エピローグ ~フィオリア・フォン・ラテミチェリー
「エトラ・シュレ・カインズ。一体どういうつもりよ?」
私、フィオリア・フォン・ラテミチェリーは目の前でヘラヘラと笑いを浮かべている狂人に向かって、そう言葉を放った。ここはカインズ伯爵家の応接間で、私とエトラだけが部屋に居る状態だ。
「何のことかな、僕は君が望む通り本物の世界樹の雫を渡しただけだ」
「えぇ、これは『半分』だけよね?」
「『半分』も、の言い間違いじゃないかな?」
私は静かに強い語気を持って言葉をぶつけた。しかしエトラはより一層笑みを深めるだけだ。まるで私の反応を楽しんでいるかのような印象さえ受けてしまうほどだ。
正直私は目の前にいるこの男が大嫌いだ。
きっとこういう男はドライブデートの終わり際に、ガソリン代を全額要求してくるくらいには小賢しい男に違いない。顔以外に好きになれる理由がない。まったくもって心底不愉快だこと。
「そもそも僕が君に世界樹の雫を全て渡す『義理』などどこにもない。一滴じゃないだけマシだと思っていただきたいものだ」
「私の行動はその程度の価値しか無かったてこと?」
「逆にそこまでの価値があっただけだ」
──こいつ、本当に殺してやりたいわ。
私は殺気を込めた瞳で睨みつけたが、それに対してもヘラヘラと笑っている姿を見ていると、思わずため息をついてしまったのだ。
「それでこれからどうするつもりなのよ?」
「何がだい?」
私は目の前の机を思いっきり叩いたことで鋭い音を出した。だがエトラは相変わらず表情を変えない。それが殊更悔しく思えたものだ。
「アベリア『空中監獄』のことよ」
これだけはある程度の情報がないと、とてもじゃないがやってられない。
物語の序盤の序盤で、しかも難易度を選択する最初の場面で、いきなり『監獄編』に入ろうなんて狂気の沙汰じゃない。どんな物語でも順序良く進めばアベリアアカデミーで魔法を競い、友情恋愛イチャコラと様々なイベントが絡み合って道筋を派生して、徐々に難易度を上げて難解なストーリーになっていくものでしょうよ。
ゴブリンがいきなりドラゴンの巣窟に入ると思う?
いきなり魔王の城に突入を計ると?
冗談じゃない。こちとらまだ初心者もいいところよ。
そもそもなぜエトラが裁判で勝ってしまっているのか意味が分からないわ。もしかして他にも地球人がいるのかと世界に問いたいところだけど、たとえ地球人がいたところで、裁判の敗北は絶対的なものだったはずなのに……。
まさか犬猿の仲であるカインズの本家と分家が一つになってアベリア皇室に歯向かうだなんて予想出来るわけがないでしょうが!
その上に監獄編ときたものよ。まるで某動画アプリのスキップ機能でも搭載しているのかしら?
──ああ、まじ無理まじ病むリスカしたい。
「そう言われても、君にはある程度の先を見通す瞳があるじゃないか。わざわざ僕に聞くなんて甚だおかしいものだね。逆に僕が問いたいくらいだ。君は一体どこまで見えている?」
「…………」
エトラがまるで試すかのように問いを投げてきたことで、私は咄嗟に言葉を発することができなかった。
まさか私が先の展開を知っていると自力で辿り着いたっていうの?
ハイスペックすぎない?
ゲームではあの裁判で負けた後にはロイシュライン殿下の下っ端として度々出てくるのだけれども、もしかして裏ではこいつが指揮権を持っていたりしちゃうのかしら?
