びた翡翠のような瞳。
それを削り出したかのような彫刻めいた完成された相貌は現実感を感じさせないほど完璧だ。
誰かがこんなうわさ話をしているのを聞いたことがある。「まるで人工の女神のようだ」、と。
僕の視線に気が付くと金髪の少女、メティスは薄く微笑んだ。
そんなささやかな笑顔ですらきっと一枚の絵画になってしまうほど鮮やかに僕の瞳に映る。
「はい、これ」
差し出された右手にはハンカチが握られていた。
そのハンカチで額をぬぐうとびっしりとした汗がハンカチを濡らしていた。
一体どれだけ眠っていたのか、窓の外は茜色一色に染まっている。
「どれくらい寝ていた?」
「ちょうど一時間くらいかしら、もう四時半よ」
教室のアナログ時計を振り返りながらメティスは答えた。
釣られて視線の先を追うと時計の針は確かに四時を半分ほど回っていた。
「ホームルームが終わって、すぐに倒れ込むように眠っちゃったのよ。覚えてない?」
そうだ、昨夜から一睡もしてなくて、確かホームルームが終わったあたりで限界が来たんだ。
それで仮眠を取ろうと気を緩めた瞬間から記憶がない。きっと気絶してしまったのだろう。
気づけば日中、苛まれていた頭にモヤがかかったような感覚はすっかりと消え去っている。
「しばらくそっとしておいたんだけど、今日は病院で検査なんでしょ、だから起こしてあげたの。どう? 嬉しい?」
メティスは前のみりになって机に肘をつき、弾むような声で僕に訊いてくる。
その表情は自慢げだ。
もし彼女に尻尾が生えていたら、きっと左右に激しく揺れているであろうと思うほどに。
「…そいつはどうも」
わずかに視線をそらし、そっけない返事を返す。
気絶してしまったのならアラームをかける余裕もなかっただろう。
万が一寝過ごしてしまっていたかもしれない。
それにあんな夢は一秒だって見ていたいものじゃない。
だから感謝の気持ちこそあるのだがーー。
「それでお前は僕が寝ている間ずっと見ていたってわけか? 退屈だろうに、暇なんだな」
だからといって寝ている姿を見られているというのはあまり気持ちのいいものじゃない。
特にあの死体の夢を見ている時は尚更だ。
あの夢を見るときは決まって酷くうなされることになる。
冷や汗をかくのはもちろんのこと、起きたときに泣いていることも、叫びながら飛び起きることだってあった。
それをメティスに見られているなんてのは僕にとっては一生の恥にも等しい。
それに、あまり人に聞いてほしくない寝言を口走っている時もある。
「そう?うなされているシンを見ているのとっても楽しかったわ」
翡翠色の瞳を細めて、そう言い放つ。
だがその瞳に一切の邪気はない。
これはメティスと関わるうちに分かったことだが、メティスは思っていることがそのまま顔に出やすいらしい。
つまりはメティスにとって僕がうなされている姿を眺めているのは純粋に楽しいことだったのだろう。
何が楽しかったのかは分からないが。
だからこそ不安になる。
最悪メティスになら聞かれても問題はないが、だがもし他の誰かに聞かれでもしていたら――。
「なにか余計なことを口走っていなかったよな…」
僕の問いかけにメティスは一瞬キョトンとした顔を浮かべ、そして意地の悪い笑みをして、
「私の名前を呼んでいたわ」
瞬間、予想だにしていなかった言葉に自分の顔から表情が抜け落ちていったのが自分でも分かった。
そんな僕の反応を見て、対照的にメティスの瞳は喜色に染まっていき、口元を片手で抑えて無邪気に笑い出す。
まるで物語に語られるイダズラ好きの妖精のように、クスクス、クスクスと。
「……っ!」
揶揄われた。
その屈託のない笑い声にやっとそう気づき、メティスを睨みつける。
そんな僕の反応もメティスにとってはスパイスでしかないのだろう。
殊更に端正な相貌を歪めて、声を上げて笑い続ける。
「冗談よ、誰にも言っていないわ、夢ってプライバシーなものなんでしょ?内緒にしておいてあげる、一つ貸しね」
一分くらい後、目元を拭いながらそう言った。
「はあ…」
その言葉にため息をつく。
誰にも言っていないこと、それに安心したからではなく単純に諦めたからだ。
メティスが誰にも言っていないと言ったってどうせ僕に確かめる術はない。
寝ている時に自分が何を言っていたのかさえも人づてにしか聞いていないのだから。
結局のところ、メティスの前で気づかぬうちに眠ってしまった僕が悪い。
それに昨夜から一睡もできなかったのも、こんな夢を見てしまったのも、全て昨日の夜にあんなものを見てしまったからだ。
