ストーリア
そのバーは、酒のアテとして「物語」を提供するという。客のどんなオーダーにも的確に応えることで評判が良いらしい。とても興味を惹かれたので、さっそくそのバーへ行ってみることにした。
「いらっしゃいませ。ようこそ、バー“ストーリア”へ」
店へ入ると、女性のマスターが出迎えてくれた。フォーマルのシャツに黒いベストとパンツを身に纏ったマスターの立ち姿は、背筋が伸びて凛々しい。その見目麗しい容姿はどこか浮世離れしている。
少しばかり緊張しながらも、マスターに促されるままにカウンター席のスツールへ腰掛けた。
「お客様は、今日が初めてのご来店ですね。それでは、当店のサービスについてご説明いたします」
マスターの説明によると、ここのバーはワンドリンク・ワンストーリー制で、飲み物を一杯頼むたびに、その飲み物に合わせた物語を聴かせてくれるという。そのため、大勢を相手にすることができず、来店の際には要予約とのこと。無論、私も事前に電話で予約を済ませてきた。
「ご注文をお伺いします」
「最近疲れが溜まってるので、気分がスッキリするものをお願いします」
畏まりましたと言った後、マスターが差し出したのは、サファイアのような色をしたカクテルだった。スカイダイビングという名前らしい。
一口呷ってみると、甘辛い味わいにライムの香りが加わって、爽快な心地がした。
「それでは、スカイダイビングの名前に合わせて、今回は空のお話を語らせていただきます」
そうして、マスターが物語り始めた。マスターの声は透き通っていて、とても聴き心地が良かった。
これはとある男性の、空にまつわるお話でございます。その男性は密かな夢を抱いていました。その夢は、いつしかプロの小説家としてデビューして、自分の作品を多くの人に読んでもらいたい、というものでした。そのような想いを胸に秘めて、日々創作に明け暮れました。
最初は、小説を書くことが楽しくて仕方がありませんでした。自分で考えた空想の物語が文章として形作られていく度に、男性の心は充足感で満たされました。
しかし、時が過ぎていくにつれて、男性は創作活動を楽しいと思えなくなっていきました。公募へ出した作品は賞に選ばれず、小説の投稿サイトへ出しても大した反響はナシ。満足な評価が得られない男性は、次第に書く意欲を失ってしまいました。
ある時、男性は空を眺めていました。白い雲が風とともに流れていく晴天を眺めて、男性はこれからのことを考えていました。
自分には小説家としての才能がないのだろうか。このまま書き続けたとしても、誰にも評価されないまま平凡な一生を過ごす羽目になるかもしれない。それはあまりにも悲しい。
そんな思いを抱え続けるぐらいなら、早いうちに小説家への道を諦めて、ケジメをつけた方がいいんじゃないのか。
男性は思わず溜め息を吐きました。と、そこで男性は空に何かが飛んでいるのを見つけました。
それは鳥ではなく、飛行機でもありませんでした。魚です。魚が、空中を泳いでいたのです。
幻覚かと思った男性は、何度も目をこすって空を見ました。ですが、やはり魚が空を飛んでいました。
その魚は鯉に似た姿をしていて、雲をかき分けるように空の上を悠々と泳いでいました。アレはなんだ。そう訝しむ男性でしたが、たった一匹で優雅に空を泳ぐ魚を見て、何故だか勇気づけられた心地になりました。
あの魚は、この広い空の中を孤独に泳いでいる。それにも関わらず、悲しいそぶりはまるで窺えない。それどころか、孤独な空中遊泳を楽しんでいるように見える。
自分も、あの魚のような生き方ができるだろうか。いや、できるかどうかではなく、したいんだ。
それから男性は熱に浮かされたように、とある物語を執筆しました。それは、空を泳ぐことのできる一匹の魚が広大な空の中を冒険し、やがて空の上の島に辿り着くというお話です。
男性が書き上げたこの小説はやがて公募に選ばれて、それがきっかけとなって男性はプロの小説家としてデビューすることが叶いました。
