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僕が神さまを殺した日  作者: 利剣
第一章 呪々御供
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23話 運命の赤い糸


握りつぶすには至らず、骨折の気配もない。

恐らくは、打撲程度だろう。


メティスは赤く腫れた右手をしげしげと見つめた。

痛みに顔をしかめるでもなく、僕を恨めしそうに睨むでもなく――

まるで、愛する人に結婚指輪をはめてもらったときのように、満ち足りた表情で微笑んでいた。


「素敵なプレゼントをもらった代わりに、やっぱり教えてあげるわ」


そう言って、小指に巻きつけた、もはや意味を失った赤い糸を僕に見せつけるように掲げる。


「これ、やっぱり運命の赤い糸だと思うの」



◇◇



「呪々御供についてですが、放置しても問題はないでしょう」


カリンは、締め切られたカーテンの隙間から差し込む微かな光をじっと見つめながら、静かにそう言った。

その一言を聞くために、僕は今日もこの病室を訪れたのだった。


「おまじないに関しても同様です。一過性の流行にすぎません。効力を失えば、自然と人々の記憶から消えていくでしょう」


もともと、それは自殺という陰鬱な話題に対する防衛反応として――あるいは何かにすがりたかった人々によって――広まったものだった。

だが、そうした動機が消えていけば、いずれは風化する運命にある。


「サードウェーブ効果のように、現実を突きつける必要もありません」


彼女の声には、確信があった。


サードウェーブ効果。

ある教師が独裁の危険性を教えるために生徒を扇動し、最後にヒトラーの写真を投影して現実を直視させた、あの実験。


「しかし、興味深いですね」


「……呪々御供に関してか?」


カリンの呟きに、僕は静かに問い返す。


「学校という環境です。あそこは、閉ざされた社会です。

規律、風紀、同調圧力。それらで子供を社会に適応する人材へと成形する装置。

そうした空間だからこそ、この呪いは根を張り、成熟してしまったのでしょう」


……まあ、そういう側面があるのは確かだけれど、カリンの評価は、いささか手厳しい。


個人的にはそこまで悪いものじゃないと思うのだが。

特に同年代の人間と共に過ごす時間は学校でしか得られないものでもある。


「……学校、行ったことあるのか?」


ふと、そんな疑問が浮かぶ。

彼女はずっとこの病室にいて、生まれつき体が弱いと聞いていた。


「小学校を二年ほど」


「……」


それだけの体験で、すべてを断じるのは極端に思えるが。

あるいは、その短い時間が彼女にとって強烈すぎたのかもしれない。


トラウマというのは人それぞれだ。

あまり深く突っ込まない方がいいだろう。


「なんですか、その顔は」


ムッとした声。

けれど彼女の態度には、どこか拗ねたような雰囲気も混じっている。



◇◇



「ともあれ、これで呪いとおまじないは効力を失い、自然消滅していくはずです。

これ以降、今井詩織のような生贄としての自殺者が出ることはないでしょう」


「……そうか」


犠牲者はすでに二人。

一件落着などと軽々しく言う気にはなれないが、これ以上増えないのなら、それだけでも救いだった。


「ほかに質問はありますか?」


まるで教師のような声音に、思わず苦笑が漏れそうになる。

今のうちに、溜まった疑問を全てぶつけておくべきだろう。


「……水面空音が二人いたことについては?」


「あなたが一昨日、看取った水面空音と……おまじないの中心にいた、もう一人の空音のことですね?」


カリンは少し考える素振りを見せたあと、静かに口を開いた。


「あえてこじつけるならば、神道における“荒魂”と“和魂”。そう捉えるべきでしょう」


僕は小さく頷く。

荒魂――荒々しく、破壊をもたらす神性。

和魂――穏やかで、平和をもたらす神性。