『どうして死ななくちゃいけなかったのかな』
「……!?」
脳裏に響いたその声に、咄嗟に耳を覆い、辺りを見回した。
が、それらしい声の発生源は見当たらない。教室には僕とメティスの二人しかいない。
さっきの声は空耳だったか、仮眠をとったとはいえ、まだ疲れは残っているらしい。
「ふふっ、笑いすぎてお腹が痛いってこういうことなのね、これで筋肉痛になったらどうしよう」
本当に、子どもみたいなやつだ――そう思う瞬間が、メティスといるとときどき訪れる。
内側にある感情を、まるでフィルターを通さずにそのまま外に出すことに、ためらいがないのだろうか。
まるで彫刻のように整いすぎたその容姿のくせに、表情は粘土細工のようにコロコロと変わる。
悲しんだり、怒ったり、拗ねたり、無邪気にはしゃいだり。
表情を刻一刻と作り替えていく様子は、まるで感情を表すという行為そのものを楽しんでいるように見える。
だからこそ、誤解してしまうのだ。
その笑顔が、貼り付けた仮面であるなら、どれだけ良かったことか。
模倣でも、偽装でもなく、本物であることが、いちばん恐ろしい。
そんなメティスを僕は――。
「…?」
そこでふと、口元を隠した彼女の右手の小指に、夕日に照らされて僅かに赤く光る何かが巻かれているのに気が付いた。
よく見ると、赤い糸のようなものが蝶結びで留められている。
どこかで見覚えがある気がする。
確かそれは昨夜、彼女が——。
「…それ、なにやっているんだ?」
「これ? おまじないよ、学校で流行ってるの知ってるでしょう?」
学校に来てまだ一週間も経っていないが、校内のあちこちで小指に赤い糸を巻く女子生徒を見かけていた。
不思議だったのは、その赤い糸を巻く子たちが学年も部活もバラバラで、特定のグループだけの流行ではないことだ。
女子が好きそうなものだが、隠れてやってる男子も見かける。
休んでいた三週間の間に流行りだしたらしいが、小学生のミサンガじゃあるまいし、一体何をそんなに願っているのか。
「……確かによく見るな。みんな左手の小指に巻いてた。何かの暗号かと思ってたけど」
「ふふっ、それはちょっとカッコよすぎじゃない? 単なる『お願いごと』よ。蝶結びにして、手で包んで――願いを思い浮かべるの。そうすれば叶うんだって」
言葉に合わせて、メティスがそっと右手で包み込むように指を覆う。
蝶を逃がさないようにするように。
その仕草はどこか、儀式のように神聖で、同時にどこか――不気味だった。
「叶うって、誰が言い出したんだ。そんなにみんな、願い事をしてるのか?」
「……願いたいんでしょうね」
その時のメティスの声音は、ほんのわずかに沈んでいた。
けれど次の瞬間には、またいつものように屈託なく笑っている。
「好きな人と付き合えるとか、試合に勝てるとか。私にこれを教えてくれた子なんて、本当に先輩と付き合えたって言ってたもの」
今度はメティスは見せつけるように夕日を遮り小指をかざした。
「ほら運命の赤い糸ってやつあるでしょ、これもそれにあやかってるんじゃないかしら」
小指に止まった羽ばたくことのできない赤色の蝶はより鮮やかな茜色に塗りつぶされ、眩しくもかき消える。
その様をメティスはどこか羨ましそうに目を細める。
「恋愛成就、学業成就、心願成就ね。陳腐な割に随分と幅広いご利益なんだな」
「む、疑ってるでしょ」
「そりゃそうだろう、そのおまじないに願ったって相手の気持ちが変わるわけじゃない。それに運命なんて未来に向けた言葉じゃない。現在から過去を振り返った時、後付けで意味を与えられた言葉だろう。」
おまじないが思いをため込む媒体であったとしても、それで恋のキューピッドが弓を射ってくれるわけじゃない。
願っただけで叶えてくれるなんてあまりにも胡散臭い話だ。
「メティスこそ、そういった詐欺に引っかかるなよ。人間ってのはどいつもこいつも悪どいものだからな。意外とにこやかにしているやつこそ、腹に何を抱えているのか分かったもんじゃないぞ」
「…シンってやっぱりロマンチストじゃないわ」
お前みたいにな。
そんな僕の言葉に含まれた棘を感じ取ったのだろう。
メティスは楽しげだった表情を一変させ、形の良い唇を子供のように尖らせた。
「私は好きよ、運命ってとっても素敵な言葉だもの。そうだ、それなら私たちが出会ったのも運命って言えるんじゃない?」
僕は嫌いだ。運命なんて冗談じゃない。こいつと関わってしまった不幸があらかじめ決められているなんて。