15話 アナタが生きている世界
ひどく静かな朝だった。
白い天井を見つめながら、僕は静かに目を覚ました。
見知らぬ天井。消毒液の匂い。聞き覚えのない電子音。
——おかしい。僕はたしかに、死んだはずだった。
それだけは、確かに覚えていた。
やがて、僕の目覚めに気づいた看護師が、やわらかな声で何かを告げる。
「………車……轢かれ………」
違う。
僕はたしかに、腹に刃物を受けた。
けれど、熱も痛みも、どうしても思い出せない。
それを確かめるように右手に力を入れようとして——僕は、自分が何かを握っていることに気づいた。
「あ……」
ただ、右手に残る冷たい感触だけが、僕の罪の証明だった。
それで僕は悟った。
僕は、罪を犯した。
けれど、誰も覚えていない。
いや、違う。
きっと、罪そのものがこの世界から——消えてしまったのだ。
だから、それこそが僕の罪なのだ。
――それが、4月1日の僕の記憶。
「それじゃ、動かすから、じっとしていてね」
僕はまたあの日のように、白い天井を見つめていた。
横たわる僕に、部屋のスピーカーから声がかかる。
大人びた、落ち着いた声。
声の主は、ガラス越しの向こうの部屋から、じっとこちらを見守っている。
その声とともに、僕の乗っている台がゆっくりと動き出す。
まるでベルトコンベアのように、滑らかに。
やがて、それは視界に入ってきた。
白くて大きなドーナツホールのような穴――MRI。
僕の脳の悪いところを探し出す、大きなくぼみ。
けれど今の僕には、その穴がまったく別のものに見えていた。
木の根元にぽっかりと開いた、子供ひとりがすっぽり入るくらいの小さな穴。
あるいは、テーマパークの廃墟にぽつんと残された、暗いトンネル。
異世界へと子供を連れていってしまう境界。
そんな、誰もが一度は夢見る、あどけない物語の入り口。
けれどこの穴は、いつか――そんな夢さえも、解析してしまうのだろう。
1000億以上の神経細胞を分析して、不思議な体験も、イマジナリーフレンドも、無機質な言葉に置き換えてしまうのかもしれない。
「地獄は頭の中にあるんですよ」――ふと、そんな小説の一節が脳裏に浮かんだ。
もしも地獄が脳の中にあるのだとしたら。
いつか誰かが、僕の脳を覗き込んだとき——僕の記憶を、地獄と呼んでくれるだろうか。
僕の地獄を、ただの妄想と断じてくれるだろうか。
僕の罪を、測ることができるのだろうか。
◇◇◇
——気がつけば、世界はねじれていた。
何色ともつかない、歪んだ空間。
輪郭という輪郭がゆるやかに滲み、まるで現実の皮をかぶった夢のようだった。
ああ、これは夢だ。いつも通り、そう気づいた。
けれど、いつもの夢とは何かが違っていた。
——いつもそばにあったはずの死体が、今回は見当たらなかった。
そのかわりに、僕の目の前にはまったく違う光景が広がっていた。
まるで水の膜ごしに覗き見るように、向こう側の世界はぼんやりと揺れている。
はっきりとは見えない。けれど、どこなのかはすぐに分かった。
オカルト研究部の部室。
旧校舎の、今では使われなくなった化学準備室だ。
準備室としてはそこそこ広い。けれど、そうは感じられない。
部屋の中に物が多すぎるせいだ。
棚に入りきらなかった理科実験器具たちが、段ボールとして部屋に積み重ねられている。
通路にはみ出すように並べられた棚には、無数の雑誌や書籍が積まれていた。
ネッシー、幽霊、予言、心霊写真——そんな言葉が表紙に踊る、古びたオカルト雑誌や専門書。
埃を被ったウィジャ盤。
内臓の一部を失った人体模型。
部屋の明かりを落とせば、きっとそこは即席のお化け屋敷になるだろう。
その奇妙な空間に、二人の少年がいた。
一人は金色の髪をした少年。
メティスよりもわずかに色の濃い金髪。
顔立ちは声に出すまでもなくわかるほど整っていて、澄んだ碧い瞳が印象的だった。
もう一人の少年は背を向けていた。
顔は見えない。けれど、黒髪のその後ろ姿に、僕はなんとなく察していた。
あれは——僕だ。
二人のあいだに、ゆらりと湯気が立っている。
三脚に置かれたビーカーから、アルコールランプの炎でお湯が沸いていた。
その傍らには、どこかで見覚えのある、自前のマグカップ。
コーヒーの匂いが、水の膜越しに、かすかに鼻先をくすぐった。
「罪ですか」
「そう、真為もわかってきたじゃないか」
——遠く、ガラスを隔てたような声だった。
かすれたその響きに、僕は覚えがあった。
何度となく夢で繰り返された、あの会話。
けれど今回は違う。僕はその場にいるのではなく、どこか別の空間からそれを聴いていた。