「付け加えるならば、竜神信仰における人身御供も、荒魂を鎮めるための儀式でした。つまり……あの幽霊は、間違いなく荒魂だったのでしょう」


おまじないによって生贄を求めた幽霊は、明らかに前者だった。

呪いによって生贄を必要とする神。怒れる霊。忌まわしくも、力強い存在。


僕は一つ息を吐き、呟く。


「それまで弱っていた幽霊が回復したのは僕が和魂の水面空音を看取ったせいか?」


「おそらくは。二人に分かれていた存在が、一つに還った。それによって力を取り戻したのでしょう。」


そう言いながら、カリンはベッドの中で何かを指先でいじっていた。

覗き込むと、それは昨日、僕が渡した花束のラッピング――安っぽい、赤いリボンだった。


「そのリボン、まだ残していたのか」


「何かに使えないものかと思いまして」


ただのリボン。しかも安っぽい。

花を買ったらついてきた、付属品のようなものだった。

けれど、昨日、おまじないとして僕がそれを結んだとき――


「……悪趣味って言ってなかったか?」


「悪趣味なのは呪いの方です。このリボンは、シンナがくれたものなのですから。そんなこと、言わないでください」


「はいはい」


むすっとした顔。

その表情を見て、少しだけ気が緩む。


「それで、他にはありませんか」


「……そうだな、他には……」


メティス――別れ際に彼女が言った言葉が、ふと脳裏に蘇った。


——これ、やっぱり運命の赤い糸だと思うわ。


運命の赤い糸?

確かにおまじないには縁結びの効果があると噂されていた。

メティスは、それにあやかっているのかもしれないと言っていた。


『真為君、私、何で死ななくちゃいけなかったのかな?』


僕の迦楼羅炎に巻かれて消えていった、和魂の空音先輩。

そういえば、彼女の脚には赤い糸が巻かれていた。


あれもおまじないだったのだろうか。

でも、小指ではなく脚――なぜ?


空音先輩が自殺してから、呪々御供が流行ったことを考えると……死ななきゃいけないという言葉は呪々御供によって変質したものじゃない。

彼女自身の言葉だったはずだ。


「なあ、運命の赤い糸って、何か元ネタとかあるのか?」


「赤い糸……ですか?」


カリンは俯き、手の中の赤いリボンをじっと見つめた。

彼女の小さな頭脳が、蓄積された膨大な知識を検索しているのが分かる。

やがて、ぽつりと語り始めた。


「中国の伝説に由来するものです。月下老人という縁結びの神様がいて……冥界には“婚姻簿”と呼ばれる書物があるのだとか。

月下老人は、その簿に記された運命の夫婦の“足と足”に、不可視の赤い紐を結ぶのです」


普通の人間には見えない不可視の糸。

それが「運命の赤い糸」と呼ばれるようになった。

そして、小指に巻かれるというイメージは、日本でアレンジされたものだ。


「……そうか」


その話を聞いて、僕の中にはある一つの納得が生まれていた。


ようやく、理解できた。

なぜ水面空音が、死ななければならなかったのか。


僕は丸椅子から立ち上がり、「これ、もらっていくぞ」と言いながら、花瓶から白百合を一輪抜いた。


「もう行かれるのですか?」


「……ああ。寄るところができた。次は花だけじゃなくて、ドーナツも買ってくるよ」


「シンナ」


背中を向けたところで、カリンの声に呼び止められる。


「これは忠告です。方便もたいがいにしておきなさい」


何がとは訊かなかった。何のことかは、すぐに分かった。


「視ていたのか?」


そう問いながら、僕は笑顔を作り、明るい口調で言う。少しだけ、茶化すように。


「視ずとも分かります。あなたが水面空音を殺す際に強がることくらい」


視線が合う。

たったそれだけで、僕の嘘は、とうに見破られてしまった。


「……また来るよ」


僕はそう言い残して、病室を後にした。



最後まで読んでくださりありがとうございます。

次回更新は6月6日18:00の予定です。

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