馬鹿でコミュ障
今日は朝から落ち着かず、いつもより早く散歩に出かけ、いつもより遠くまで歩いていく。
気づけば一時間歩いていた。
いつもなら帰宅しているお散歩時間。それが片道でこの時間。
近くの公園に入ったものの、月餅は疲れて私の側にぴったりとくっついている。
最近は暑くなってきた。昼に近づけば近づくほど、私の体力も削がれてしまう。
月餅におやつと水をあげた後、ドッグスキャリングに入れて、今度は私の歩幅で帰路に着く。
「ただいま〜」
返事は返ってこない。
お母さんは仕事だけれど、お姉がいるはず。
けど、無言ということはお姉も遊びに行っているのだろう。
「……あれ?」
これってチャンスなのでは? お姉もお母さんもいないということは、私が逃げてもバレない!
そう思うと、月餅の世話により一層拍車がかかる。
るんるんでお昼寝したのを見守って、餌と水を置いたらすぐにサングラスを顔に掛けて外に──。
「お出迎えなんて珍しいね、花恋。そんな暇があるってことは、お客様をもてなす準備が出来ているってことだよね」
車の鍵を持ち、後ろに氷冬さんを連れたお姉が、影掛かった微笑みを浮かべていた。
「ちょっとケーキを買いに」
「今一緒に買ってきたから大丈夫だよ」
お姉は私にケーキの箱を持たせ、氷冬さんと共に中に入り、鍵を閉めた。
夜にしか掛けないドアガードまで掛けて。
「お邪魔します」
「ゆっくりしていってね」
こっちの気などお構いなしに、氷冬さんはお姉についてリビングまで入っていく。
「花恋、いつまでそこにいるの。早く来なよ」
私はさっきとは逆で、重い足取りでリビングへと戻った。
「じゃあ花恋、あとはよろしく」
「え、なんで?」
「課題やばいから友達に手伝ってもらうの。二人仲良くね。くれぐれも氷冬ちゃんに迷惑かけないように」
「もうここまできたら受け入れるよ」
お姉は私の頭を軽く叩く。
「氷冬ちゃんは良い子だから大丈夫だよ。絶対さっさと帰らせたりしないように。──氷冬ちゃん、分からないことあったら遠慮なく花恋に聞いてね」
「分かりました」
「それじゃあ、楽しんでね」
お姉は車の鍵を置いて、笑顔で外へと出た。
一番うるさいのがいなくなり、家は静寂に包まれた。
「花恋」
「何?」
「手、どこで洗えばいい?」
面倒くさいながらも、渋々氷冬さんに家の中を案内した。
「大きい家だね」
「まあ大きい方だろうね。ほら、さっさと手洗って。あまり汚い手でうろうろしないで」
氷冬さんが手を洗っている間、私は少し遅いお昼ご飯を食べる。
「花恋の手作り?」
「冷凍食品」
「作らないんだ」
「満たせれば良い」
氷冬さんは私の前のイスに座って、静かにこちらを見ていた。
「美味しい?」
「別に」
「食べさせようか?」
その呆れた言葉に、思わず手を止めた。
「はあ?」
「お兄ちゃんが、私と一緒に食べると美味しくなるって言ってた」
「私は一人で食べる方が美味しい」
氷冬さん、お兄さんがいたんだ。そういえば氷冬さんのことあまり知らない。
顔と名前とお弁当くらいかもしれない。
天乃さんと安蘭樹さんもそういえば何も知らない。
安蘭樹さんに弟と妹がいることは知っているけど、それだけだ。
天乃さんに関しては一緒に出かけた身ではあるけど知らないな〜。
むしろ私の方が情報を与えている気がする。
なんかそれは──
「癪だな〜」
「どうしたの?」
「氷冬さんは私の家族構成も家も得意も知っているのに、私は氷冬さんの事何も知らない。私が握っている氷冬さんの情報より、氷冬さんが握っている私の情報の方が多いのが気に食わない」
氷冬さんはしばらく黙った後、口を開いた。
「私はお兄ちゃんと二人でアパート暮らしだよ。お父さんが死んだから、高校の進学が決まった時を機に、電車一本で通えるように引っ越してくれたの。得意な事はないよ。私、人の事も分からないけど、自分のことも分からない」
