20話 幽霊を殺す炎
「――あんたを殺す。
自殺のように、楽に逝けるとは思わないことだ」
「……ッ!?」
天井から垂れた赤い糸が、ぴんと張りつめる。
炎の気配に圧されるように、幽霊は窓際までじりじりと後退した。
その顔は、恐怖に歪んでいた。
たじろいでいる。
幽霊は本能で悟っていた。
この炎が、自分という存在を殺すものだと。
迦楼羅炎。
それは熱を持たない炎。
だが、幽霊にとっては、まぎれもない“死”を孕んでいた。
化学準備室の端から端まで、距離はおよそ5メートル。
僕と幽霊の間にはおよそ3メートルはある実験机が縦に置かれている。
そして机の上に吊下がるメティスの死体。
一息に距離を詰めるには障害が多い。
けれど、構わない。
「ゆっくり行こうか」
制服のネクタイを緩め、最初の一歩を踏み出した瞬間――
「アアアアアッッッッ!!」
幽霊が絶叫した。
意味をなさない言霊が、化学準備室に木霊する。
耳をつんざく高周波。
僕は反射的に耳を塞ぎ、踏み出しかけた足が止まる。
叫びは、窓ガラスも、ガラス棚も、空気さえも震わせた。
まるですべてのガラスを割ろうとするような、強烈な声量だった。
叫びは一度、余韻を残し止む。
だが、すぐにまた――別の絶叫が走った。
「アアアアアッッ!」
先ほどよりも、生ぬるい叫び声。
けれど、異変が起こる。
準備室の棚が、ひとりでに開いた。
「……!」
棚の中のあらゆるものが、宙に浮かぶ。
静かに、しかし確実に、重力に逆らって。
ビーカー。
メスシリンダー。
試験管。
薬品瓶。
その他、命なきはずの器具たちが、ゆらりと舞う。
「……ポルターガイスト」
本来は学習や研究のために存在する道具たち。
それらが、今、僕に殺意を向けていた。
「そう簡単にはいかないか。
まったく、戦闘は初めてなんだけどな」
僕はリボルバーのシリンダーを横にスイングアウトする。
何も詰められていない六つの空の弾倉。
そこへ、ゆらゆらと揺れる炎を、ひとつずつ詰めていく。
指先から溢れ出す、迦楼羅炎の欠片たち。
「来るなッ!」
幽霊の叫びと同時に、殺意が飛び出した。
ビーカー。
メスシリンダー。
その他、すべての実験器具が、僕めがけて射出される。
至近距離、時速100キロを超える速度で。
この5メートルという距離を――瞬時に詰めて。
だが、それでも僕の目には、止まっているのと同じだった。
装填完了と同時にシリンダーを戻し、リボルバーを跳ね上げる。
そして、流れるように襲いかかる器具のひとつひとつに狙いを定め、指を引き金にかける。
――引き金にかかる重み。
その重みは、ルキウス先輩を殺した時に比べれば――あまりに軽い。
「今日は躊躇はいらない」
そう呟き、微かな重みを無視して、引き金を引く。
音もなく、炎が放たれる。
撃つ。撃つ。撃つ。
飛来する器具の数だけ、等しく、迷いなく。
炎はすべての器具を、正確に貫いた。
しかし――
命中した器具は、割れることもなく、砕けることもなく。
その速度ごと、慣性を失い、命を失ったかのように、僕の足元に落ちていく。
落下音と同時に、床で割れる音が響く。
飛び散る破片。
その破片が僕の脚を撫で、顔をかすめて切り裂いた。
だが、垂れた血は即座に蒸発し、水蒸気が真紅の炎へと変わる。
熱を持たぬ炎と、割れたガラスの飛沫。
その中を、僕は悠然と歩みを進めていく。
一歩、一歩。
幽霊のもとへと。
「…なんで…」
幽霊は呆然と、僕を見ていた。
目の前で起こっていることが理解できないのだ。
炎に貫かれても音はせず、ビーカーもフラスコも、爆発も衝突もなく、ただ――沈黙のまま地に落ちていく。
何もかもが常識とは異なる現象。
「僕を殺したいのか?」
僕は、静かに言った。
幽霊は沈黙したまま、僕を睨みつける
「なら、お前の攻撃は無駄だ」
僕は、リボルバーを肩越しに軽く掲げながら、続けた。
「僕の迦楼羅炎は……煩悩を燃やす。
怒りも、憎しみも、殺意も……すべてを燃やしつくす。
殺したい、そんな煩悩…消えちまった方がマシだろ?」
嘲笑交じりに、吐き捨てる。
