4話 才能がなければ、拳で殴ればいいじゃない
おじいのタバコ店の上はボクシングジムだった。フィットネスコース的なのもあって、女性でも入会しやすいジムだ。りりは、雨に濡れた鉄の階段をパオンパオンと上り、ふんすと勢いを付けてジムの扉を開く。
店内に入った途端にパーンと脳みそがはじけ飛んだみたいな音が鳴って、りりはびっくりする。
中央にあるリングではスパーリングが行われていた。
「あ、りりちゃん。よくきた」
細身のラーメンハゲみたいなメガネ坊主おじがりりに話かける。
「びっくりした。ハゲしいんだね」
「ん、あれだろ。うちの期待のルーキーだ」
このジムの人たちは、おじいの店の常連だから、りりのことも知っている。というか間接的に彼らを接客していたのがりりだ。おじいが死んで縁が切れるかとも思っていたが、りりは彼らに頼ることになった。
「おい直也、ちょっとこい」
坊主おじは、リングから出て水分を補給している男の子を呼ぶ。直也と呼ばれた彼は振り返ると、爽やかな好青年のようだった。りりからしたらお兄さんくらいの年齢に見える。イケメンだが、そこに魅力を感じることはない。りりの心は男の子だ。
「なんすか」
「この子。強くなりたいらしい」
「フィットネス系じゃなくて?」
直也がりりを見ると、りりは何度も頷いた。
「なんで?」
「ボコしたい相手がいるんだよ」
「ああ、そう」
直也はりりが格闘技を始めるキッカケをくだらない理由だと思った。
しかし正しい暴力を習う理由が、痩せたいとかモテたいとかよりは健全かと目の前の女の子を見て思う。
ここのジムに通う多くの女性がべつに殴る練習をしなくとも達成できる目標だった。
わざわざ暴力を習う必要はない。
でも、りりにはその必要があった。
「ということで直也、この子はお前の生徒だ」
「え、俺が教えるの?」
「りりといいます」
自己紹介をされて苦い顔になる。すごい面倒くさい。
りりは頭を下げたから、つむじが丸見えだった。
男の子の心を持ったりりにとってつむじが相手に見えるのは、パンツが見えるのよりも恥ずかしいことだった。つまり、りりが頭を下げるというのは稀であり、彼女のつむじは宝石よりも価値があった。
「そんな嫌だなって顔しないで」
「敬語」
「ください」
直也はいちおうトレーナーとしての役割を引き受けた。このジムに所属している以上はこういうのもやらないといけない。
ということで、直也によるりりのトレーニングが始まった。
ジムの端っこで二人は向かい合う。
「はい、これ」
「これは?」
「なわとび。とりあえず200回跳んで。終わったら外走ってこい」
りりはなわとびを受け取った。直也が持ってきたなわとびが黄緑なのが、なぜかムカつく。そこはピンクか、逆に黒だろう。黄緑のなわとびなんて、微妙だ。
「私、はやぶさできますけど?」
「……普通に200回跳べ」
「なんだよ。なわとびで強くなるなら、なわとびを極めます」
「……」
直也はイライラしたので、りりの右肩を蹴った。
いきなりのハイキックでりりはビクンと飛び跳ねる。
それから、脱兎のごとく外へ飛び出した。
直也は「ふん、逃げたか」とそれからりりに興味をなくしてストレッチを始めた。
しばらくして、ジムの扉が開かれる。
汗だくのりりが肩で呼吸をしながら立っていた。
「なんだ、逃げたんじゃなかったのか」
直也は本日の一連の流れを終えていた。ジャージに着替えて、プロテインを飲んでいたところに、りりが帰って来た。
「先に走ってきたのか。ほら、じゃあなわとびだ」
「なわとびを跳びながら、走ってきてやりました。走り跳びってやつです。もちろん200回は余裕で跳んで来ました。さっさと強くしてください」
「さっさとは強くならない」
直也はプロテインを置いた。ココア味の色だった。
りりに向かってグローブを投げる。りりは首を傾げた。
「それをはめて、リングに上がれ。好きなだけ俺を殴っていい」
