碌な目に合わない
安蘭樹さんはローテーブルに教材を広げると、深々と頭を下げた。
「それじゃーくうちん、よろしくお願いしますー」
「さっさと終わらせて帰るから」
教科書を使って軽く解説したあと、ワークを解かせる。分からないところや間違っているところがあれば詳しく解説する。
そんな塾講の代わりをひたすら果たしていく。
一時間程経った頃、私の背中に衝撃が走った。
「あそぼー!」
妹ちゃんが私めがけて体当たりしてきた。
安蘭樹さんはお茶も出さないのかと常識を疑っていたが、今身に染みて理由を悟った。
もし今ここに飲み物があろうものなら、机の上に広げられている紙たちは皆犠牲になっていた。
「はるちゃん! くうちん怪我するでしょー!」
「ねーねばっかりずるい! はるも遊ぶ!」
「ねーね達は勉強しているから遊んでないのー!」
「いやー! あーそーぶーのー!」
「はるちゃん! 迷惑でしょ!」
割と本気で叱っている安蘭樹さんの表情と声色で一瞬静かになったと思いきや、何倍にも膨れ上がって帰ってきた嘆きが私の鼓膜に襲いかかった。
「やーーーーー‼︎‼︎ あーそーぶーのーーーーーー‼︎‼︎ ゔぇーーーーーーーーん‼︎‼︎」
「はるちゃん静かに! くうちんの鼓膜破れちゃう!」
「やだやだやだーーーーーーー‼︎‼︎」
床に横になり、手と足を見境なく振り回している。
ドタドタと大きな音が振動と共に部屋に響き、時折重い一撃が私の背に入る。
「はるちゃん! ねーね本気で怒るよ!」
安蘭樹さんが何を言っても、怪獣の鳴き声のような甲高い悲鳴が返ってくるだけだった。
私はそっと机の上の物を片付け、鞄を手に立ち上がる。
「帰る」
それだけ言って、私は玄関に向かう。
「ごめんね。今日はありがとう〜」
廊下へのドアを開けて、着実に玄関に近づいていく。
靴を履いてドアに手を掛けると、足に重みを感じた。
「私もう帰るから」
「かえっちゃやー」
「帰るよ」
「やー」
「ここに残る理由がない」
「いっしょあそんで。はるいい子にするから。おねがい」
これが赤の他人のクソガキなら問答無用で振り払うけれど、流石にこんな狭い空間で家族もいるとなったら、万が一怪我をさせた時が怖いから何もできない。
「何で遊びたいの?」
「おともだちになったらまたきてくれる」
いやならんけど。ここでそれ言うとまた第二波がきそう。
「騒がない?」
「ない」
「暴れない?」
「ない」
「待てる?」
「る」
「分かった」
言っている意味はよく分からないけれど、私が折れない限りは一生このままな気がするから、仕方なく折れた。
あと、これ以上スカートを汚されたくない。
◇◆◇◆◇
妹ちゃんの涙と鼻水によって汚されたスカートが洗濯されている間は、中学時代のジャージを借りることになった。
身長差あるのにサイズ合うのがムカつく。
「ごめんねくうちん。はるちゃんがわがまま言って」
「ほんと、クソ迷惑」
「本当にごめんなさい」
安蘭樹さんはあからさまに落ち込んでいた。
珍しく溜息を吐いて、肩を落としている。
「普段のはるちゃんはね〜あそこまで酷くないんだよ。たしかに我儘言うけど〜無理ってはっきり言うと諦めてくれるの。もしかしたらね〜、ゆーゆ普段帰ったらすぐ家事とかやってはるちゃんの面倒見れないから〜、くうちんに期待していたのかもしれない。自分と遊んでくれるって」
「親はやらないの?」
「パパもママも〜去年からおばあちゃんの介護で家に帰ってこないの。おばあちゃん事故にあってから〜体の自由があまり効かなくてね〜。リハビリのおかげで少しずつ良くはなっているらしいけど〜、やっぱりまだおじいちゃんと二人にするのは心配でね〜。だからお姉ちゃんであるゆーゆがやるしかないの」
きっとこれが安蘭樹さんが絶対補習できない理由。
補習を受けると、一限増えるのと同等。
妹ちゃんを悲しませるというのも本音だろうが、それ以上に約一時間の差は安蘭樹さんにとって普通の人に比べてかなり大きいだろう。
だからと言ってなぜ私が安蘭樹さんの為にこうして動いて、挙げ句の果てにスカートを汚されないといけないのやら。




