9.私あの時、不幸でよかったです。
テオの病は、それからすぐに快方に向かった。
少し汗ばむような陽気の春。
しばらく牧場に行っていなかったが、ある時ジャンが屋敷に馬を連れて来た。
「奥様、失礼致します」
そうっと自室のドアが開けられ、マリアは振り返った。
「何か御用?」
「本日は、野外でピクニックをしよう……との、テオ様からの提案でございます」
「あら、いいわね。テオはもう大丈夫なの?」
「もう大丈夫だそうです。気分転換がしたいとおっしゃってます」
実のところ、マリアがテオと顔を合わせるのは久しぶりだった。
ジャンが言うには、感染したら悪いという一辺倒でマリアに接触したがらず、別棟で療養していたらしい。
(全くもう。私は産まれ立ての赤ん坊じゃないのよ……?)
マリアは彼に会えず少し寂しかったから、ようやく今日会えるらしいことに安堵する。
侍女らが藤編のバスケットに食器から何から全てを積め込み、馬車に乗せて行く。
マリアが玄関に出て待っていると、テオが降りて来た。
「あら、お久しぶりね」
マリアがからかうように言う。
テオは笑った。
「マリア。一緒に馬に乗らないか?」
「一緒に?」
「君を前に乗せよう。あの馬車の後ろをついて行くんだ」
「まあ……」
マリアは目を輝かせた。
「私、男性と一緒に馬に乗るの、初めてなの」
「そりゃいい」
馬車は先に出発した。
マリアは先に馬に乗り、テオがその後ろに乗り合わせる。
「あそこに、大きな樹があるだろう」
夫の指の先に、平原にぽつんと伸びた大きな樹がある。
「あの木陰でピクニックをする。使用人たちとは毎年やっている恒例行事なんだ」
「そうなのね、素敵」
マリアはテオの腕が背後から伸びて来るのを、どこか夢見心地に眺める。
草原を踏みしめながら陽だまりの中を歩く。
青々とした春の、全てが蛍光色の美しい光景。
「……まだ、君に話していないことがある」
マリアは夫を振り仰いだ。
「何のこと?」
「……マリアを初めて見た時のことだ」
マリアは前に向き直った。
「……私を?」
「王宮で行われたパーティで君を見かけたんだ。その時、君はまだアンディと一緒で」
久しぶりにその名を聞き、マリアの胸は痛くなる。
「私は最初、アンディは人当たりが良く気の利くいい男だと思っていた。次に王の親友となり寝室に入ることを許可される〝寝室係〟の貴族は、彼だと噂されていたし……けどな」
背中のこわばるマリアを慰めるように、テオは妻の背中に密着する。
「その日、私は見てしまったんだ。アンディが隠れて君を叱責していたところを。気が利かないだとか、笑えだとか、あっちにいろこっちにいろと……それはもう聞くに堪えない怒り方で。私は君を気の毒に思った。と同時に、アンディに対して腹が立った。あんな風に女を扱って、もし失いでもしたらどうするつもりなのかと」
マリアの視界がじわりと滲む。
「それがずっと心に引っかかっていた。君の悲しげな顔が、忘れられなかった。そんな時に君が離縁されたと聞いて──私は、君をひとりぼっちにしたくないと思ったんだ」
マリアは鼻をすすり、うんうんと頷く。
「私……」
マリアは努めて笑い、夫を振り返った。
「私あの時、不幸でよかったです」
テオも妻の顔を眺め、微笑んだ。
「最初から幸せにしてやれればよかったんだが」
「……いいえ」
「君を見つけるのが遅くなってすまない」
「いいんです。だってそのことがなかったら、あなたはやっぱり私を見つけられなかったと思うから」
「マリア……」
「私、今、とても幸せなんです。だから……そんなことで謝らないで」
遠くで馬車が先に着き、使用人たちがピクニックセットを広げ始める。
水色のギンガムチェックのシートの上に白木の折り畳みテーブルが置かれ、次々繰り出される白い皿に色とりどりのサラダやミートローフが並ぶ。いつもの食卓のような、豪勢なピクニックだ。
マリアとテオも到着し、馬を降りる。
と、入れ違いのようにして、執事と侍女らは馬車に乗ってさっさと引き返してしまった。
マリアがぽかんとその馬車を見送っていると、隣でテオが言う。
「帰ってもらった」
「……はい?」
「君と二人きりになりたかったから、用意出来たら屋敷へ帰れと言っておいたんだ」
「!」
マリアは赤くなる。
テオは妻の手を取ると、大きな樹の下へ引き込んだ。
マリアは樹に背中を預けた。テオが前のめりに屈んで、その耳元に囁く。
「マリア、君は私を好きだと言ってくれた」
額と額が触れ、マリアは頬を紅潮させながらも頷いた。
「それを聞いた時……本当に、舞い上がるほど嬉しかったんだ」
「テオ……」
「私も君を愛している」
マリアは夫の頬を撫でた。
目と目があって、思わず二人は笑う。
どちらも、一時は不幸のどん底にいた。
その経験があったから、こうして出会え、一緒にいられるようになったのだ。
テオが感慨深そうに呟く。
「……私も、あの時不幸でよかった」
それを合図に、二人はキスをする。
互いの空白を埋めるように、何度も何度も。
陽だまりに、二人の心が溶けて行く。
不幸に躓いたことも、愛されなかった寂しさも、長年苦しまざるを得なかったことも。
今、全てが糧になり、二人はこうして愛し合えたのだ。
二人は向かい合って食事をし、寄り添って陽光にまどろむ。
小さな幸せが今、大きな樹の下に芽吹き始めていた。