生きている?
そして俺は、気が付いたら知らない場所にいた。これがあの世と言うものなのか? 全然知らない、アマゾンの奥地みたいな密林だった。見た目だけじゃなくて、なんだかしけった匂いがして、間違いなく森の中らしい。一瞬、死んだのではなく超常現象によって、本当にアマゾンに来てしまったのではないかと思った。しかしそうではないことはすぐにわかった。
俺は全裸だったが、小さな子供になっていた。裸足で歩いても、何も痛くない。手近な木を軽く殴ってみたら、発泡スチロールを殴ったような手ごたえで、木は一瞬ではじけ飛び、ばらばらの木片になった。
ここは俺がいた現実世界のアマゾンではない。少なくとも俺の体は子供でもなくこんなわけのわからない頑強さもなかった。刑務所で暮らして筋肉も落ちていた。なるほど、つまりこれはあれだ。死ぬ直前に見る走馬燈と言う奴なのだろう。何故来たこともないアマゾンなのかはわからないが、子供になっているんだから、それ以外にはないだろう。
なら、何もすることはない。死刑が執行されるまで、短いのか長いのかともかく、俺は五年間、ただただ本を読んで、学んでいた。意味がない、今更なことだとわかっていても、他にすることもないので、小学校から勉強をやり直した。真っ当な人生で、真っ当に勉強して学校を進んで真面目に就職していつか家族を得て幸せになる、そんなことを妄想して、そして今日、死刑執行に呼び出されて、当たり前のことに絶望した。もうやり直せない、糞みたいだった人生に絶望した。
今更だ。走馬燈で、しかも現代でもないただの森の奥で、どうしようもない。これがせめて、走馬燈でも俺の子供時代だったなら、夢だとわかっていてももう一度楽しんだかも知れないが、そうではない。ならもう、やりたいこともない。ここでじっとして、走馬燈が終わり、本当に命が終わるのを待とう。
俺はただその場に寝転がり、目を閉じた。
そして、それから何日が経ったのか、判別できない。じっとしていても、寝ることはなかった。太陽が動くのはわかったから、この世界で時間が経っているのは間違いないはずだが、特にお腹がへることもない。睡魔も疲れも何もない。
ただじっとしていることに、体は問題なくても、気持ちが疲れてきて、そろそろ動こうか、と思ったところでがさごそと音がした。
「……」
頭をあげて視線をやると、そこには見たことのない大きな犬がいた。狼とか、そう言うやつか。あまりにデカい。
ぐるるるるぅ、と低く小さな唸り声を上げている。こいつに食われるのか。恐怖はなかった。すでに十分恐怖した。絶望した。むしろ、このいつまで続くかわからない夢を終わらせる神聖なお告げのようにすら思えた。
そいつは俺に顔を寄せて、ふんふんと匂ってくる。獣くさい。この森自体の濃厚な匂いにも慣れてきたが、獣はまた違う。それでも獣の匂いは、なんとなく懐かしい気がした。くさいが、まるで、大昔この匂いに包まれていたような妙な安心感もある。
「あ」
まるで、ではなかった。そう言えば昔、子供の頃、機嫌が悪く俺をいつものように折檻して家から追い出されて、行く当てのない俺は、近所の犬小屋に避難していた。そんなことを今更、思い出した。
急に声を上げた俺に、犬はびくっとして一度顔を離した。その様子を見ながら、あの犬はあれからどうなったんだろうとぼんやり考えていた。そして勢いよく迫ってくる犬の口内に、意外と綺麗なものだと感心した。
がきっ。と鈍い嫌な音がした。俺の頭に向かって噛みついてきた犬は、きゃいんと本当に犬みたいな声をあげて飛び上がって後退った。
顔や髪を触ってみる。少し濡れているので、間違いなく一度俺の頭を口の中に入ったのだろう。しかし、何か挟まれたような感覚はあったが、ちっとも痛くはなかった。
仕方なく、起き上がる。犬は警戒した声を出しながらも、伏せをしている。俺の頭を間違いなく人のみにできる大きな体でそうしているのは滑稽だった。
そのまま立ち上がる。馬鹿馬鹿しくなった。いったいいつまでこの夢が続くのかわからないが、ただ漫然と待つのは飽きた。あの犬で俺を殺して終わりでないなら、何かしら動かないといけないだろう。
