エピローグ ~ローレル・カインズ
とある昼下がりのこと。
「やあ、ローレル・カインズ」
肩をすぎた立派な黒い髪はしっかりと手入れされていて、その赤い毛先まで丁寧にまとまっていた。そんな美しくも長い髪をポニーテールにして結んでいるその人物はその赤い瞳を僕へと向けると、まるで汚物でも見ているかのように細めて見つめてきたのだ。そして明らかに嫌悪感のある冷たい声色で僕に話しかけてきた。
「約束を守りにきたのね」
「勿論だとも。こう見えても僕は立派な紳士だからね」
「どの口を言うのやら……。紳士は『空中監獄』とは縁のない人のことを指す言葉よ。あんたは一体、何がしたいわけ?」
「何がしたいか……。僕は一体何がしたいんだろうね?」
僕はわざとらしく、肩をすくめるような動作を見せた。その反応が癪に障ったのか、赤い瞳がより細められることとなる。そしてその綺麗な唇から吐き捨てるような言葉が出てきたのだ。
「呆れた奴ね」
「それは誉め言葉かい? 光栄だね」
僕がそう答えると、そいつは明らかに不機嫌そうな表情を浮かべた。その表情の中には怒りや侮蔑など様々な負の感情は滲み出ていて、僕にとってはむしろ好ましい部類に入る感情でもあったため、思わず口角が緩んだほどだ。
「ならば君に一つ問おう。君は世界中の者に嫌われるためなら何をする?」
僕はそんな質問をぶつけてみた。無論、ただの興味本位から来る行動だ。
「おかしなことを考えるものね。でもそうね、あえて答えるとするなら──」
赤の瞳と視線が交錯する。僕の目を真っ直ぐに見つめてくる彼女の姿は美しいものであると同時に、とても強い信念を感じたのである。
「──それこそ教国の教皇聖下にまで至らないと世界中に名を残すこと自体ができないじゃない。まず認知してもらえることから始めないとね」
「やはり行き着く先は醜い『権力者』だよね。此度のアベリア皇家のように。まあそれだけでもないのだけど」
そして彼女の表情が見る間に強ばっていくのがわかる。おそらく僕が言っている内容が彼女の父親のことも含まれたことだったからだろう。
「ほら、これがカインズ流剣術の秘伝書だ」
僕はそう言って一つの巻物を取り出した。それを彼女の方へと渡すと、受け取った後に静かに中身を確認していった。
「アンタこれ、ただカインズ流剣術の秘伝書と文字で書いてるだけじゃない!!」
「それでもカインズ流剣術の秘伝書ではある。どうやら君の認識する秘伝書と僕の認識する秘伝書は違ったということかな?」
「違ったって……アンタねぇ、何を言ってるのか理解してるわけ?」
「勿論だともローレル・カインズ。僕はこうマナに誓い、剣に誓った。カインズ流剣術の秘伝書を渡すとね」
「…………本気で言ってるの?」
「僕はいつだって本気だよ、ローレル・カインズ」
そう言うとようやく納得することが出来たようだ。血の気が引いた顔色でこう答えた。
「本当に……狂っているわ。ならお父様は何のために──」
「──勘違いするな。元はと言えば、君の君の父親であるスターチス・カインズも加害者だ。被害者面をするのは筋違いだよローレル・カインズ」
僕の言葉に動揺したのか彼女が後ずさった。
「あんたって人じゃないの? よくもこんな真似が……」
そう言いかけたが途中で口を閉ざしてしまった様子だった。だが彼女がその先を言わんとしたことは想像つくものだ。
「覚えておきなさい、エトラ・シュレ・カインズ。アンタは絶対に私が殺すわ」
「ああ期待しておくよ」
そう言いながら僕はニヤリと笑ってみせたのだ。ああなんと心地いいのだろう。
彼女が僕に抱く憎しみに歪みきった顔を拝むことが出来るのだから。やはり僕の精神は、この瞬間にのみ満たされるものである。
「覚えておくといい。ほとんどの人間は『誓い』のことを『契約』だと思っているが、誓いはあくまでも誓いである。誓いの先に成されるのが個人間の契約なだけで、本来はマナならマナに誓い、剣なら剣に誓うものである。それが誓うということだ」
「……アンタは本当に狂っている」
まるで苦虫でも嚙み潰したように表情を歪めると、そう捨て台詞を残すようにしてその場から退散するのであった。
その後ろ姿を見送りながら、僕は自然と笑みが込み上げてきたものだ。
「スターチス・カインズの元に訪れるといい。君が欲しいのはそこにある」
「何よ今さら」
僕の言葉が気になったのか足を止めて振り向こうとしたので、すかさずその背に向かってこう言ってやった。
「そう、今さらさ。でも期待には応えられないかな。僕は言ったはずだ。お互いが認識する物は違うとね」
「じゃあそこに何があるっていうの」
「君の憎しみだよローレル・カインズ」
振り返った赤い瞳と目が合ったことで彼女が驚きの表情を見せたが、僕は気にすることなく笑ったのだ。
「一年だ。一年あれば『それ』は燃える。生憎と僕には炎の魔法の適正があってね」
「……何を言ってるの」
「言葉の意味さ。一年後には戦乱の世になるからね。それまでに習得できるように期限を設けたわけだ。優しいものだと思って欲しいね」
それだけ言い切ると僕は颯爽とその場を立ち去った。
去り際に言葉を残しながら──
「そもそもカインズが本家と分家に別れる理由は秘伝書の存在だ。ならばそれを無くせばどうなるか気にならないと思わないのか?」
それがローレル・カインズの耳に届いたのかは分からない。
それも物に執着しない僕だから言える言葉だろう。
いつの世も人は物を中心として考える。それが道具であれ、宝であれ、究極的に言えば金であれ、全てはそこにある物が中心になる。
甚だおかしな話だ。全てそれは人が作り上げた物なのに、いつからか人は物に支配されるようになっている。
そんな人が生み出した文明や文化は一体何なのだろうか。考えるだけでも実に下らない。
そんなことを考える僕の背中には、憎悪が篭った赤い瞳をひたすらに注いできているのを感じるが、それもまた乙なものだろう。