直也はミットを両手にハメて、リングに上がる。
「うっす」
りりもそれに続いた。
リングに上がって、ファイティングポーズを取る。
「ミット撃ちだ。本来はミットを構えたところに撃ち込むけど、俺はミットを構えない」
「? じゃあどうするの」
「好きにかかってこい」
直也が両手のミットをパンと鳴らすと、りりは牛になった。
勢いよく接近して、直也に向かって連続パンチを繰り出す。りりのグーパンが来たところに、直也はミットを出して防いだ。これじゃあ、逆ミット撃ちだ。
「金的は狙うな」
りりは執拗に下半身を狙った。
顔、金玉、顔、金玉の順番だ。
ぶん、ぶん、とパンチを振り回すが、やがて疲れて勢いがなくなる。
縄跳びしながらウサギのように町を走ったのだ。足がガクガクしてしょうがない。
汗と疲れで朦朧とする視界の中で、余裕そうな表情の直也を見ていると、自分の身体が女であることを改めて認識させられる。
格闘技には男女の差みたいなのがあって、
「音楽にはなし、と」
口をパクパクさせて、りりは倒れた。
泡を吹いている姿は蟹みたいだった。
◇◇◇
直也は14でタバコを始めた。先輩や友人との付き合いだったり、後輩への面子だったりで仕方がなく一本目を口に咥えた。直也の口はいつも寂しかったからちょうど良かった。自分が中毒であることに自覚はなく、今も何気なくジムの外で、タバコを吸っている。都合の良いことに、ジムがある建物の一回は、タバコ屋さんだった。
直也はベンチに座って煙を吐く。秋は深まっていた。雪が降るような地域ではない。紅葉を終えた木々が落ち葉を散らす。ガヨン、ガヨンと鉄の階段が鳴る音がする。誰かが降りてきているようだが、直也は気にしない。
「え、何歳だっけ」
天使のような声が聞こえてくる。
直也が目線を向けると、驚いた顔のりりがいた。普段は敬語が外れる。
「17」
「身体に悪いよ。弱くなる」
「20になったらやめるから」
「逆じゃん。いいね」
りりは笑顔になった。
「ちょっと待ってて」
りりは直也の前を通り過ぎて、店の中に入って行く。りりが残した空気を通って、一枚の葉っぱがユラユラ落ちる。金に色づいた大きな葉。冷えたアスファルトに着地して、ポツンと一人。
直也はまたタバコを咥えた。
「おまたせ」
りりがその手に持っていたのは、銀のトレイ。その上には、マッチ、シガーカッター、そして葉巻。直也の隣に詰めて座ると、口に咥えた紙巻きタバコを二本の指ではさみ盗り、ポイッと捨てた。
くちゅくちゅと口の中で唾を集めて、アスファルトの上に転がったタバコに吐き飛ばす。
火の消えたタバコの隣には、落ち葉。これでもう寂しくはない。
「よくない」
直也はそう思って、声にも漏れる。
「本質を見るんだよ」
りりはトレイの上で葉巻をカットする。先端がポトンと落ちる。まるで落葉のようだ。器用に指で持ち替えて、マッチを取り出し、摩擦で火を付ける。葉巻の切り口にマッチの火を当てて、クルクルと回しながら引火させる。
「こっちを見て」
直也はりりの本質を見た。
「咥えて」
りりは大人だった。それに今まで気が付かなかったのは、直也が大人の女性を知っているから。少なくともりりは直也が知っている大人な女性ではなかったのだ。りりの見た目は大人ではない。だけど本質は大人だ。しかも直也が兄貴と思えるような。
直也にはりりの本質が女の子とは真逆にあるように感じた。
りりには直也のような男の子の気持ちが手に取るように分かるから、弟のようにかわいがってしまう。
「口の中に煙が溜まるでしょ。肺に入れないで、舌で転がすの。口内の上の方に押し付けて、鼻から抜くように煙を吐いてみて」
従順に舌を動かす。
煙が抜けていく。
「葉巻なら、そこまで身体に悪いわけじゃないから」
新しい煙を口に入れる。
自分が中毒であることを自覚した。
舌で転がす。
まるでディープキスみたいだと思った。