プロローグ
クマノミは一番大きなオスがメスに変身するという。
教室の椅子に座って読んだ図鑑に書かれていた。
その頃のことを僕は鮮明に覚えていた。
隣の席のたかし君はいじめられていた。隣の席になって気づいたことだ。彼はいじめられているのに平然としているから、僕は気になって仕方がなかった。もしかしたら、平気な顔をしているが、内心は限界なのかもしれない。そう思うと、話かけずにはいられなかった。
「助けようか?」
その言葉はあんまり適切ではなかったと思うけど、いじめられている子に話かけるときの語彙力は、これだけしか持ち合わせていなかった。僕は生き物図鑑程度の語彙力しか持ち合わせていないから、助けたいと思ったら、助けようかと尋ねるしかなかった。
この学校というのが、小学校でも中学校でも高校でも関係はない。小さな空間にいろんな人間が集まれば、いじめが存在した。その小さな空間というのが、木造だとしても、鉄筋コンクリートでも、それも関係はない。人間というのも、関係はないかもしれない。クマノミでもイソギンチャクの中でいじめがある。図鑑には載っていないことだ。
「大丈夫」
たかしからは感謝された。助けは必要ないと、笑顔で僕を安心させた。
彼には自信と余裕があった。
何か一つを極めていたから。
いじめられているたかしよりも、それを見ているだけの僕の方が不安になっていた。
たかしは冴えたやり方を知っているようで、僕は不安を解消しようとそのやり方を見ていた。やり方というのは、思ったよりも単純で、しかし簡単ではなかった。どうやら、たかしはいじめが発生した空間で、つまりクラスで一番足が速いらしい。
「そんなことで?」
納得は風だった。体育の徒競走で、僕の目の前をたかしが通り過ぎた。すれ違うときに、風が吹いた。その風から少し遅れて、たかしをいじめていた子たちが後塵を拝する。砂埃が舞っていた。つまり敗北は砂だった。その砂が収まるころには、いじめも消えてなくなっていた。
僕の名前を仮に、りりおとしよう。
たかしの幼馴染の名前が、みさき。
「つまり、何か一つを極めるべきってことね」
みさきは美人で聡明だった。クラスのマドンナでもあった。男子からも人気だった。たかしがいじめられていたのは、嫉妬だろう。
「でもそんなのはつまらないじゃない? 私は何か一つを極めることよりも、色んなことをやってみたいけど」
幼馴染というのは運だ。
ただの運でみさきと仲が良いという妬みや嫉み、不正に幸せになっているという思いからくる歪んだ正義感が、いじめの原因だった。
だが、たかしは証明した。
クラスで一番かわいい女の子に相応しいのは、クラスで一番足の速い男の子だろう。
いじめっ子も認めざるを得ない。
「ピアノもダンスもお習字も、楽しかった。走るなんていつでもできるよ」
このときの僕に、りりおにみさきの話はどうでもよかった。
とにかく、今はたかしの話。何か一つを極めるとして、どうしてたかしは足の速さを選んだのか。自分が極めるべき、何か一つの見つけ方。
まあ、みさきの話も正しいのだけど、それに気づくのは死んだあと。
「たかしの足が速いのは、お父さんが陸上選手だからだろうね。走ることが身近だったから。でも、昔は私の方が速かったんだよ。たかしはいつも私の後ろを走ってた。なんでもそう。遊びも勉強も運動もたかしは私の後ろ。でも、走るのだけは越されちゃった。いつか身長も越されるのかな?」
「男が高い方がいいだろ」
「違うよ。キスする方が高いの。される方が低いの」
みさきの考えは、りりおにはよくわからなかった。
今ではよく分かる。
僕の実家は楽器屋さんを営んでいた。商店街に近い駅の東口付近にあり、その二階が僕の自宅だった。父親と母親、それと妹のハルカで四人家族。裕福でも貧困でもない一般家庭で生まれ育った。
その時点で二択。
音楽を極めるか、経営を極めるか。
今思えば少し視野が狭い。しかし、仕方ない。みさきから聞いたたかしの例しか知らなかったのだ。もし、やり直すなら、そうだな、歌詞を書くのが得意だという話があったから、小説かにでもなっていただろうか。でも、この時点で歌詞を書く才能に気づくはずもないし、結局は二択。だから、仕方がない。
「それなら音楽を極めた方が良い。そして音楽を極めたらスターだ」
「そのつもりだよ」
ポスターを壁に貼り付け、ついでに笑みも顔に貼り付けながら、バイトの若い男がアドバイスをする。彼に言われるまでもなく音楽を選んでいた。彼に話した今までの経緯はただの雑談だ。
そもそも僕は音楽が好きだった。
「音楽といっても色々だから。何を極めるかが問題だ」
四面を楽器に囲まれていた。
悩んでいるのは何の楽器を極めるか。ジャズを極めるロックを極めるではなく、ギターやベースやピアノ。音楽の最小単位から選択していく。何か一つというのはそういうことだ。
「岐路に立っている」
椅子に座っていた。
「思考に囚われるのはよくない。ここは流れに身を任せたらどうだ。足が速いというのは思考の結果ではないはずだから。それの真似だろ?」
「なるほど。いい方法はある?」
バイトの男はエプロンの前ポケットから風船ガムを取り出した。
悩んでいるりりおの手のひらに置く。
小さな箱。
ブドウの絵。
「これは?」
「わらしべ長者。要は物々交換だ。何か楽器に行き着くまで、そのガムを交換し続けろ」
「たどりついた楽器が、僕が極めるべき楽器」
「そのとおり」
「ありがとう。目途が立ったよ」