「罪はぼく達に共通するただ唯一のものだ。
あらゆる神話、宗教、哲学、形や解釈は違ったとしても同じだ。誰もがそれを抱えていると語りかけてくる。
目には見えない魂がもしも罪の形をとっているのだとしたら。
生まれながらにしてぼく達がそれを背負っているというのなら、なぜそんなものが必要だったのだと思う?」
随分と胡散臭い問いだ、と思った。
街角での宗教勧誘と何も変わらない。
「あなたには罪があります」なんて。
でも今の僕には、少しだけ、その言葉の意味がわかる気がしていた。
――倫理が、魂のかたちを模していると知った今なら
僕が口を挟むこともなく、彼らの会話は続いていく。
「ぼくはね、罪は人間が生きるのに必要な機能だったんじゃないかって思うんだ。」
「…機能ですか?」
「そう、簡単に言えば、生きる理由だね。罪を償うという人生の指向性だよ。」
隣人を大切にしましょう。
情けは人のためならず。
そんな風に、倫理は人間に生きる方向を与えてくれる。
たとえばキリスト教では、人間は原罪を背負って生まれる。
それを償い、救われ、永遠の国に至る——それが幸福だとされる。
「ぼく達には、生きる理由が必要だ。
自他を分ける、高度に発達した自我。
それはどうしても、自分だけの意味を欲しがってしまう」
金髪の少年は静かに語り続ける。
その声音には、どこか遠くを見つめるような冷静さがあった。
「今の社会では、それに事欠かない。
夢、キャリア、自己実現……。
なりたい自分を見つけることが、当然のように求められている」
「たしかに、そうですね。でも、それはいつからだったんでしょう?」
「まあ、産業革命以降かな」
金髪の少年のつぶやきで、突然、話は現実味を帯びた。
「法によって個人の権利が保障されるのと、経済的な豊かさが両立した時代だ。
仕事を目当てに都市には人口が溢れかえっていたそうだよ。
まあ、それを境に、自殺は増えてしまったんだが。
社会学者のデュルケムは言っていたよ。
アノミー——理想になれなかったとき、人は空虚に耐えられなくなるんだ」
人間の精神は、ほんとうに矛盾してる。
そう言いながら金髪の少年は可笑しそうに笑った。
それにつられるように「僕」も楽しそうに笑っていた。
水の膜ごしに二人の笑い声が僕に届いてくる。
「でも昔は違った。
誰もが神を心に抱かねばならなかった時代では自分らしさなんて求められなかったんだ」
言葉を知らなくても。
未来が分からなくても。
無知蒙昧でも、ただ存在することが赦されていた。
「神と、そして——罪悪感が、心の中にありさえすればね」
「……つまり、罪とは、人間が進化の過程で獲得したかたちだと?」
「その通り」
『僕』の答えに金髪の少年は微笑んだ。
「人間の進化とは、社会——つまり人と人との関係性を変化させることによって進められてきた。
贖罪という構造のもと、平等で公平な人生という理想を、最低限のかたちで支えてきた。
罪の概念は、社会が保証した、倫理的な福祉だったんだ」
初めに、すべての人が持っている共通の価値があった。
神、そして罪。
身分が違っても、地域が多少異なっていても、誰もが罪人で、同時に神の子だった。
生まれながらにして植え付けられた罪という種。
最初にそれを刺激されるのは、幼い頃。
子供のうちはわからない。
けれど、叱られたり、窘められたりすると、申し訳なさが芽生える。
それは、生物的な反応だった。
そして子供は成長して、自我が芽生えてからはそこから少しずつアップグレードされていく。
いろんな経験をして、言葉を覚えて、神様の言葉を聞いたり、読んだりする。
いつの日か、申し訳なさは『罪悪感』という言葉の形を得た。
魂は肉体に属し、精神にフィードバックを受け、倫理によって外形を模られる。
魂とは、ぼく達の内面に組み込まれた、人間という種のためのソフトウェアなんだろう。
だから――
「誰に許されるわけでもなく、ぼく達は『在るために、在らなければならない理由』として、罪を背負ったんだ。
つまり、罪が人間のかたちを規定しているんじゃないかな。——イデアとしての、人間をさ」
しばし沈黙があった。
金髪の少年は、マグカップに一口だけ口をつけた。
そして、カップをそっと置いて、目を細めた。
「ねえ、真為。君の罪はなんだい?」
碧い瞳が『僕』を見つめていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
次回更新は明日の5月24日の18:00になります。
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