とりあえず歩く。すると少し上に、果実が実っているのが見えた。空腹は感じないが、食べられるのだろうか。そう言えば尿意とかもない。木を登る。幹を両手でつかむと、大した力を入れていないのに体が持ち上がる。まるでこの世界の重力がないようだ。
するすると木を登れた。下から見たら、そう高くないと思っていた木の実だが、ある程度の太さがあるところまで登ってもさらに先、細い弦のようになっている先になっている。重力がないよう、とはいっても、世界的にないわけではないらしくて、普通に俺の体重によって枝はきしんでいる。ここから先は乗ってもおれてしまうだろう。
木の枝に手をかけて引き寄せ、ぼきりと折れた。思いのほか、まだ固かったらしい。とにかく引き寄せる。芋づる式に結構な量だ。一つもいでかじってみる。
かりっとした歯ごたえ、と一瞬思ったが、中からは溢れるほどの水分だ。ほんのり甘く、割と美味しい。
割と、だ。もっと味の強い、美味しいものを何度も食べたことがある。それくらいしか、幸せだと感じられることはなかった。だけど、この果実は、久しぶりの味で、何だか久しぶりに深呼吸したような、清々しい気持ちになった。
味はわかるらしい。つまりちゃんと胃とか内臓は前と同じであるらしい。なのに空腹は感じない。食べたことで胃が反応する感覚もない。美味しいとは思うが、特にむしゃぶりつきたいと言う欲求もない。
まぁ、気晴らしにはなるだろう。とりあえずそのまま飛び降りた。落ちるスピードは普通だ。正直少しビビったが、着地は数センチの段差から降りたくらいの衝撃だ。音はなったが、体感での衝撃はない。
どうも、自分の体だけがおかしいらしい。あの巨大な犬の力でも痛くないほど頑丈で、軽い力で気が吹き飛ぶほどの怪力、そして睡眠も食事もいまだ必要にならない体。
あまりに時間が長いし、味も匂いもわかる。さすがにこれはもう、長い夢ではないようだ。ではあの世か? しかしこんな生き物がいるのは不思議だ。この犬は俺を食べようとして、無理だと悟ると怯えたようだったと言うことは、それなりに生理的欲求や肉体損傷がありえると言うことだろう。
あ、まぁ、あの世と言っても天国なわけないからそれはいいのか。いやでも、地獄なのだとしたら、こんなに何不自由ないのはおかしいだろう。
いったい何なんだ、ここは? 俺はそもそも、生きているのか?
ぐるぅ。と鳴き声がした。振り向くと、さっき俺を襲った犬がいた。ついてきていたのはわかっていたが、まだいたのか。お座りして、じっとこっちを見ている。ん? こっち、と言うか、もしかして、見ているのはこの果実か?
「……食うか?」
どうせ、食べなくても問題ない。
食べかけだが、そのまま差し出してみる。犬はすっと近寄ってきて、くんくん匂いを嗅いでからそっと果肉にかみつき食べだした。手を離して地面に落とすと、犬はその場に伏せるようにして食べている。
「……もっと、食うか?」
オンッ
犬は応えるように小さく鳴いて、尻尾を揺らした。前にしゃがみ込み、全部まとめておいてやる。犬は夢中で食べ始めた。
「……」
何となく、好奇心だった。刑務所にはいるずっと前から、何年も動物に触れてこなかった。いや、そもそも、人間とだって、優しく触れることなんてなかった。
そっと、俺は思いのまま手を伸ばして、犬の頭に触れた。ゆっくりと撫でる。犬は気にすることなく食べている。もっとふさふさかと思ったら、思いのほかごわごわしている。ぎゅっと抑えると、犬の頭の形が分かる。温度が、伝わってくる。
ワォン。食べ終わった犬が顔をあげて、一鳴きして俺にのしかかってきた。あれ、また襲われるのか? と思ったが、すぐにわかった。じゃれている。俺の体を上から覆いかぶさるようにして、顔をべろべろ舐めてきた。くさいが、果物の甘い匂いで誤魔化されて、だいぶましだ。
「お、おい、やめろよ、くすぐったい」
キュー
鼻に抜けるような甘えた声を出された。それに、殆ど無意識で俺はまた頭を撫でて応えた。
暖かい。まるで、やさしさに包まれたみたいだ。その熱に、俺はまだ生きているんだと確信した。そして何故か、自分でもわからないが、泣けた。