やっぱり、椅子に座っていた。
バイトの笑顔がさらに笑って、歪んでいるように見えた。
バイトの男というのは、このときから、僕のような視点で、りりおにアドバイスをしていたのだろう。悪いイヌだ。
「いや。気にしないでくれ。これは僕が音楽の神様になる第一歩だから」
◇◇◇
数年で急速に知名度を上げた日本発祥のロックバンド『バブルガムフェロー』は、半年間の海外ツアーの最後に日本のロックフェスを選択した。彼らの楽曲は評価され、しかしサブスク文化やタイアップを積極的に肯定するような姿はロックとはかけ離れていると批評され、そしてその最後は紛れもなくロックだと言われるような悲劇的な伝説を残して解散することになる。
「久しぶり」
みさきは男に声をかけた。店に着くと男は先にバーのカウンターに座って、タバコの灰を皿に落としていた。声に反応して振り返る男の顔の懐かしさにみさきは笑った。男も同じことを思ったのだろう、気まずそうな顔でやっぱり笑った。
男はりりおだった。つまりは僕だった。
「変わってない」
「変わったよ。たかしに身長は越されたかな」
みさきはりりおの隣に座り、お酒を注文する。
その横顔はずいぶんと大人の魅力にあふれていた。でも、年齢で言えば、お酒を飲めるようになったばかりの頃だったはずだ。
「べつに中学の途中からたかしの方が高かっただろ」
「やぼね。みんな変わったわ。変わってないのは君だけ」
「僕は変わらないよ」
「変わった方がいい。何か一つを極めるんじゃなくて、色んなことを経験した方がいい」
その言葉を聞いてやっぱりみさきも変わってないじゃないかと思ったが、またやぼだと言われるからその思いは酒と一緒に飲み込んだ。
「それなら僕はどう変わるべき?」
「何事も反対のことを考えるの」
「ふーん。じゃあ、ギターならベースかな」
「そうだね。男の子なら、女の子」
クマノミかよ。
みさきはカウンターに置かれたお酒を一口飲んだ。どうやらアルコールにはそれほど強くはないようで、目をギュッとしぼめた後、カッと熱くなる顔を綺麗な手で扇いで、それから小さく口を開いた。
「たかしと結婚することになった」
「そう」
「結婚式には来てくれる? 演奏してよ」
僕は小さく頷いた。
何かを歓迎するかのように、雨が激しく振っていた。テントの外で座っていた僕の口に、咥えられたタバコの先端に、雨粒が落ちた。ジュワっと煙が昇り、火が消える。消えたその火は何の火だ。僕は立ち上がった。
「いくよ」
テントの中を歩いた。濡れていたけど、どうでもよかった。ガタガタと椅子が鳴り、僕の後ろをメンバーが追う。リーダーってわけじゃないけど、みんな情けないおっさんだから、若い僕が引っ張ってあげないといけない。
階段を進み、脇からステージに上がる。冷ややかな雨が、風に乗ってステージに落ちる。落ちる雨に逆らいながら手を挙げるファンを見ると、ドロッとした興奮に身体が包まれ、僕が左手を挙げると、雨を弾き飛ばす轟音が響き、会場を囲っていた木々を揺らしたが、それに満足することはしない。
ステージに置かれていた白と黒のストラトキャスターを手に取った。
「雨のリズムと、鼓動のテンポが混じるな」
ボーカルの男が、ギターを肩にかけながら、マイクに声を漏らす。彼の集中は自分に酔うことだった。シラフなら恥ずかしいやたらとポエミーな言葉が口から出たら、彼の場合は絶好調。
それに、この場にシラけたやつはいない。
楽器よりも先に、歓声が鳴った。ドラムがスネアを叩くと、表面に溜まっていた雨が弾ける。
マイクパフォーマンスをしながら踵でステージを叩く。言葉に詰まると横顔を見せる。僕と目が合う。言いたいことが見つかって正面を向く。それを繰り返していくと、だんだんドラムと合わさって、呼吸が一体となり、息を吸う音で、客が息を呑む。全ての音が一瞬止まり、雨が止み、やがて土砂降りになった。
「バブルガムフェロー」
その掛け声で演奏が始まった。
バブルガムフェローのメンバーは四人。構成はギターボーカル、ベース、ギター、ドラムだ。ツアーにはサポートメンバーとして、ストリングスやキーボードも参加していたが、正規メンバーは四人。三人はもうおじさんの年齢で、僕だけが若い。
大人に混じってタバコが吸えないのが悔しくて、僕は代わりにガムを噛んだ。大人たちが煙を吐くのと同時に、僕もガムに息を吹き込んで、唇の上で風船にした。二十歳になって、初めてタバコを吸ったとき、情けなく咳き込んでしまったが、そのくらいの頃から自分のギターが極まっている感覚があった。
そして今日の演奏で、確信した。
僕のギターは極まっている。
これ以上はない。
会場に流れている異常なまでの興奮。傑作している音楽性。その場にいた全員が熱狂する音楽の中、僕のタバコの火を雨が消した。その火は、僕の心の熱でもあった。
「なんか、違うな」
その感覚が、トリガーだった。
記憶をさかのぼるような感覚になっていた。
ギターを極めるだけ。色んなことをしていないから、それも短く、薄く、早い。
白と黒のストラトキャスタ―。
わらしべ長者が逆走して、ある一つの地点に辿り着く。
風船ガム。
そこは実家の楽器屋さんで、一人の若い男がいた。
目の前に。
その男は銃を構えていた。
すでに引き金は引かれていた。
音楽にかき消された数回の銃声と共に、視界が白く飛ぶ。
膝から崩れて、うなだれ、白くモヤがかかった視界に鮮やかに流れた赤が光る。
地面とキスしたギターには弾痕が刻まれていた。
僕は死んだ。