とある父親の思い
私──スターチス・カインズはあの日の出来事を今でも鮮明に覚えている。私の大切な妻が殺されてしまった日のことを……。
「あなた……」
妻の変わり果てた姿を目の当たりにしたあの日の衝撃と悲しみを決して忘れることはないだろう。
「娘を……よろ、しくね」
魔物に食い破られた腹からは大量の血を流し、妻はそれでも懸命に微笑んでいたのだ。そんな彼女の姿に私は何も言えなかった。言葉が見つからなかったのだ。
──どうして私はここまで弱いのか。
最愛の人さえ救うことができない自分が情けなくて仕方がなかった。もっと私に力があればと悔やむことしかできなかった。それと同時に激しい怒りが込み上げてきた。愛する妻を亡き者にした存在に対してである。
──なぜ力無き分家に魔物の討伐を任せるのか。
いつの世も本家は卑怯極まりなく、狡猾だった。特に、このような辺境の地では尚更のことである。だから、私たちのような下々の人間は、それがどれだけ理不尽なことであっても従うしかないのだ。
元より英雄一家であるカインズはアベリアにおいて、一番魔物が出没する場所を任されている一族だった。
魔物の大量発生による暴走も、我々にとっては日常茶飯事だった。だからこそ気に入らないのだ。
なぜ分家が本家を守るような地理構造になっているか。なぜ本家はいつだって私たちを見捨てるのか。
世界最強の五剣だと?
──ふざけるな。
力があっても動かない本家が偉ぶりおって。
貴様らのせいで一体何人の人が犠牲になったと思っているのだ。私たちは所詮、貴様たちにとっては単なる捨て駒でしかないのだろう?
だから『こうして』謝りもせずに遅れてノコノコやってくるのだ。そして何事も無かったように力を振りかざし解決していく。なんて傲慢なのだ。
たった一振りで千の魔物すらも屠るエルガ・シュレ・カインズが憎い。だから私は恥を忍んで言ってやったのだ。
「なぜこうも見捨てることができるのだ! お前が速く来ていれば妻は死なずに済んだのだ! 充分な時間はあった筈だ!」
これまで我慢していたものを全て吐き出すかのような激情に駆られてしまったのだ。
だが、次の瞬間には後悔することになった。エルガは私の胸ぐらを掴み上げ、軽々と持ち上げてみせたのだ。その瞳は殺意に満ち溢れており、今にも殺さんばかりの勢いだった。だから私は、ここで殺されるのだと覚悟をしたくらいだ。
しかし──
「君の妻を助けられなかったのは決して僕のせいではない。弱者の言い訳ほど聞くに耐えないものは無いな」
「……ぐっ!!……ぐぅぅっ」
彼はただ淡々とそう吐き捨てるだけであった。それは本当に虫ケラを見るような視線で、私の心が音を立てて崩れ落ちていくようだった。
そして私が絶望に打ちひしがれている最中、奴は言ったのだ。
「弱者はまず言い訳を考える。唯一、自分を強い立場にあげてくれる『話術』だからね。そこにカインズの誇りはない。故に語る価値すらない」
そう言い切った時の彼の瞳には一切の光は無く、ただ冷徹な視線を送っていたのだった。その瞬間、全てを悟ってしまった。
目の前の男には何を言っても通じないだろうと理解してしまった。なにせ分家は死んで『当然』だと受け入れている本家の人間なのだから。
突然、声があがったのはそんな時だった。それは小さな少女から発せられた声だった。
「母様を助けてよ!!」
私の娘であるローレルは泣きながらエルガの足を掴み叫んでいたのだ。エルガはローレルの姿を見つけるなり、膝を曲げて屈み、彼女の頭にそっと手を置いた。それからローレルの頭を撫でながら優しく語り掛けたのだ。
「君のお母さんはもう助からない。悔しいのなら、強くなって大切なものを守れるようになりなさい。憎いのなら、復讐心を抱き続けなさい。それが君を強くする糧となるだろう」
そう語りかけられた瞬間、ローレルは堰を切ったかのように大声で泣き叫んだのだ。その姿を見て胸が張り裂けそうになったのを覚えている。