ところで次の皇帝は最大派閥を持つ第三皇子のロイシュレイン殿下が即位するはずだったのに……。
あーもう、全て滅茶苦茶よ。
「今さら道化を演じても無意味なことだ。どうせ君の瞳には見えている筈だろう。アベリア空中監獄で何が起ころうとするのかを」
──えぇ、知っているわよ。それはもうがっつりと。
「僕の兄さんがなぜ次代の英雄と言われているのか。その凄まじい能力『総指揮者』の持ち主ある君の兄さんだってそこにいるじゃないか。災悪の君主とさえ呼ばれたあの事件を忘れている人間はこのアベリアにはいない」
エトラがニヤリと口角を緩めてみせた。そしてこうも言ったのだ。
「あれはアベリア史上災悪の事件であるが、僕にとっては最高の演目であったと言っておこう」
「その言葉、皇室の人間が耳にしたら、うち首されても文句言えない内容よ」
「どうせ君は婚約さえ破棄された孤独な姫君、もう誰の心にも響きはしないさ」
「相変わらず一言多いわね」
「だってアベリアの皇位継承権を持つ第一皇子を暗殺するとは思いもしなかったからね。君の兄さんは処刑まっしぐらと思っていたが、『総指揮者』の持ち主ということもあって実験で使われているようだね。これも僕がアベリア空中監獄の全権限を持っているから知れたことだ。つまり君の兄さんを檻の中から自由に解放することだってできるわけだ」
「それを私に伝えてどうしたいわけ?」
まるで私の反応を楽しんでいるみたいじゃない。どうせこの男はろくでもないことを考えていて、必ず私を不愉快な思いに誘い込む腹積もりだというのは分かっている。
だからこそ私は語気に凄みを利かせながらエトラに問いかけた。
「僕の提案はこうだ。この僕に君は協力すること。そうすれば残り全ての世界樹の雫に君の兄さんの解放と、好きな報酬を弾むことだってできる。僕と最高の『共犯者』にならないかい? 君とならこの世界をも──」
思わず私は大きなため息を吐いていた。そして言葉を被せるように──。
「──ごめん無理キモいから」
そう言っておいたわ。ついでに『うげげ』という表情もつけてあげた。
「は?」
ここでエトラは初めて表情を変えてみせた。それは驚きの顔だと言っていいでしょうけど、その表情を見て私は鼻で笑うようにこう言い放ったのだ。
「何を今さらそんな顔しちゃってるわけ? あんたは自分の家族さえ利用して周りを不幸にする男だと私は知っているわ。裁判の時だって、どんな顔を持って正義面しているのか知らないけど気持ち悪いのよお前は」
拍子抜けた顔をしていたエトラは次第に口角を歪ませていった。それはそれは心底楽しい玩具を見つけたとばかりに笑みをこぼしたのだ。エトラのニヤついた顔が憎らしいったらありゃしないわ。
「あははははは、ふはははは! 面白い。やはり君はそうでないとね。当初の出会いもそうだったが、ここまで真正面から僕を否定してくる人間は、僕の記憶する限りではいないよ。実に面白い。やはり僕は君が欲しい」
「なによ。センスのカケラもない新手の告白かしら、本当に吐き気すらしてくるものよ」
私のその言動を聞くなりエトラが腹を抱えて笑い出した。この男がここまで露骨に感情を表に出す姿など、見るのは初めてのことであったし、そもそも私の知るエトラという人間とは似つかない態度であった。
逆にエトラという人物が少しずつ浮き彫りになった気さえしてくるものだ。
「僕の望む形にならなかったのは想定外だ。最後にもう一度問おう。フィオリア・フォン・ラテミチェリー。君は一体どこまで見えている?」
──どこまでか……。
少なくともルナティックモードに訪れる『監獄編』の先を私は知らない。
無数の選択肢が蜘蛛の糸のように張り巡らされていながらも、この地獄の『監獄編』に待っているのはフィオリア・フォン・ラテミチェリーの処刑エンドだけだから。
