53.ブリュンヒルデ女王杯
あれから一年後。
女王の婚姻の儀は、快晴だった。
マクレナン王宮前は人々でごった返し、城のバルコニーから披露宴を終えたばかりの真っ白なドレスを着たブリュンヒルデと白いタキシード姿のパウルが出て来ると、民衆は歓喜の声を上げた。
国中が祝賀ムードに溢れ返っている。道端には色紙と花吹雪の跡。マリアとテオはそれらを踏みしめながら、忙しく馬車へと舞い戻って行く。
「ああ、忙しいわ。午後のレースまで本当に時間がない!」
「それは女王とて同じだぞ」
馬車は街を抜け、草原をひた走った。
行き先は、リューデル競馬場。
マリアは女王の婚姻の儀を記念して新設された「ブリュンヒルデ女王杯」で復帰騎乗すべく、タイトなスケジュールでその一日を過ごしていた。
出産後一戦目に騎乗するのは、パウル王配の所有馬シュネーバルツァである。
婚姻の儀に参加し豪奢なドレスのマリアは、競馬場に着いたら乗馬服に着替えなければならない。
競馬場内は既に人でごった返していた。これから更に客は増えるであろう。
女王の結婚を祝うための、一戦。
競馬場には既に執事のジャンと使用人たちが待ち構えており、まだ歩き始めたばかりのマリウスと手を繋いで待っていた。
テオは更衣室の前でマリアと別れると、ジャンと合流した。
「おお、マリウス。何が起きているのか分からんか?今日はな、お前のママがレースに出場するのだ」
「……ママ?」
「そうだ。馬に乗って、走るんだぞ。あの円の中をな!」
「おぉー!ママ!」
はっきりとは分からないが、マリウスは何となく母の晴れ舞台を予感したようだった。
テオはマリウスを抱き上げる。
その姿で歩いていると、方々から声をかけられた。
「テオ様!ようやく奥方が復帰ですね!」
「シュネーバルツァの様子はどうですか!?」
テオは苦笑いでその声の中をすり抜け、事前に指定された王族席に座る。
マリウスは父に抱っこされて上機嫌だ。
その隣には、女王と王配のため、花で彩られた席が用意されていた。
本日最後のレース。
婚姻の儀を終えたばかりの女王が王配とやって来て、場内は地響きがするほどの歓声が上がる。
ブリュンヒルデがテオの隣に座ると、出走馬たちがパドックを回り始めた。
その中には、あのシュネーバルツァもいる。
「テオ、お久しぶりですね」
「おお、女王陛下。これはなかなか歴代の王の婚姻の儀にはない余興ですな」
「そうね。でも、これはマリアさんへの感謝の念もあって」
「感謝?」
ブリュンヒルデは頷いて、前を向く。
「心身ともに疲れ果てていた時、ちょうどマリアさんのレースを見たんです。女性として道を切り開いた人が、怪我からの復帰を果たした時──ああ、あの人もとても苦労したんだろうな、っていうことが、じんわり身に染みて来たの」
テオは頷いた。
「あの人と話してみたいって思った時、きっと女王になる覚悟が固まったんです。だから、これは私がその覚悟を忘れないための、記念レース」
騎手が、馬に乗ってやって来た。
パウルは前のめりに、自らの馬を見つめる。
およそ二年ぶりの乗馬服姿のマリアが、まっすぐ前を向いてシュネーバルツァに乗っている。
「あの馬を買った時、こんな未来が待っているなんて思わなかったなぁ」
テオは笑う。
「本当に、まさかだな」
「白馬っていうのも好きな点だったんですが、やっぱりマリアさんですよ。あの騎手に乗って貰いたいと思って買った馬なんですから」
「そうなの?パウルったら、そんなこと一言も話してくれなかったじゃない」
「あれ?そうだっけ……まあ、とすると私の人生が変わったのも、マリアさんのおかげかもしれませんね」
マリアは馬に何か囁いている。と、周囲から声が上がった。
「マリアはいっつも馬に何か話しかけてるよなぁ」
「あれが馬を速く走らせる秘訣なんだろうか?何て言ってるんだろうなぁ」
マリアはシュネーバルツァに、赤い唇でこう囁いていた。
「あなたの主人の結婚を祝って走りましょう」
白馬は嘶いた。
「……でもこのレースは、あなたが主役。これは、あなたの晴れ舞台よ」
白線の内側に、馬が並ぶ。
歓声と拍手の中、旗が振り下ろされた。
シュネーバルツァが、途端に出し抜く。
マリアは呆気に取られたが、ふと笑ってしまった。
観客からも声が上がる。
「ほかの馬しっかりしろー!」
「王配の馬に忖度すんなーっ!」
どうやらマリア以外の騎手は皆、腰が引けているらしい。
それならば、笑ってしまうぐらいの勝利を。
マリアは前に誰もいない状態で、逃げ切ることに専念する。
シュネーバルツァの新馬戦の時を思い出しながら──誰もいない道を。
「ママー!」
心なしか、息子の声が聞こえた気がした。
マリアは念じるように言う。
「ママ、頑張るよ」
もう誰も、マリアの道を塞ぐ者はいない。
いるのは、マリアの後ろから声援を送ってくれる人だけだ。
追い立てられるように、猛スピードで走り抜ける。
マリアは走りながら、ひょっとしてこれはシュネーバルツァの持っている最速記録を超える好ペースなのではと気づく。
観客が言うような忖度などでは、決してない。
誰も、彼女のスピードに追いつけていないだけなのだ。
あの新馬戦から二年、シュネーバルツァも歳を取ったが、それでもこのハイペース。
馬も、自身の晴れ舞台をよく分かっているらしい。
再びの白線。
「……戻って来た!」
シュネーバルツァはぶっちぎりの速さでゴールを決めた。
馬のスピードを流しながら、観客に向かってマリアは感謝を込めて帽子を振る。
巻き起こる拍手。女王と王配も、立ち上がって拍手をしてくれている。
テオがマリウスを抱き、息子もみんなを真似て手を叩いて喜んでいる。
その時マリアは、自分のずっと見たかった景色が広がっていることに気づいた。
そこに立っているという幸せ。
「ありがとう、みんな」
今まで出会った人々、誰か一人でも欠けていれば、マリアはきっとここには立てていない。
全ての人に、愛を。
「私、今、とても幸せです」