娘の前で妻一人も守れない無力な自分自身が腹立たしかった。
悔しかった。情けなかった。辛かった。苦しかった。寂しかった。泣きたかった。叫びたかった。助けを求めたかった。
助けてくれる人はどこにもいないと分かっていたから、余計に悲しかった。自分の弱さが許せなかった。
そして何より、目の前で無惨にも殺された妻の姿が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
だから──
──もうこれ以上、家族を失いたくない。
ただ、そう思った。そのためなら何だってしてやると誓ったのだ。たとえ悪魔に魂を売り渡そうとも、たとえ命乞いをしてでも、どんな汚名を被ろうとも
────どんなに非道な手段を用いても絶対に娘だけは幸せにしてみせる。
そう思っていたはずだったのに──。
「お父さま。私は真実が知りたいのです」
──どうしてこうなったのか。私には理解できなかった。今目の前に広がっている光景が夢か幻であることを祈ってしまうくらいに頭が真っ白になっていたのだ。
「ローレルが、なぜアベリアの監獄にいるんだ?」
気がつけばそう問いかけていた。それもそのはずだ。まさか愛娘が未だに監獄に囚われている私に面談など想像できるわけがないだろう?
それに彼女がここにいる経緯が全くと言っていいほど分からないのだから……。
「ごめんなさいお父様。どうしても確かめたいことがあったのです」
そう言って彼女は静かに頭を下げたのだった。肩過ぎくらいまである黒い髪は絹のように艶やかで、毛先側にいくと徐々に赤く染まっていた。真紅の瞳と端正な顔立ちをしていることからも分かる通り、カインズ家の出立ちを色濃く受け継いでいるのが分かる。
そんなローレルが一体全体何が理由でこんなところにいるのだろうか。そんな疑問ばかりが浮かぶばかりだったのだが、次に放った言葉で納得せざるを得なかった。何故ならローレルはこう言ったからだ。
「私のところにエトラ・シュレ・カインズがきました」
「どういうことだ?」
動揺を隠しきれないまま聞き返すと、ローレルはこう答えてくれたのだ。
「……彼を責めないでくださいね。これは私自身の判断ですから」
「待て待て待て! ローレルがあの男と面識があるというのか?」
信じられない思いで問いかけると、彼女にしては珍しく歯切れの悪い回答が返ってきたのである。
エトラ・シュレ・カインズは別の国である剣闘国ハシュラでさえ、その異名は轟いている『狂人』である。
「はい。そのエトラが言っていました。今回の事件はお父様が仕組んだものだ……と」
その言葉を聞いた瞬間に、目の前が真っ暗になった気がした。ローレルだけには知られてたまるものかと必死になって隠し通してきたつもりだった。
なにせこれらの行動は全て剣の道に生きるローレルのためだけに動いているのだから。
「そんなわけないだろう。安心しなさい。私はすぐにここから出られるから」
──大丈夫だ。
きっと何かの間違いだ。
あの狂人のことだ。
意味もなくそんなことを口走ったのだろう。
私は冷静を装って必死に弁明したが、ローレルの反応はあまり芳しくはなかった。
「エトラは今回の裁判が気に入らなければ『カインズ流剣術の秘伝書』を燃やすと言っていました」
「……なんだと?」
「逆に裁判が思うように進めば『秘伝書』を譲ってくれると『マナの誓い』と『剣の誓い』で約束をしました」
「馬鹿なことを言うな!! そもそもなんで奴がそれを持っているのだ!! エルガは一体何をしている!」
「それでも『秘伝書』は本物でした。私が直接見たからには断言できます」
それを聞いた瞬間、身体中の血液が沸騰しているような感覚に陥った。全身を流れる血液が熱を帯びたように激しく脈打ち、煮えたぎるような熱さが身体を支配するのを感じたのだ。まるで全身の細胞が悲鳴を上げているようだった。
「だから私は真実を知りたいのです。優しいお父様を疑っているわけではありません」