日常アニメだと思ったらゴリゴリのホラーサスペンスアニメだった気分だ。
氷冬さんのことだから多少は話すと思っていたけれど、馬鹿正直に全部話すなんて思わなかった。
やっぱり私はまだ彼女らを理解できていない。
「逆に自分のことで何を知っているの?」
「可愛い事」
話を振ってしまった以上、少しはこの空気をましに変えてあげようとした私の気遣いを返せ。
「自意識過剰でよろしいことで」
「私、可愛いとかよく分からないけど、お父さんが最後にそう言ってくれたから。だから私は可愛いんだって思えるの」
紡がれる言葉全てが重くて、口下手で言葉足らずな部分に正直救われている。
あまり重い空気にされると、私はもうお手上げになる。
「ねえ、花恋」
「何? 私は気の利いたこと言えないから慰めとか期待しないでよ」
「花恋は私の事可愛いと思う?」
「私が空気を読んで可愛いって答えると思ってんの?」
「可愛くない?」
「何とも思わない」
止まっていた手を動かして、私は食事を再開する。
「花恋は可愛いって思うことあるの?」
「月餅」
氷冬さんはようやく私から視線を外し、月餅に目を向けた。
「花恋にとっての可愛いって何?」
寝ている月餅を見ながら、氷冬さんは意味の分からない質問を投げかけた。
「何? 哲学?」
「私、色んな人から可愛いとか綺麗って言われてきた。綺麗は部屋が綺麗とかで使うから、なんとなく整っていることなんだって分かるけど、可愛いって他の人や物にも使うでしょ。可愛いにも種類があることは分かるけど、結局私は可愛いがよく分からない」
「知るか馬鹿」
前々から氷冬さんは天乃さんや安蘭樹さんとは別ベクトルで友達ができない人間だと理解していたけど、正直ここまでとは思えなかった。
氷冬さんは根本的にコミュニケーションの経験が無さすぎるのだろう。
人と関わる事で何となく説明を受けずとも意味が通る言葉も、氷冬さんは関わってこなかったから、人々が感覚で使っている言葉に意図を求めてしまう。
つまり簡潔にまとめると、氷冬さんはある種のコミュ障ということになる。
「花恋は月餅ちゃんの何に対して可愛いと思うの?」
「全て」
一応答えたけど、氷冬さんの表情を見るに納得いっていないようだ。
「はぁ、月餅は私が大好きで、私もそんな月餅と一緒にいると楽しいし癒されるから可愛いと思うの」
「じゃあ、私も花恋の事大好きだと可愛い?」
「はぁ? んなわけないでしょ。だとしたら私は出会う人全員可愛いと思うってことじゃん。違うに決まってるでしょ馬鹿」
「よく分からない」
「私だって知らないよ。可愛いは感情だから。もう好きだから可愛いんじゃないの? 私は月餅の事好きだから。少なくとも、好意的に思わない相手や物に対して可愛いなんて言葉は出ないよ」
「じゃあ──」
氷冬さんは再び私の顔を見るどころか少し近づいた。
「花恋が私のこと好きになれば、花恋は私を可愛いと思う?」
「まあ、それは否定できない」
「そっか。じゃあ、花恋が私を好きになるよう頑張る」
「そ、頑張れ。無駄な努力だけど」
「うん。花恋の可愛い欲しい。それに、花恋と友達になりたい」
真顔でそんなこと言われると何とも言えない気持ちになる。
氷冬さんはコミュニケーション力はもちろんだけど、もう少し表情を豊かにするという事を覚えた方が良いと思う。
それにしても、ただのコミュ障が顔の良さだけで様をつけられるほど神格化されるのも随分なものだ。
「あのさ、笑ってみて」
「……笑う?」
「そう」
「笑う……。こ、こう?」
右側だけ不自然に上げた口角。目も眉もそのままで、笑うというより奥歯に挟まったものを取ろうとしているような、とても笑顔とはいえない顔。
「変なの」
顔を下向けた私の視界に入るよう、氷冬さんは指を伸ばした。
「花恋笑ってみて」
「笑わないよ。笑うことがないから」
「ずるい」
「そうだよ」