私にはその糸の先に待つ未来を見ることが叶わない。だから『監獄ルート』だけは回避しなければならなかった。何があっても死ぬ気で阻止するつもりだったのに……。
──死亡フラグ立ちすぎっつーの。
私の性格だけでなく、寿命までもせっかちになるつもりかしら。あぁ、安心安全な都会に住んでた頃が懐かしいわ。
「答えるつもりはないと」
「答える意味がないもの」
私とエトラの間に、なんとも言えない沈黙が流れた。するとエトラが不意に立ち上がり、こう言葉を発した。
「いいだろう。君がどこまで見えているか知りはしないが、僕はいくらでも君の予想を超えて見せよう」
──ええ、その予想とやらをぜひ超えてほしいものだわ。特に私の死を覆してほしいものね。
「話はこれで終わりだ。お帰り願おう」
全くもって気みじかな男だ。しかし、私は直ぐに帰りはしなかった。
純粋に気になったことがあったからだ。
エトラならどう答えるのか、という疑問が──。
「一つあなたに聞いてみたいことがあるの」
「僕の質問には答える素振りすらしないというのに。いいだろう。その質問自体に興味がある」
私は続け様にこう言った。
「トロッコ問題って知っているかしら?」
「ふはは、何かと思えば実にくだらない問題だ。自分が罪悪感を持たないようにするにはどっちかという問題だろう? 人のために見えて自分のためにあるような問題だ」
「ええ、そうね。だから聞きたいの。暴走したトロッコの先には五人の作業員がいて、分岐レバーを切り替えれば一人の作業員がいる状況で貴方はどちらを選ぶかしら?」
道徳心理学で有名な話だ。これは切り替えるという選択と切り替えないという選択。レバーに触らないと言っても、それも選択の一つになってしまう悪魔の質問。絶対に殺さなければならない運命を背負う時、エトラは何を選択するのか。ただ気になった。
「両者を殺せるなら殺してあげたいのも山々だが、それは無理なことだろう? ならば多い方を殺してもいいし、逆に五人が僕を嫌っているなら残りの一人を殺してあげてもいいし、僕には縁のない質問だね。何故ならそんな愚民が考える質問に何の意味がある? そもそもこの問題はある視点から立って見れば、片方は強盗でもう片方が万引きという視点すらも持てる。つまり問題そのものが破綻しているわけだ。そう、一般人から見てみればね? どちらも間違っていると認識した上で選ばなければならないのだから」
私はそんな答えを聞いて、思わず鼻で嗤ってしまった。所詮、エトラも他人と同じ穴のムジナでしか無いということ。サイコパスにすらこの答えは出てこないものだと私は思った。だからあえて聞いた。
「あなたはどちらに舵を切るの?」
「僕がどちらに分岐レバーを動かすと思う?」
それを聞いてんでしょうが! とツッコミを入れたくなったのは私だ。私の表情を見てなのか、エトラはゆっくりと口を開いたのだ。
「道を分岐するレバーならば僕はレバーを動かし続けるだけだ。どちらを選ぼうとも魅力がないのなら運命にでも任せておけばいい。それも全て神の悪戯さ」
その言葉を吐き捨てるように言い放ったエトラは、私に背を向けて扉へと向かって行った。その背中を見るなり、何か得体の知れない不気味さが背中に張り付いているかのような違和感を持った。それでも私は、敢えて言葉にしたかった。エトラのその後ろ姿に向ってこう吐き捨ててやったのだ。
「運命はあなたの意思を揺るがすことはないと?」
するとエトラはドアノブに手をかけ、ふっとした笑みを発しながら最後のダメ押しと言わんばかりこんな言葉を残していったのだ。
「もし僕が運命の神になった時ですら、その選択肢は選ばないだろう。なにせ僕は両方にチップを賭けているからね。どちらに転んでも僕が得をするようにしているさ。だから選択肢など不要などだよ。まあ、この言葉の意味がいずれ分かる時が来るさ」
その後ろ姿を見送りながら、私はしばらく部屋の中でぼんやりと座っていた。