「……まったく。何度も死ねるなんて、羨ましいよ」
その言葉と共に僕は幽霊の斜め上に留まったフラスコを狙い撃った。
撃たれたフラスコは重力に従い、自然落下する。
ガラスの割れる音だけが、準備室を満たしていた。
そして、その音に包まれながら、もう一歩。
「……っ」
幽霊の喉が震えた。
自分の武器が通じない。
その気になれば、僕はすぐにでも幽霊を殺せる――その事実を認識して。
怒り、恐怖、混乱――そのすべてが入り混じり、彼女の影を濁らせていく。
「ア゛ア゛アア゛アアアア゛アッ゛ッッ゛ッ!!!」
その感情を振り切るように、幽霊が再び絶叫する。
今度、飛来してきたのは――薬品瓶。
さっきのように迎撃してはまずい。
割れた瓶から飛び散る液体は、硫酸、塩素、あるいはそれ以上に危険なもの。
「……これは、ダメだ」
僕はすぐに判断した。
迎撃すれば、薬液が飛び跳ねる。
血が出るだけなら、炎に変換できるが、肌が焼ければそれで済まない。
だから、その前に僕は――跳躍した。
空中では、身動きが取れない。
コンマ数秒の中、幽霊が命中を確信したような顔をする。
馬鹿め――そんな風に、幽霊が僕を嘲る。
その顔をはっきりと認識しながら僕は空中姿勢のまま、部屋の中心、天井の糸を狙った。
メティスを吊り下げるその細い糸――首を括られた彼女の、死の支柱。
――そこに、炎を撃つ。
糸がぷつりと、切れる。
支えるもののなくなったメティスの体が、重力に従って、落ちてくる。
そして僕は、片足で実験机に着地。
その反動を軸に、回転。
その勢いのまま、落ちてきたメティスの死体の腹部を、
「――そらよっ」
容赦なく、蹴り飛ばした。
人一人分の重みが、足にのしかかる。
だが、構わず、力を込める。
メティスの死体は空を滑り、その軌道の先――飛来する薬品瓶へと、一直線に突っ込む。
酸の雨に、盾として、ガラスと死体が激突する。
割れる音と刺激臭が、空気を刺すように広がった。
その後に肌が焼ける――いや、溶ける音。
そして、白煙。
煙と死体に視界を奪われながらも、僕は顔をしかめることもなく、リボルバーを掲げる。
残った最後の一発。
狙うのは幽霊の、天井から垂れ下がる細い糸。
彼女の存在をこの部屋に繋ぎ止める、あの一本。
音もなく、引き金を引く。
放たれた炎はまっすぐに飛び――命綱を、焼き切った。
「あ……」
幽霊の身体が支えを失い、ふらりとパラシュートのように落下する。
もう、障害はない。
僕は、悠々と幽霊の目前まで歩み出た。
幽霊は、目の前に迫る僕を警戒して、距離を取ろうとする。
「そりゃ、不要か」
だが――彼女には足がなかった。
逃げ場など、最初からなかったのだ。
悠々とリロードしながら、ふと思い出すのは――進化論の話だった。
自殺という機能を獲得した人間。
そうして社会として生き延びてきた人間。
だから、もう首を吊って死んでしまった彼女には――この部屋に縛りつけられた彼女には、脚は必要なくなった。
環境に適応しすぎて、退化してしまったのだ。
そんな間違った進化論の話。
幽霊は、ゆっくりと、僕を見つめた。
空音先輩とそっくりの顔。
妄執と分かっていても、引き金を引くのは、ためらわれた。
せめて、その瞳の色だけでも覗きたいと――僕はわずかに、指を止める。
――そのときだった。
ふわり、と。
重力を無視するように、幽霊の身体が持ち上がる。
まるで月光に引かれるように、静かに、優雅に。
そして――僕を抱きしめた。
柔らかく、確かな腕だった。
空音先輩に、あの日抱きしめられたように。
「あなたは……死ななくちゃ、いけません」
耳元で、そっと囁かれる。
初めての、意味のある言葉。
その音が――意味として、僕の内側に侵入してくる。
鼓膜ではなく、脳に響く声。
内側から、肉体を揺らし、精神をざわつかせ、倫理を侵し、魂を誘う。
ここまでの言葉も、抵抗も、すべて――この距離まで近づくための罠だった。
その後の結末まで、確信に満ちた幽霊の顔。
その望み通り。
僕はリボルバーに取り付けたナイフを取り出し、
