血濡れの幕は開けた
──暇すぎて死にそうだ。
病室の中にはベッドが一つだけ置かれていた。僕はそこでしばらく安静にしていなければならない。腕には点滴用の針が刺されており、栄養剤を流し込まれている最中だった。
時々看護師さんがやってきて体調を確認してくれるのだが、そのたびに『早く死ね』と、言われるものだから、僕はその快感に打ち震えながらも立派に耐えていた。看護師さんは僕が目を覚ましていることに気付いていないのだろう。
それはそうだ。心臓はいつ止まってもおかしくないし、骨はボロボロで、血管も所々千切れている。
だから僕の意識があると知ったら、きっとその『罵声』も見せかけの『配慮』へと変貌することだ。
だから僕は、
『死ね』と言われても、
『なんでいきてるの?』と言われても、
『おかしいわ。苦しまないように安楽死させるつもりが回復してるわ』とか、
『ありえない。普通の人間ならこの注射すれば死んでるはずなのに』とかとか、
心も体も回復に向かう一方である。
あれから一週間が経過して、まだ包帯が取れていない腕を眺めながら、誰かが部屋に入ってくる気配を感じた。
「ねぇ、ルシウス」
「なんでしょうか、エトラ様」
オールバックに撫で付けた白髪は髪先まで神経が生きているかのように整っていて、立派な白髭を生やしている老爺がそこには立っていた。
服装は上品かつ高級感あふれるもので、手には白手袋をはめて、皺ひとつない黒の燕尾服に身を包んでいる。姿勢はとても良く、立ち振る舞いは非常に洗練されているのが見て取れる。
なにせ眼鏡の奥からは生ゴミを見るかのような『侮蔑』の視線が含まれているのだから。その視線に晒されながらも、僕の心は喜びに打ち震えていた。
「こんな退屈な場所に閉じ込められていると気が滅入るよ」
「左様でございますか……」
窓の外には青空が広がり、白い雲がゆっくりと流れていた。そこから差し込む太陽の光がルシウスの顔を照らしている。
『軽蔑』と『嫌悪』を足して割った態度は、まるで僕の『悪意』を鏡面越しに見ているようにも感じられる。
それは僕にとって好ましいものだ。彼の行動には何一つとして無駄がない。完璧過ぎるその仕草に、もはや感嘆の声すら漏れるほどだ。
「ねぇ、ルシウス」
「僕は退屈だと言ったよね?」
「しかと聞こえております……ってもうこの下りやめましょうよ!! 病院に火を放つのですか? それはもう悪魔以上の悪行ですよ」
「何!? 悪魔以上の『悪』行だと!? こうしちゃいられない」
「安静にしておかないと駄目ですってば!」
「じゃあ、どうしろって言うんだ! 暇すぎて死にそうなんだ」
「まったく貴方って人は……」
ルシウスはやれやれと肩を竦めながら、呆れた表情をしていた。しかし、次の瞬間には神妙な面持ちをしていた。
「はぁ……、エトラ様が喜びそうなものを持ってきましたよ」
そう言って、ここ最近の記事が掲載してある新聞を僕の枕元に放り投げてくれた。
そこには『エルヒ・シュレ・カインズ皇子暗殺未遂』と書かれていた。
他には『堕ちた英雄カインズ』だとか、
『世界最強の五剣、カインズ伯爵家当主──エルガ・シュレ・カインズはどう動く?』などと見出しが並べられていた。
特に気になる記事と言えば────
「『血濡れ』兄弟か」
「そうです。何か思うところあるでしょう?」
「くっくっくっくっくっ、やるなら徹底的にやらないといけないよ。エルヒ兄さぁああん」
僕は思わず笑い転げてしまった。何せ、まさかこんなことまでするとは思っていなかったからだ。
「エルヒ様がこのような蛮行を為さるわけがないでしょう!!!」
「腐っても僕の兄上だ。腹の内は読めないさ」
「それはエトラ様が異常なだけです」
呆れ果てるルシウスだったが、その瞳の奥深くでは深い憎悪の炎が燃え盛っていた。誰よりもエルヒ兄さんを慕って、尊敬して、憧れていた男だ。ルシウスにとって、今回の事件は絶対に許せるものではなかったのだ。エルヒ兄さんのそば付きになりたいと嘆願するくらいなのだから、その思いの強さも並大抵のものではないだろう。
「その顔は何か知っている顔だ。僕に全てを吐け」
「はい。仰せのままに」
覚悟を決めた顔で、ルシウスはそう答えた。これでもルシウスは隠しスキル『切れ者』の持ち主だ。
僕ですら読めないことを平然とやってのける、まさに『曲者』である。
何せ僕を裏切る手筈すら整えているほどなのだから侮れない奴だ。しかし、だからこそ信頼に足る人材でもあると言える。
味方であるうちは、ね。
そして僕がルシウスを維持でも手放さないのは、この『駒』の有用性にある。僕を嫌いながらも、力を尽くしてくれるのだ。それ故に手放すことなどあり得なかった。
「まずはカインズ家の現状からお話ししましょう」
「ああ」
「現在、当主であるエトラ様のお父上、エルガ様は五日後に開かれる裁判のために今も忙しなく動いています。ですが真相究明されると困る人が上層部にいるようで、この事件に対する圧力が続いていて、あまり進展していないのが実情ですね」
「ルシウスも何か知っているのだろう? 全て父上に告げたのか?」