「言えるわけないだろう!!」
つい怒鳴ってしまったことを後悔した時には遅かった。目の前のローレルの表情がみるみる歪んでいったからである。
唇を強く噛みすぎて出血までしているのだ。その姿を見れば嫌でも分かってしまった。娘は誰よりも私のことを信じていたのだと……。
「なぜ言えないのでしょう。やましい事がなければ──」
「──今回の真実は『マナの誓い』が交わされているのだ」
「えっ?」
ローレルは驚いた表情を見せた後、続けて言ったのだ。
「……どういうことですか?」
「どうもこうもない。真実を話せば私はそこで終わりだ」
それは私が今回の事件に関わっていることを肯定することに他ならない発言であった。
「つまり、エトラが言っていたことは本当だったと……いうわけですね」
「…………」
私はその言葉に何も言えなかった。もはや認めるしかなかったのだ。するとローレルは諦めたように肩を落としたのだった。その表情はまるで人形のように生気を感じさせないものだった。
「う、嘘ですよね。だってお父様はいつだって領民のことを思う優しい人じゃないですか」
──やめてくれ。もう何も言わないでくれ。
優しいだけでは何も救えないと知ったのはいつのことだっただろうか。私はただ愛する妻の忘れ形見に不自由なく過ごしてほしい一心だった。
ただそれだけだったのに、いつの間にか取り返しのつかないところまできてしまっていたのだ。それでもなんとか取り繕おうと言葉を探すものの、何一つ見つからなかった。
「すまない……」
結局、出てきた言葉は謝罪の一言だけだった。それを見たローレルは自嘲気味に笑ってみせたのだ。それは今まで見たこともないほど冷たい眼差しだった。それから暫くして、ようやく絞り出した言葉がこれだったのだ。
「──私は何を信じればいいのですか? もうわからないです」
そう言ってこの場を離れようと背を向けたローレルに慌てて手を伸ばすも空を切るだけだった。やがて遠ざかっていく背中を見つめることしかできなかった私に残された選択肢は一つしか無かったのだ。
「秘伝書の話は……『誓い』を、二重で交わしたことは誠なのか……?」
「それをお父様が知ったところで、今のお父様にはどうすることもできませんよね?」
そんな捨て台詞を残して彼女は行ってしまったのだった。取り残された私は、膝から崩れ落ちるようにその場に蹲ると声にならない叫び声を上げたのだ。
そしてこの時になって初めて気がついたのである。ローレルに真実を伝えることで彼女がどれだけ傷つくことになるのかということを……だから最後まで言い出せなかったのかもしれない。
結局のところ、私はどこまでも弱い人間なのだ。自分の弱さを実感した途端、涙が溢れてきた。
「誰か助けてくれ……」と心の中で叫ぶも現実は変わらないままだった。いや、寧ろより一層孤独感が増したように感じるばかりだ。
しかし、そんな時に限って思い出すのは愛しい妻と娘の笑顔ばかりで、自分がどれほど愚かだったのかを思い知らされるばかりだった。
(こんな私を見たら、妻はなんて言うのだろうか)
そんな考えが頭を過った時だった──突如、視界に飛び込んできた光景を見て絶句したのだ。
「やあ、お困りのようだね。スターチス・カインズ」
「ッ!!!」
全てを染めあげる黒い髪に、血を好みそうな赤い瞳孔が私を射抜いていた。そこにはエトラ・シュレ・カインズが立っていたのである。驚きのあまり声を詰まらせていると、彼は更に言葉を続けた。
「娘の言葉は聞いたかい?」
「お、お前は何てことを!!」
「何てことだと? 勘違いするなよ? これは君が殿下に協力した罰だろう? そんな下等生物にも選択権を与えているのだから僕は優しい方さ」
「選択権……?」
「ほら、この手元にある秘伝書の件のことを聞いただろう?」
そう言って奴は懐から一冊の本を取り出したのだ。その瞬間、心臓が鷲掴みされたかのような衝撃が走った。