男性が目撃した件の魚は、空を泳ぐ魚なので、ソラウオと呼ばれています。
ソラウオは誰にでも見えるわけではありません。ある特定の人にだけ、その姿が見えると言われています。それは、困難に立ち向かおうとしている人です。
そして、ソラウオを見た人は、必ずや成功を収めることができると言い伝えられています。もしかすると、実際に何かしらの成功を収めた方々もまた、ソラウオをご覧になっていたのかもしれませんね。
「──お話はこれでおしまいでございます。お耳に合いましたでしょうか?」
「ええ、とても聴きやすかったです。体にすうっと染み渡るような、気持ちの良い感覚でした」
「ご満足いただけたようで何よりでございます」
一息入れるため、再びカクテルを口に付けた。語りの後のカクテルは、何故だか一層美味しさが増したように感じる。
「不思議ですね。マスターのお話を聴いた後にお酒を呑むと、より美味しくなったような気がします。これは何か仕掛けがあるんですか?」
すると、マスターは唇に人さし指を当てて、悪戯っぽく微笑んだ。
「残念ながら、それは企業秘密でございます」
その顔を見た途端、急に顔が火照り出した。まだ一杯目だというのに、もう酔いが回ってきたのだろうか。
思わずマスターから目を逸らす。そこで、視界の端に動く物陰を捉えた。ヒラヒラと舞う尾ひれ、銀色に光る鱗、流線型のフォルム。
「ソラウオだ……」
さっきの話に出てきたソラウオが、今まさに自分の目の前で泳いでいた。話に聴いていた通り、空中を泳ぐその姿は優雅だった。
いよいよ本格的に酔ってきたのかもしれない。ここまで酒に弱かった記憶はなかったはずだが。
「これは夢ではございません。紛れもない現実でございます」
私の心を読んだかのようなタイミングで、マスターは私の見ている光景を肯定した。
「先ほども申し上げたように、ソラウオは困難に立ち向かおうとする人にだけ見えるのです。お客様にも何か心当たりがあるのではありませんか?」
心当たりと言われて、私が思い出したのは付き合っている彼女のことだった。
大学生の頃に出会って、そこから付き合い始めてもう七年が経つ。会社勤めにも慣れて、お互いに生活が安定してきたところで、結婚を意識するようになった。
しかし、プロポーズするための勇気をなかなか持てないでいた。婚約指輪を下見したり、プロポーズのシミュレーションを何回も繰り返したりしたが、いざ本番に臨もうとしても、あと一歩のところで萎縮してしまう。
彼女が好きだという気持ちに嘘偽りはない。しかし、彼女を幸せにできるだけの器量が自分にはないのではないか、と不安に駆られる。
「お客様」
マスターに呼ばれて、顔を上げる。すると、マスターの周りをソラウオが泳いでいるのを見た。それも、一匹から二匹に増えていた。
「このソラウオは夫婦なのです。どこへ泳ぐにしても必ず二匹一緒にいます。ほら、どことなく幸せそうに泳いでいるように見えませんか?」
二匹のソラウオは、互いにぴったりとくっ付いている。なるほど、確かに夫婦と呼ぶにふさわしい姿だ。
それを見て、少しだけ不安が和らいでいくような気がした。この夫婦のソラウオのように、私も彼女と添い遂げられるか。いや、それは愚問だろう。
「ありがとうございます。なんだか、ちょっとだけ勇気が持てたような気がします」
「いえ、私は何もしておりません」
そう言って、マスターは涼しげに笑った。
カクテルを一気に呷って、最後の一滴まで呑み干す。カクテルの甘味が一層強く感じられた。
「そういえば、マスターにもソラウオが見えているんですよね。ということは、マスターにも何か困っていることがあるんですか?」
胸のつっかえが無くなったことで、少々気が大きくなったようだ。ちょっとした興味で尋ねてみると、マスターは例の悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それも企業秘密でございます」