22話 観測されざる者
「この後、用事があるの」
そう言って、メティスはおおはしゃぎだった。
右手は痛々しいというのに、まるで何ごともなかったかのように跳ねるように笑う。
それでも僕は、念のため、保健室に連れて行った。
誰にも見られないようにそそくさと。
その後、校門まで見送ってくれた彼女は、やはり最後まで過剰なほど元気で、それがかえって不安を煽るようでもあった。
そして僕は、昨日と同じ道を歩いた。
昨日よりはずっと足取りは軽やかだ。
まるで自宅に帰るみたいに――自然な足取りで、カリンの病室まで辿り着いていた。
いつも通り、大量の書物に囲まれた病室。
お姫様が眠るようなベッドの上で、カリンは体育座りをして、珍しくしょんぼりとした表情を浮かべていた。
「どうした」
「ドーナツを食べたことがばれまして、玲子さんに怒られました」
白川玲子。
カリンの専属看護師であり、僕も以前、何度もお世話になったことがある女性だ。
有能で、落ち着いていて、そして――とにかく怒ると怖い。
カリンに甘いドクターとは違って、彼女は唯一、カリンにちゃんと叱ることができる存在だった。
「どうしてバレたんだ?」
「シーツに……食べかすがついてたみたいで」
彼女がうつむきながら呟いた。
真っ白なシーツに、淡い罪の痕跡が残っていたらしい。
このシーツも、玲子さんが毎日丁寧に洗濯している。
昨日、ドクターは僕に「大目に見る」と言っていた。
きっと、カリンにもそう言っていたのだろう――茶目っ気たっぷりに。
それでも、かばってはくれなかったのか?
「なだめようとはしてくれたんですけど……」
カリンは肩を落として、恨めしそうに言った。
「ドクターごと、怒られました」
二人そろって怒られている様子は、たやすく想像がついた。
この病院で一番偉いのは、もしかしたら彼女――白川玲子なのかもしれない。
◇◇
「そうだ、カリン」
ベット隣の丸椅子に腰かけながら、僕はふと思い出したように口を開く。
「ニュース、見たよ。自殺者が増えてるって……世界的に」
「……そうですか」
感情を押し殺したような声。
それはカリンにしては不自然なほどに、静かだった。
「昨日、僕が来たとき、すぐにテレビを消していたね」
その瞬間、カリンの琥珀色の瞳がわずかに動いた。
僕の視線から、何かを隠すように。
瞳の奥の色を、見せまいとするように。
「そのときも、今と同じように目をそらした。君が僕に何かを隠すとき、いつもそうする」
一拍置いて、少し笑う。
「……僕も、そうだけどね」
僕たちは、目を合わせただけでわかってしまう。
相手が何を思っているのか、何を感じているのか。
そういう目を持ってしまっているから。
だからこそ、目を合わせることを避けるしかない時がある。
「余計な気遣いは、いらない。僕は、そこまで弱くはない、ちゃんと自分の罪に向き合える」
静かに、でも確かにそう伝える。
「君と僕は――罪も、秘密も、人生さえも、分け合った存在だ。
僕たちは、共犯者なんだから」
共犯者、その言葉を聞いて、カリンはゆっくりと顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「それは、失礼いたしました。」
一呼吸の間を置いて、彼女は続ける。
「……ただ、一点だけ弁明を。アナタを信用していなかったわけではありません」
その目には、微かな寂しさと、確かな優しさ、そんな色が混じっていた。
「少しくらい……私にも、気遣わせてください。私のシンナ」
◇◇
「バタフライエフェクトというのでしょうね」
道中、花屋で買ってきた――今日も、店員に勧められるままに。
黄色くて、小さな花。
フリージアという名前だった。
ガーベラと白百合が挿された花瓶に、そっとそれを差し入れる。
病室の空気に、かすかな甘い香りが混じった。
その手元を見ながら、カリンは静かに呟いた。
「世界中で自殺者が急増している。
ルキウスさん――あなたが“殺した”という、たったひとりの人物の消滅によって。
一人の存在が欠けただけで、そこから波紋のように」
言葉を区切って、彼女は目を伏せた。
「……世界中にまで、影響が及ぶなんて」
「だが、事実だよ」
僕は短く返した。
けれど、どこか他人事のように聞こえてしまう。
本当は、僕自身がいちばん実感できていなかった。
「――実感が、あまり湧きませんね」
カリンがそう言ったとき、口元に微かな皮肉が浮かんでいた。
「まるで、セカイ系のライトノベルのようじゃありませんか。
ひとりの少女が死んだだけで、世界が滅びる……そんな風に」
それは、ある意味で真実だ。
僕が、ルキウス先輩を殺した。
智慧の果実を、殺した。
その結果、彼だけが“観測”の外へ逃れてしまった。
彼は、「智慧の果実」と呼ばれる、この世界の“目”から逃れてしまったのだ。
世界を記録し、定めるその視線から外れたとき、彼の存在は、見落とされた走り書きのように、再構成された現実に描き込まれなかった。
結果として、新たな世界には、彼の姿だけがどこにもなかった。
いなかったことになった。
いなかったことにされた。
そして、世界を変えた元凶は今日ものうのうと生きている。
彼を殺めた僕も。
そして――あの無感情で、本物の神様のようだった“智慧の果実”も。
今では「メティス」という名前で呼ばれている。
ただの少女の姿をしながら、今もこの世界のどこかで、静かに笑っている。
それで言うのなら僕はやはり宇宙人か、超能力者か、それとも未来人なのかもしれない。
少女の皮をかぶった神様を真実を知っている者として。
観測の外側を知ってしまった者として。
世界の辻褄のほころびを、その目で見てしまった者として。
「今井詩織。彼女の自殺もそうだったのですか?」
その名を出されて、僕は一瞬、口を閉じた。
そして、静かにうなずいた。
「そうだよ。今井詩織も、水面空音も。世界中の人間だって、僕が殺したんだ」
カリンは何も言わなかった。
ただ、じっと僕の顔を見つめていた。
「彼女――今井詩織は、もともと僕のクラスメイトだった。
そして、バレー部じゃなくて、バスケ部。
『かっこいい先輩がいたんだ』って、その頃も話してたって、愛乃さんが言ってた」
記憶の奥に、遠い光景が浮かぶ。
夕暮れの廊下。埃っぽい空気。誰にも届かなかった小さな声。
「……そのときも、いじめられてた。
オカルト研究部も、女子バスケ部も、旧校舎に部室があった。
だから、彼女の異変を、僕は感じ取ることができたんだ」
言葉の間に、わずかな痛みがにじむ。
それは過去の傷というより、今もなお滲み出続けている何かだった。
「ルキウス先輩と空音先輩の助けを借りて、夏休み中に愛乃さんと二人で、彼女を助け出したんだ。
あのとき、確かに手を伸ばした。僕の手は、届いたはずだったんだ」
けれど、今、この世界には。
「ルキウス先輩はいない。
彼がいない世界では、僕ひとりの力じゃ、彼女を助け出すことができなかったらしい」
それどころか、彼女の異変に気づくことさえ――できなかった。
「……僕は、どこまでも無力な人間だ」
淡々とした口調の奥に、血のような悔しさがにじんでいた。
言葉に混じって、何かが滲み、崩れていく音がした。
「だから――僕が、彼女たちを殺したんだよ」
沈黙が降りた。
それは重くも、軽くもなかった。ただ、すべてを押し包むように、静かだった。
死を悼むように、白百合とフリージアが、今もそこに咲いていた。
誰かの記憶の中で――あるいは、取り残されたこの世界の片隅で。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
次回更新は6月4日の18:00になります。