今度は、自分の喉元に――気道に、押し当てた。
けれど――
「そうやって、今井詩織も、メティスも殺したんだな。
“死ななければならない”、そう囁いて――」
「…!?」
その時――牡丹の炎が幽霊の体から咲いた。
迦楼羅炎。
妄執を焼き尽くすカルマ。
「あ、あ……ああ゛ぁあ゛あ゛ああ゛……!!」
気に障る哄笑ではない、腹の底から響く、絶叫。
その絶叫で部屋中のガラスが次々と割れていく。
「大げさだな」
燃えさかる幽霊を目にして、僕はただ呟く。
「心頭滅却すれば、なんとやらって言うだろ。
煩悩も何もかも捨て去っちまえば、熱くなんかない。」
僕にとっては何も感じない炎。
けれど妄執の塊である幽霊にとっては地獄の業火よりも苛烈らしい。
「お前急ぎすぎだよ。
人間何事も忍耐。
欲のまま動いたって良いことなんかありゃしない。
欲望を次から次へと叶えたって、幸せになんかなれっこない。
恋だって夢だって、人生の息抜きに過ぎないんだ。
気ままに、気長に追いかける程度が――」
その時だった。
僕の言葉をかき消すように、か細い声が割り込んできた。
「なんで…」
それは、焼け焦げた喉から絞り出すような、
今にも千切れそうな息の震えだった。
「なんで……!
あなたは死ななければならないのに、
死ななくちゃいけないのにぃ゛ッ!?」
声が、涙に濡れていた。
焼けていくというのに、それでも彼女の顔は、空音先輩のままだった。
壊れた認識で、歪んだ理屈で、なおも命を奪おうとしたその顔で。
けれどその悲鳴には、純粋な恐怖と、理解不能な絶望がにじんでいた。
「死ななければいけない…か…」
僕は頭をかいた。
話していいものか、迷ったからだ。
けれど、この部屋には僕と幽霊とメティスの死体だけしかいない。
だから、餞別として答えてやることにした。
「悪いな、その感情は昨夜、燃やしたんだ。
『あなた』を看取るために。
良い薪になったよ。」
幽霊の瞳孔が大きく開く。
死ぬ責務のない人間。
それはつまり社会から完全に外れた人間。
空気の生き物である幽霊にとって、僕はどうしようもない天敵だった。
「だから、もうあなたに共感はできない」
きっぱりとした決別の言葉。
幽霊が最後に縋るような眼を向けてくる。
助けて、と。
この炎を消してくれ、と。
生かしてくれ、と。
そこで僕は、初めて、幽霊の瞳の奥を見た。
その色は。
人間ではあり得ないほど、純粋で、透明だった。
人を殺してきたというのに、罪の翳りひとつない。
動物のような理性のない存在の瞳の色。
「やっぱり妄執か」
もう生かしておく意味はない。
せめて、何か口を開く前に、殺すのが慈悲だろう。
僕は幽霊の眉間に銃口を突き立てた。
「やめて…」
幽霊が懇願する。
「お願いします…」
空音先輩の顔で、声で。
「…死にたくない……」
…もう意味のない言葉はいらない……。
「今度こそ、さようなら。空音先輩」
引き金を引く。
あの日、ルキウス先輩にしたように。
やはり、銃声はなかった。
静かに、穿たれた炎が実体のない眉間を貫通して、彼女が風穴から消えていく。
…消えていく。
データの人間が霧散して消えていく。
そんな映画のワンシーンによく似ていた。
それを見届けて、僕は背を向けて、部屋を去ろうとする。
燃え尽きた跡には、灰も、何も残っていなかった。
彼女がここにいた痕跡すら。
学校に満ちた空気すら。
最期の絶叫で割れた窓から夜風が、そっと流れ込む。
なにもかもを、洗い流していく。
残されたのは、散乱した実験器具と、床に転がった金髪の少女の死体だけ。
貴方を看取るには――それは、やっぱり、少しだけ寂しくて。
「本当にさようなら、空音先輩」
せめて、残響くらいは。
残しておきたかったのだ。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
次回更新は明日の5月29日の18:00になります。
面白いと思っていただけたら、いいね、評価を頂けたら励みになります。
よろしくお願いします。