「その本を持っていながら、なぜお前は平気なのだ」
「ふむ? 精神力の差か……あるいは最も根本的な能力値か……。まあ、なにともあれ、君はこの本を見ただけで耐え難い興奮に駆られているようだね。流石は下等生物だと言わざる負えない」
「くっ、この私は『狂人』にも負けてるというのか」
歯軋りをすると、彼は肩を竦めて言った。
「そう悲観することはないさ。僕だってこの本は数ある中でも大切な物だと思っている。まあ燃やせない、ほどでもないがね?」
「貴様ッ!!!」
思わず激昂するも、奴は全く意に介さない様子だった。それどころか楽しそうに笑っていたのである。
「だから僕は始めから結論を述べているし、選択も与えているではないか」
「貴様に何が分かるというのだ。選択もなにも私は『マナの誓い』を交わしているのだ!」
「だからどうしたというのだ?」
そう答えるエトラの態度は非常に堂々としたもので余裕すら感じられた。その態度がますます私の神経を逆撫でするが、ここで感情的になっても何の解決にもならないのでグッと堪えることにした。
それにこれ以上この男と言い争っていても埒が明かないからだ。しかし、エトラが口にした次の言葉で状況が一変することになる。
「マナの誓いを交わしたからといって、それを守る道理はないだろう?」
「……はっ?」
一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。ただ、呆然としたまま固まっていた私に対してエトラが追い討ちをかけるかのように続けたのだ。
「ローレル・カインズと同じく、頭の回転が遅いものだ。裁判の席に立った時、そこでロイシュレインと交わした『マナの誓い』を破るんだ。その破約によって成される誓約が『絶対的』な証明になるとは思わないかい?」
「なっ! 貴様は私に死ねと言ってるのか?」
あまりのことに怒りを通り越して恐怖を感じたほどだった。この男はどこまでイカれているのか理解に苦しむほどだったからだ。私が死ぬことになろうとも、絶対に守らなければならないものが確かに存在するというのに。
それでも尚、目の前の男は薄ら笑いを浮かべて淡々と語ったのだった。
「もちろんそうだ。でもいいのかい? 娘の話を聞いたろう?」
「まさかッ!」
「だから最初から選択を与えていると言ってるじゃないか。このまま安寧の余韻に浸って余生を過ごすか。それとも、命を費やしてでも我が愛しの娘の幸せを勝ち取るか……君に与えられた選択肢はその二つだけなのだよ」
そう告げた彼の顔はとても愉快そうに微笑んでいたのだ。そんな狂気じみた男を前にして私は悟ったのだ。
既に退路など存在しないのだという事を……。
「僕は秘伝書を燃やすと言ったら燃やす男だ。それが得であれ損であれ僕には関係ない。そもそも僕は愚民共が持つような損得感情など皆無に等しい。はなから生きる『目的』が違うのだよ」
そう語る彼の瞳には一切の光が宿っていなかったのである。もはやこの世に生きているとは思えないほど無機質な目だったのだ。
「そうだな。君に嫌われるためだけに秘伝書を燃やすのも一興かもしれないね」
そう言ったあと、エトラ・シュレ・カインズは不気味な笑みを浮かべてみせたのだった。
「さあ、どうする? スターチス・カインズ。元よりこの事件を引き起こしたのは『秘伝書』が目的だった筈だ。全ては剣の天才である娘のためなのだろう? ならば答えは一つしかないな」
ああ、きっとこれは悪魔の囁きだ。だが、今の私には悪魔であろうと縋り付くしかないのだ……例えその先が地獄であったとしても──
「君がどちらに付くか……、裁判の場で待っている」
その言葉を最後に、奴は去って行ったのだ。一人残された私は地面に膝をつき項垂れたまま動くことができなかった。
──この世は地獄か……。
誰もいない牢の中で絶望に打ちひしがれるしかなかったのである。それから暫くしてようやく動けるようになった頃、私は決心を固めたのである。