「もちろんです。自慢ではありませぬが、これでも私は情報社会には滅法強いですからね。既に調査は済んでおり、事件のあらましは把握しています。この全てをエルガ様には伝えています。しかし──」
「──決定打となる肝心な証拠は出てこないというわけか。どうせ捏造と隠蔽のオンパレードなんだろう。つつけばすぐ出てくるものではないのか?」
「ええ、まあその通りなのですが……それが中々難航しておりまして」
困ったように苦笑いをするルシウスであったが、僕にはその理由がよく分かった。
どうやら皇室というのは、想像以上に腐敗しているようだと理解する。権力闘争に現を抜かすだけの阿呆どもしかいないらしい。無能な貴族たちによって国が崩壊しかけているという現実を前に、僕は頭痛を覚えたのだった。
──僕がこの国を滅ぼすつもりなのに、本当に困ったものである。
「裏で手を引いているの誰だ?」
「今回の被害者である第三皇子、ロイシュレイン殿下です」
「間違いないのか? 記事を見たが死ぬ気でマナを使ったというのか。仮にもマナフラワーを体内に入れたらしいじゃないか」
「はい、そのマナフラワーのことなんですが……。どうやら、忌々しいあの『分家』が絡んでいます」
「それはそうだろう。全てを薙ぎ倒す実力がある父上なら、こんなまどろっこしいやり方はしない。エルヒ兄さんもマナフラワーまで手を回す根性はないだろうね。まあしかし、僕と同じ血を引き継いでいるなら……」
「だからそれはエトラ様だけです!!」
僕は『血濡れ』としての相応しい笑みを浮かべ、ほくそ笑んだ。その様子を見てルシウスは頭を抱えていたが、気にせずに話を続けることにした。
「まぁいいや。それよりが分家が怪しいということはわかったけれど、決定的な証拠がないっていうのも違和感だね」
「それが実は……ロイシュレイン殿下とスターチス・カインズの間に『マナの誓約』が結ばれているらしく、そこまで詳しい内情まではつかめていません」
「十中八九、カインズ本家の転覆が狙いだろう。ただ第三皇子がなぜカインズに的を絞ったのかだけが謎だな」
「それにつきましては、こちらも把握しておりませぬが、きっとエトラ様の所為ですよ! そもそも決闘中にアーティファクトを使用するなんて考えられないです!! その戒めとして罰を実行しているに違いないです!」
言いたい放題のルシウスを無視しながらも、僕は考えを巡らせる。顎に手を当てて思考の海に沈み込んでいた。
マナポートで会った殿下を見た限りだと、取るに足りないことで動くような人には見えなかった。
更に言えば自分の地位を利用して好き勝手にやるタイプにも見えなかった。
わざわざリスクを取ってまで罪人や魔物を生贄にする人間だ。無辜の民に手を出すような狂人とは違う。
その本質はどこまでも冷静に、合理的に、効率よく、それでいて大胆に、目的を達成しようと目論む──そんな男だ。
そこまで考えたところで、僕はふと思った。あのマナポートでの『誓い』の瞬間から、第三皇子に狙われていた可能性に──。
「ふっふっふっふっふっ、はっはっはっはっはっ、あーっはっはっはっ!」
「エトラ様?」
僕の狂った笑い声が病室に響いた。ルシウスは戸惑いながらも、ベッドに横たわる僕に怪訝な目を向けている。どうやらエルヒ兄さんと似て随分と面白い男らしいじゃないか。しばらく退屈しないで済むようだ。
「いやぁ、実に愉快だ。ルシウス、他の情報は?」
「他であれば事が起きる前に、フィオリア・フォン・ラテミチェリーお嬢様とスターチス・カインズが接触を果たしてる模様です。恐らくですが、フィオリア嬢は真実について知っている数少ない一人であられるかと」
「分かった。今すぐいこう」
「えぇ!! 今すぐですか?」
「ああ、今すぐだ」
そう言って僕は亜空間に繋がる巾着袋の中から、『世界樹の雫』が入った小瓶を手に取り、一口飲む。
すると、体中に巡る不思議な感覚に酔いしれると、一瞬にして力が漲るのを感じた。先ほどまでの痛みなど嘘のように消え去り、上半身を起こしてから、ゆっくりとベッドから立ち上がった。
「あ、あぁ、なんてことを……。『世界樹の雫』をただの怪我に使用するなど……。先人の方々がどのような思いで手に入れたのか……」
「気にするな。倉庫の肥やしになっていただけではないか。有効活用してこそだ」
「それはそうかもしれませんが……」
ルシウスは項垂れながら、力なく答えた。その目はどこか遠くを見ていたが、僕はそれを気にすることもなく部屋を出ていく。
「さて、有名な『悪女』様のところへ行こうではないか」
僕の行動理念は全て自分本位だ。そこに他人の意志などないのだから。僕の中では全てが正義であり、すべてが正解なのだ。つまり僕に嫌悪を抱くのは勝手だが、邪魔をするものは敵であり、排除するべき存在である。
だから──。
「僕はね。エルヒ兄さんを処刑にする『裁判』で全てを覆すつもりなんだ。だから真相究明に力を貸してよ? フィオリア・フォン・ラテミチェリーお嬢様」
彼女のもとに辿り着いた僕は聞いた。
──君が味方であるか。あるいは敵であるか。
それとも────
──本物の『悪女』なのかを。